十国春秋十國春秋卷四十 前蜀六 列傳(馮涓・周庠・韋莊ほか)
呉任臣の撰。前蜀高祖の文臣三人(馮涓・周庠・韋荘)と、創業を支えた武将たち(晋暉以下十一人)の伝を収める。
馮涓
- 字は信之。先祖は婺州東陽の人で、唐の吏部尚書馮宿の孫にあたる。
- 唐の大中四年(850年)に博学宏詞科の進士に及第して名声を得た。この年、暹羅(シャム)国が高楼を築き、使者に金銀財宝を持たせて記文の撰述を請うたので、当時の人はこれを名誉とした。
- 無官から京兆府参軍となった。折しも宰相の杜審権に江西赴任の内示が下り、詔が出る前にひそかに涓を召して招聘の意を告げ、口外を戒めた。ところが涓は友人の鄭賨にこれを漏らし、賨は名刺を捧げてただちに審権に祝いを述べに行った。審権は涓の軽率さを見下し、随員から外した。
- 出発の日、涓は霸橋で見送りに立ったが、審権はまったく打ち解けず、深く一礼して励ましの言葉を述べただけであった。涓はこれを機に商山に数年隠棲した。
- 昭宗の時に祠部郎中となり、眉州刺史に抜擢された。しかし田令孜・陳敬瑄が朝命に背いて赴任させなかったので、涓は成都の墨池で畑を作って自活し、「懐秦賦」と「蜀駄引」を著して志を示した。
- 高祖が西川に藩鎮を分かたれると、涓を節度判官に推挙した。
- 天復年間(901年〜)、両川では賦税が重く、人々は口ごもって物が言えなかった。涓は誕生日の頌辞を献じ、まず功徳を述べたうえで、民が重い徴税に苦しむさまを説いた。高祖は恥じ入って「君のような忠諫があれば功業に何の憂いがあろう」と謝し、金帛の下賜を格上げした。
- またこのころ、諸将の多くが岐王李茂貞の衰えに乗じて鳳翔を攻め取るよう勧めた。涓は「梁と晋が虎のように争っており、両立しない。もし一方に統一されて蜀に兵を向けてくれば、諸葛孔明でも防げまい。鳳翔は蜀の垣根であるから、和親するほうが得策だ」と論じた。高祖はその言を良しとし、ついに茂貞と結んだ。
- 梁主が唐を簒奪すると、将吏はみな高祖のもとへ即位を勧め、「天が与えるのに取らねば、かえって咎を受ける。大王は皇帝の位に即いて西土に号令すべきだ」と述べた。涓ひとりは異議を唱え、蜀王のままで制を称するよう請い、「唐朝が興れば臣を称して差し支えなく、簒奪者がいる間は悪に与しない」と論じた。
- 高祖は結局みずから帝位に即いたが、涓の言葉が厳正で筋が通っていたため咎めることはできなかった。涓はこれ以後、門を閉ざして出仕しなかった。
- 永平初(911年)、高祖がしきりに出兵すると、涓は上疏した。その趣旨は、古の用兵は威を誇り殺戮をほしいままにするためではなく民の安寧と財の豊かさを本とするものであること、いま朱梁が暴虐をふるい、雍都も洛邑も荒れ果て、江南・山東はそれぞれ割拠して、力を競えば誰にも力があり兵を用いれば誰にも兵がある状況であること、一地方の強さで万全の策を挙げようとすれば、陛下の憂いは秦・雍ではなく身近な足元にこそ生じるであろうこと、というものであった。
- 御史大夫まで歴任して没した。著書に『南冠集』『龍吟集』三巻、『長楽集』十巻があり、ほかに「檄龍文」「大虫牓」「険竿歌」を撰し、いずれも文采に富む。
- 涓は滑稽を好み、言葉に諷刺が多かった。
