十国春秋卷三十四 南唐二十 列傳 耿先生

要約

耿先生は南唐の軍大校耿謙の娘で、幼くして聡明才媛、書画・詩をよくし、常日頃から黄白の術(錬金術)に通じ鬼魅を制する不思議な力を身につけた女性であった。のちに出家して女道士となり自ら「天自在山人」と称し、保大年間に宋斉邱の推挙で南唐の宮中に入り、元宗から「先生」の号を受けて別院に住まわせられ寵愛された。飲食も自らできず外出も好まず、常人離れした様子であった。元宗の前で、火を使わずに水銀を銀に変え、雪を焼いて延べ棒に変じさせ、塵芥や小麦・龍脳油までも白金や真珠・香油に変えるなど数々の不思議な術を披露し、元宗の誕生日の器物や内庫の財宝の多くを作り出した。やがて元宗の寵を受けて身ごもったが、左右の者に「私の子は普通ではない」と語り、ある夜、雷電と大雨のうちに身ごもりは消え、子はすでに神物となって連れ去られたと述べた。その後、宮中で突然、宋太后の所在が分からなくなり、耿もともに姿を消し、都城外の方山にある宝華宮で数人の道士とともに酒を痛飲しているところを発見された。太后は迎え戻され、道士たちはみな誅殺されたが、耿もこれにより二度と宮中に入ることができず、その後は江淮の地を往来して市で薬を売って暮らしたと伝えられる。

現代語訳全文

黄白の術で元宗に仕えた女道士

  • 耿先生は軍大校である耿謙の娘である。若くして聡明で姿色があり、頗る書を好んで画をよくし、いささか詩も作り、しばしば佳句があった。ふだんから黄白の術(錬金術)に通じ、鬼魅を拘制することができ、その不思議な様子はどこから来たものか分からなかった。
  • その後、女道士となって自ら「天自在山人」と称した。保大年間、宋斉邱によって宮中に入り、元宗はこれを別院に住まわせ「先生」と号した。常に碧霞の帔(僧衣・道服の一種)を着け、精采は卓異で言葉は調暢であり、手は鳥の爪のようであった。飲食を自分で用いることができず、みな人に頼っており、また外出を好まなかった。宮中の使用人が抱いて連れて行く間に、壁に詩を題した。また自ら「比大先生」(天と比肩する意)と称し、あるいはこれを天と比べているという者もあった。
  • 元宗が暇な折、従容として黄白の事を問い、これを試させるとみな験があった。元宗はふり返って耿に「これらはすべて火によって成るものだが、もし火を用いずにできるだろうか」と言うと、耿は「できます」と答えた。元宗はそこで水銀を取り、紙を重ねてこれを厳重に包み、題を書いて非常に密封させた。耿はまずこれを懐の中に入れると、しばらくして急に布を裂くような音がした。元宗が起きて見ると、題を書いた所はもとのままであったが、開けてみるとすでに銀になっていた。
  • また常に大雪の日、炉を抱いて金の盆に雪を貯めさせ、耿は雪を取ってこれを銀錠の形に削り、盛んに燃える炭の中に投げ込み、食事の時間ほど過ぎてからこれを持って出すと、赤々と焼けており、地に置くと爛々として白い延べ棒になっていたが、刀の跡がそのまま残っていた。裏返してその下を見ると、酥(バター)が垂れて乳が滴るような形になっていたが、これは最初、火によって融け出したものであった。これによって耿の作った雪銀は非常に多く、元宗の誕生日にはいつも器物を作って寿とした。
  • また常に宮婢が糞掃(塵芥)を持っているのを見て、元宗に「これは惜しいものです。棄てさせないでください」と言い、これを取って鐺(なべ)の中に置き、少し煮て練ると、みな白金になった。開宝年間、金陵の内庫にはなお耿先生の「糞壌銀」があった。
  • 元宗はかつて真珠数升を購入しようとし、丸いものを得たいと望んだ。耿は「たやすく得られます」と言い、そこで小麦を取って銀釜でこれを煼(いる)させると、みな円い珠になり、光彩は目を奪うほどであった。
  • 大食国が龍脳油を進上したとき、元宗はこれを秘蔵して惜しんでいたが、耿はこれを見て「これはまだ良いものではありません」と言い、そこで夾縑の袋に白龍脳数斤を貯えてこれを懸けると、しばらくして液が滴って注ぐようになり、香味は進上されたものよりも優れていた。
  • まもなく寵愛を得て、元宗に身ごもりが生じた。左右の者に「私の子は普通ではない。産まれるとき必ず異変があるだろう」と言った。ある夜、雷電が部屋を巡り、大雨が傾き注ぎ、雨が晴れると、身ごもりはすでに消えていた。元宗が驚いてこれを問うと、答えて「夜、雷電の中で子が生まれ、すでに神物となって連れ去られました」と言った。
  • しばらくして、宮中で突然宋太后の所在がわからなくなり、耿もまた姿を隠した。ひと月あまり、宮中も外もたいへん驚いた。ある告げる者が「都城外二十里の方山の宝華宮にいる」と言った。元宗は急いで斉王景達に命じて迎えに行かせると、太后は数人の道士とともにまさに酒を痛飲しているところであった。そこで宮に迎え還し、道士たちはみな誅殺された。耿もまた二度と宮に入ることができず、あるいはその後、江淮の間を往来して市で薬を売っていたという。