- 生涯とりわけ上奏文に巧みであった。これより先、景福年間(892年〜)に高祖が陳敬瑄と田令孜を殺したとき、涓に上表の草案を作らせた。その文は、檻から虎が出れば孔子は他人を責めず、道で蛇を斬った孫叔敖も自分の利のためではなかったと故事を引き、専殺は境外では行われないもので、機を逸することを恐れたのだ、と述べる。当時、朝廷でよく口ずさまれた。
周庠
- もと唐の龍州司倉。高祖が利州刺史であったとき、庠は客分として従った。
- 当時、楊守亮が山南西道に鎮していて、しきりに高祖を召した。高祖は恐れて行かず、庠に相談した。庠は「唐の命運は尽きようとし、藩鎮は互いに食い合っている。公は勇にして謀があり士卒の心を得ている。大功を立てるのは公をおいて誰か。しかし葭萌は四方から攻められる地で長く安んじがたい。閬州は辺鄙だが人は富み、楊茂実は陳敬瑄・田令孜の腹心で職貢を修めていない。その罪を上表して兵を挙げて討てば、一戦で捕らえられる」と説いた。高祖はこれに従い、ついに茂実を逐って閬州を占拠した。守亮はこれを抑えられなかった。
- のち高祖が陳敬瑄と攻め合ったが、成都はなお強く、退いても掠奪する先がないため兵を退こうとした。庠は不可とし、「邛州は城も堀も堅固で、数年分の食糧がある。ここを根拠地とするに足る」と述べた。そこで高祖は庠に上表を草させ、敬瑄討伐によって罪を贖いたいと請い、あわせて邛州を求めて許可を得た。
- ほどなく唐の僖宗は韋昭度に敬瑄討伐を命じたが、三年たっても落とせず、朝議は兵を収めるほうがよいとした。高祖が罷兵の詔書を見て「大功が成ろうとしているのに、なぜ棄てるのか」と言うと、庠は「韋公に朝廷へ帰ってもらい、単独で成都を取って領有すれば、両川は平定するに足らぬ」と勧めた。こうして昭度は東へ帰り、高祖は両川を併せ持つに至った。庠の謀るところが大きかった。
- 累進して御史中丞となり、武成三年(910年)に中書侍郎・同平章事を拝した。
- 後主の即位後、内給事の王廷紹らが権を握ると、庠は切に諫めたが聞き入れられなかった。まもなく司徒・同平章事に進み、武平軍節度使を領したが、ほどなく病没した。
- 子の仁矩は駙馬都尉となった。多少の文才はあったが凡庸さが甚だしかった。国が滅んだのちは乞食の仲間に入り、一人を先に立てて市中で自分の家柄と官歴を触れ回らせ、憐れんで銭数百をくれる者があると皆で飲み食いして楽しんだ。成都の人はみなこれを嘆いた。
韋莊
- 字は端已、杜陵の人。唐の臣韋見素の後裔で、曾祖父の韋少微は宣宗の中書舎人であった。
- 荘は闊達で小事にこだわらず、幼くして詩をよくし、艶麗な詩句に長じた。
- 科挙を受けに行ったとき黄巣の乱に遭い、「秦婦吟」を作った。「内庫は焼けて錦繡の灰となり、天街は公卿の骨を踏み尽くす」の句があり、世に「秦婦吟秀才」と称された。
- 乾寧年間(894年〜、年次は原本欠字)に進士に及第し、判官となり、左補闕に進んだ。
- 高祖が西川節度副使であったとき、昭宗は荘と李洵に両川を宣諭させ、荘はそのまま蜀に留まり、馮涓とともに書記を掌った。文章は推敲を要さずに書き上がり、しかも情に適うことが多かった。
- 当時、民を苦しめる県令があり、荘が高祖のために作った牒文に「衰弊の時にあたっては衰弊を安んずるがよい。傷ついた民に、重ねて傷を作らせてはならない」とあり、当時よく引き合いに出された。まもなく起居舎人に抜擢された。
- 天復年間(901年〜)、高祖は荘を朝貢の使として遣わし、あわせて梁王朱全忠とも誼を通じさせた。荘の言葉は要所を突き、全忠の心をかなり捉えた。全忠は使者の押牙王殷を返礼に遣わした。
- 昭宗が弑逆されると、全忠は告哀使の司馬卿を派遣して蜀に宣諭させた。興元節度使王宗綰が早馬で報告すると、高祖は内心かなり唐室の復興を志した。
- 荘は「兵事は大事であり、あわてて行うべきではない」として、高祖に代わって宗綰への返書を作った。その趣意はこうである。自分は長年主上の恩を受けており、衣の襟に賜った宸筆はなお新しく、墨詔の上の涙のあとも残っている。犬や馬でも主に報いるのに、まして人の臣子ならなおさらである。去年三月に東へ帰って以来、続けて二十通の表を奉ったが、一人の使者の返報もない。天地が隔たり、叫んでも及ばない。主上が穀水に至ったとき臣僚と宮僚千余人が汴州の手で殺され、洛陽に至って果たして弑逆に遭ったと聞く。この報せを聞いてから五臓は崩れる思いで、戈を枕に夜明けを待ち、主上のために仇を報いようと考えている。いま使者が来ても何を宣告するというのか、と。宗綰にこの意を告げさせると、司馬卿は恐れ入って引き返した。
- 翌年、高祖は蜀に行台を立てて勅を承けたかたちで官爵を封拝し、荘を安撫副使とした。
- まもなく梁が唐を簒って改元すると、荘は諸将佐とともに高祖に即位を勧め、「大王は唐に忠であっても、唐はすでに亡んだ。これこそ天が与えるのに取らぬというものだ」と述べた。そこで吏民を率いて三日哭したのち、高祖を擁して皇帝の位に即けた。
- 荘は左散騎常侍・判中書門下事に進み、建国にあたっての制度・号令・刑政・礼楽はすべて荘が定めた。
- ほどなく梁がふたたび誼を通じてきたが、その書で高祖を兄として立てた。荘は書を見て笑い、「これは神堯(唐の高祖)が李密を持ち上げたのと同じ手だ」と言った。その機知はおおむねこうした類であった。
- 累進して門下侍郎・吏部尚書・同平章事に至り、武成三年(910年)に花林坊で没し、白沙の南に葬られた。この年、荘は日ごと杜甫の「白沙翠竹 江村の暮/相送る柴門 月色新たなり」の句を口ずさんで止まなかったので、人々は詩讖であったと考えた。文靖と諡された。
- 著作に集二十巻、箋表一巻、『蜀程記』一巻がある。ほかに『浣花集』五巻があり、これは弟の韋藹が編んだもので、荘の住居が杜甫の草堂の旧址にあったことから名づけられた。
- 荘には文才ある美しい侍女があり、高祖は宮人に詞を教えさせるという口実で無理に奪い去った。荘が「謁金門」の詞を作って思いを述べたところ、侍女はそれを聞いて食を絶って死んだ。
- 荘はまた唐人の美しい詩句を集めて『又玄集』を編み、自序を付した。その趣旨は、謝朓も曹植も名を残したのは一句一篇によることを挙げ、良い作は多量の中からごくわずかしか採れないものだと述べ、砂を淘り玉を琢くように選び抜いたこと、頷の下の珠は十斛も求められず、管から豹を見ればまだら一つを取るにすぎないこと、左思の十年三賦にも瑕はあり劉穆之が一日に百通を書いてもすべてが美文ではないこと、班固・張衡・屈原・宋玉にも冗語があり沈約・謝朓・応瑒・劉楨にも拙句が多いこと、佳作を漏らすのは惜しいがすべてを載せるのは難しく、斧を持って山に入って良材だけを求め、瓶を提げて海に行って井の水を汲むようなものだ、と説く。要するに、玉盤に受ける露のように精髄だけを掬い取ったという編集方針の弁である。
- 荘の文章は非常に多いので、ここには載せきれない。
史論
- 馮涓と韋荘はともに文芸の世界にきらめく傑物であった。一方は蜀王として制を称するよう請い、一方は帝位に即いて梁に対抗するよう勧めた。議論は分かれたが、主君を思う心は同じであった。
- 周庠は帷幄で謀議に参じ、悠然と論を立て、直言して隠すところがなかった。ついに国政の要を握った。いわゆる社稷の臣とは、こうした人物ではないか。
晉暉
- 許州の人。若くして胆力と勇気があり、家業に励まなかった。
- はじめ高祖とともに盗賊となり、ひそかに許昌の民家を襲ったが発覚し、夜逃れて武陽の古い墓の中に隠れた。すると人が墓中の鬼に「潁州で無遮会がある。一緒に行かないか」と呼びかけ、墓中から「蜀王がここにおられるので、お供できない」と答える声がした。二人は内心喜び、「誰が蜀王なのか」と語り合った。まもなく人が飯を持って来て高祖の前に置き、「これこそ御飯です」と言ったので、高祖はますます喜んだ。
- 暉は高祖を幼名で呼び、「行哥よ、その風貌は常人と異なる。必ず非凡な大事を成すだろう」と言い、以来心を傾けて仕えた。
- 唐の僖宗が蜀に行幸すると、暉は高祖および韓建・張造・李師泰らとそれぞれ一都の兵を率いて行在所に馳せ参じた。僖宗は大いに喜び、「随駕五都」と称した。
- 長安に還ると、暉と高祖を神策軍使として神策軍を率いさせ、宿衛にあたらせた。
- 光啓二年(886年)、僖宗がふたたび興元に行幸すると、高祖は長剣隊五百を先鋒として奮戦し、玉璽を背負って進んだ。暉もともに西へ向かい、清道斬斫使をつとめた。
- まもなく観軍容使の楊復恭が田令孜の一党を退けたため、暉は集州刺史として出された。
- 高祖の即位後、暉は功を重ねて弘農郡王に封じられた。高祖はしばしば暉と痛飲し、腕を取って昔語りをした。暉は頭を下げて「武陽の墓の中で聞いた言葉は、やはり偽りではありませんでした」と言い、高祖は笑って「あのころはここまで考えなかった」と応じた。
- 通正元年(916年)に没した。高祖はみずから弔問に臨み、厚い礼をもって遇した。
李師泰
- はじめ高祖・晋暉らとともに唐僖宗の「随駕五都」の一人であった。久しくして忠州刺史として出された。
- 最後は高祖に従って西川に赴き、蜀州刺史・節度判官を歴任し、司徒を加えられて没した。武成元年(908年)、高祖は担当官に追贈の礼を議させた。
- はじめ乾寧年間(894年〜)、師泰が成都の錦浦里に邸宅を営んだとき、煉瓦が非常に堅固な大きな塚があった。煉瓦の外から金銭数十枚が出た。各々の重さは十七、八銖、直径は一寸七、八分で、円形で穴がなく、縁から二分のところに規(円)の紋様が浮き出ており、その内側の両面にそれぞれ蕃字二十一字が鋳込まれていた。
- 急ぎ使者を青城山に遣わして道士杜光庭に問うと、光庭は地形を測って「石笋の南百歩ばかりの所である」と述べ、石笋がもとこの墓の門闕であったと知れた。以後たびたび霊異が現れたので、高祖は祠堂を改めて設け龍神として祀ったところ、以後は怪異が絶えたという。
張造
- 龍州の人。唐の僖宗に仕えて衛将軍を拝した。「随駕五都」の一人である。まもなく神策軍使を授かった。
- 僖宗が興元に行幸したとき、高祖に兵を率いて三泉に駐屯させ、あわせて造と晋暉に四都の兵を率いて黒衣に駐屯させ、桟道を修復して往来を通じさせた。
- まもなく楊復恭に忌まれ、万州刺史に退けられた。
- 当時、秦宗権の一党の常厚が白帝に駐屯していたが、成汭の将許存に破られて万州へ逃れた。造はあらゆる手を尽くして防ぎ、厚は綿州へ走った。万州はこのおかげで保たれた。
- のち高祖に従って茂州刺史となり、まもなく没した。武成元年(908年)、高祖は旧功を記して担当官に追贈と加恩を命じた。
綦母諫
- 荊南の人。漢の廷尉綦母参、唐の著作郎綦母潜の後裔である。
- 高祖が蜀に入ったとき、諫はその麾下に属して親校となった。
- 光啓年間(885年〜)、高祖が閬州を破ってその地を占拠すると、諫は士を養い民を愛して天下の変を待つよう説いた。
- のち高祖が陳敬瑄と長く戦って決着がつかず、兵を退いて帰ろうとしたとき、諫は周庠とともに強く不可を主張し、ついに成功に導いた。
- のち累進して某官(原本欠字)に至って没した。
張虔裕
- 高祖に従って西川に入り部将となった。
- 光啓年間(885年〜)、高祖が閬州を襲って刺史楊茂実を逐い、その地を占拠して自ら防禦使と称し、軍勢が日に日に盛んになったころ、虔裕は「使者を遣わして天子に上表し、大義を掲げて西土に号令すべきです。そうすれば事は必ず成ります」と勧めた。高祖はその言を容れ、以後は向かうところ勝ち続け、ついに偏覇の業を開いた。
張琳
- 許州の人。唐末に眉州刺史となり、通済堰を修めて一万五千頃の田を灌漑した。民はその恵みを受け、「前に章仇あり、後に張公あり。水利を疏し決して、粳稲は豊かなり。南陽の杜詩も同じくはできぬ。なぜ彼を用いて天工に代えぬのか」と歌った。
- のち高祖に仕えて永平節度判官となった。大順初(890年)に邛南招安使を領し、邛州が刺史毛湘を殺して降ると、琳を知留後とした。城や堀を修復し、彝や獠の諸族を安撫し、蜀州・雅州を経営した。この功は琳が最も大きい。
- まもなく上奏によって節度副使を授かり、五万の兵を率いて東川を攻めた。東川平定の功を論じて累進し、武信軍節度使となったが、ほどなく在官のまま没した。
- 武成元年(908年)、高祖は即位して詔を下した。その趣旨は、張琳は剛直で才略が縦横であり、今日の大業の基は彼の功績によるものであるが、天子に朝する禄を享けぬまま逝去したのは痛惜に堪えない、その功を思って厚く報いるべく太尉を追贈して霊を慰め、嗣子には正官を加えて章綬を賜う、というものであった。
張勍(張劼)
- はじめ高祖に仕えて牙校となった。高祖が成都に入るとき、劼を都虞候に任じ、軍士に「私はすでに張劼を虞候とした。おまえたちはその令を犯してはならない。もし劼が捕らえて私のところへ連れてくれば助けてやれるが、殺してから報告されたら私にも問いただしようがない」と戒めた。
- 入城の際、軍士が略奪を働いたので、劼は百人を殺してこれを止めた。
- のち累進して眉州刺史となり、没した。武成元年(908年)に張造らとともに追贈された。
- 劼は勇敢で決断力があり、剛情で殺戮に果断であった。日ごろから人の胸を鞭打つことが多かった。
- 眉州を治めていたとき、姿かたちがすぐれ聡明で無量寿経を講ずる女僧がいた。劼が辱めようとしたが、女僧は死をもって拒み、罵り返した。劼は歯を折らせ、「父と同じことだ、まして蝦蟇のような顎などなおさらだ」と言ったという。その横暴はこのようであった。
周德權
- 許州の人。順徳皇后の弟である。高祖に従って西川に至り、戦功によって眉州刺史に移った。
- 乾寧年間(894年〜)、高祖は顧彦暉と東川を争い、五十余度の戦いでも決着がつかなかった。徳権は高祖に説いた。「公と彦暉の東川争いは三年に及び、士卒は矢石に疲れ、百姓は輸送に困窮しています。東川では群盗が多く州県を占拠して彦暉の外応となっています。彦暉は臆病で謀がなく、その場しのぎを図って厚利で群盗を釣り、その救援を頼んで堅く守っているのです。いま人を遣わして賊帥に禍福を説き、帰順した者には官を賞し、服さぬ者には兵で威せば、彼らはかえって我らのために用いられましょう」。高祖はこれに従い、彦暉はついに孤立して敗れた。
- 久しくして眉州刺史に改められた。
- 梁が唐を簒うと、徳権は上表して讖文を解いた。「李祐西し、王逢吉昌、土徳兌興、丹当たるなし」という讖について、「李祐西」は唐の滅亡、「王」は王氏が西方に興ること、「逢吉昌」の逢の字は殿下の御名(王建の建に通ずる)、「土徳」は坤の方位、「兌興」もまた西方、「丹莫当」の丹は朱で、朱梁が殿下に対抗できないことを指す、と説き、天命に応じて帝位に即き、天地に主を、人神に依るところを与えるよう願った。高祖は大いに喜び、「私を成すのは叔父にあたるこの人だ」と言った。
- 高祖の即位後、累進して太保・中書令となり、永平元年(911年)に没して太師を贈られた。
李簡
- もと高祖の牙将。大順二年(891年)、楊守厚が梓州を攻め、顧彦暉が高祖に援兵を乞うと、高祖は華洪と簡らに軍を率いて救援させ、簡を行営都指揮使とした。
- 景福元年(892年)、楊晟の将呂蕘を斬って功を立てた。続いて鍾陽で楊守忠を迎え撃ち、また銅鉾で楊守厚を破り、斬獲は数えきれなかった。
- のち邛州刺史となって没し、武成元年(908年)に勅によって追贈された。
山行章
- 一名を章という。晋の山濤の後裔と自称した。唐末に眉州刺史となった。
- 眉州にはもともと羅城(外郭)がなかったので、行章は五県の力を合わせて築いた。周囲は八里あまり、臥牛城と名づけられた。
- 陳敬瑄の乱のとき、行章は新繁で高祖を防いだが敗れ、さらに広都で高祖に破られた。まもなく降伏を請い、高祖の麾下に属して戦功を挙げた。
- 高祖が成都を包囲していた日、突然、青い衣の神が大きく口を開ける夢を見た。行章に問うと、行章は「青衣は蜀の地名です。塁内にはもと青衣祠があります。いま成都では子を交換して食らい、城壁を守りながら泣くありさまで、祠廟の祭祀は久しく絶えています。神が口を開けたのは、土地の神が公に供物を求めているのであり、また唇と歯を開いて心中を明かす兆でもあります」と答えた。果たして十日あまりで成都は降った。
- 乾寧四年(897年)に都押牙を授かり、黎州に出鎮した。
- これより先、黎州と雅州の間には劉王・郝王・楊王と称する浅蛮の首領がおり、西川は毎年絹三千匹を給して南詔の虚実を探らせていた。久しくして辺境の将の多くは諸蛮と結んでこれを自分の重みとした。ここに至って高祖は旧来の賜与を絶ち、行章が蛮と通じていた事実を突き止め、斬って晒した。
李稠
- 先祖は京兆の人。父の李逢はもと唐の左衛兵曹参軍。
- 稠ははじめ梁に仕えて商州刺史となったが、まもなく蜀に来た。高祖の開国に際して佐命の功臣に列し、左衛将軍となった。
史論
- 晋暉ら諸人はみな同時代に高祖に従って興った、国家の腹心であり爪牙であった。その半ばが太平の盛世を見ずに終わったのは、天命であろう。
- 高祖の旧将にはほかに奉礼の劉璋、田威、張全真、蓋獲、張行立、韓在らがいるが、その事跡は伝わるところが乏しいため、本篇には収めない。