十国春秋卷三十 南唐十六 列傳 張洎

要約

張洎は字を師闇といい南譙の人で、若くして俊才を謳われ句容尉から身を起こして進士に及第し、文献太子の諡を議したことで元宗に知られて監察御史に抜擢されたが、事を論じることに自負して弾撃を恣にしたため大臣游簡言らに疎まれた。後主の代には知制誥・中書舎人・清輝殿学士などを歴任し、澄心堂が建てられるとその機密にも参与して恩寵は群臣随一であり、宮城の東北に大邸宅と書万余巻を賜るほどであった。かつて西省で官を並べた潘佑とは情誼が篤かったが趣くところが次第に異なり、佑が罪に抵り死んだ際にはこれに力があったとされる。

宋軍が金陵を一年余り包囲すると、洎は後主に符命を引いて北軍は自ら退くと降伏しないよう勧め、事あれば自ら先に死のうと言ったが、いざ城が陥ちると、ともに閣に上り殉じるはずだった光政使陳喬だけが縊死し、洎は妻子を伴って生き延び後主のもとに戻った。宋に帰順した後、太祖から抗戦を煽った上江救援の蝋丸密書を突きつけられ責められたが、危急の際にはどんな計もするものだと悪びれず弁明してかえって才を奇とされ、太子中允に任じられた。

以後、宋朝でも学識を評価されて右諫議大夫・参知政事にまで昇進したが、性格は陰険で狭量とされ、貧窮した後主にかえって物をねだり取ったほか、親交のあった潘慎修や清源郡公仲寓、張佖、徐鉉らともことごとく不和になった。至道三年、六十四歳で没し、刑部尚書を追贈された。文才に優れ、著書に文集十五巻や『賈氏談録』がある。

現代語訳全文

出自と後主の側近としての栄達

  • 張洎は字を師闇といい、改めて字を偕仁といい、南譙の人である(『宋史』には「全椒の人。曽祖の改は澄城尉、祖の蘊は泗上転運巡官、父の煦は滁州司法掾」とある)。若くして俊才があり、墳典に博通し、進士に挙がり句容尉から身を起こした(『宋史』には「褐を解いて上元尉となった」とある)。
  • 文献太子の諡を議したことで元宗に知られ、監察御史に抜擢された。洎は事を論じることが旨に適うと自負し、そのまま憚ることなく弾撃を恣にしたので、大臣の游簡言らに嫉まれた。折しも元宗が南都に遷り後主を留後として居守させると、すぐに洎を後主の記室に薦めたが、従うことができなかった。まもなく元宗が崩御し後主が立つと、工部員外郎に抜擢され、知制誥を試みた。一年満ちて礼部員外郎知制誥となり、中書舎人に遷り、徐遊とともに清輝殿学士となった。澄心堂が建てられると、洎もまたその中で機密に参与し、恩寵は第一であった。
  • 後主が兄弟で宴飲し伎楽を催すたびに、洎ひとりこれに与ることができ、宮城の東北隅に大邸宅を建てられ、書万余巻を賜った。後主は常にその邸宅に至って妻子を召見し、賜与は甚だ厚かった。
  • 洎は初め潘佑と西省で官を並べ、情誼は甚だ篤かったが、まもなく趣くところが次第に異なっていった。佑は「堂堂たるかな張よ、ともに仁を為すのは難しい」と嘆いた。のちに佑が罪に抵り死ぬと、洎は頗る力があった。
  • 後主が宋に附いて貢奉の事が興ると、洎は汴京に使いした。中朝の公卿はその文があることを喜び、甚だ愛賞を加えた。

金陵陥落時の去就

  • 宋の軍が金陵を囲んで一年を越えると、洎は後主に降らないよう勧め、いつも符命を引いて「玄象に変わりはなく、金湯の固めはたやすく取られない。北軍は近いうちに自ら退くだろう。もし不測の事態があれば、臣がまず死のう」と言った。
  • 城が陥ちるに及び、洎は妻子と槖装(荷物)を携えて便門から入り宮中に留まった。当時、洎は光政院副使であったが、光政使の陳喬を欺いて共に閣に上り、ともに死のうとした。喬は自ら首を吊って気絶したが、洎は逆に降りて後主に見え「臣は喬とともに枢務を掌っていました。国が亡んだ以上、ともに死ぬべきですが、また主が存命であることを思い、誰が主のためにこの事を申し開きできようかと考え、死なずに報いることにしたのです」と言った(李燾『続通鑑長編』には「国史の張洎伝に、洎は陳喬と共に閣に上り、喬が首を吊ると、洎は喬の気が絶えるのを見てから下りたと言うが、『談苑』には喬は視事庁で縊死したとあり、洎はそれを知らなかったという。国史はおそらく『九国志』陳喬伝の言うところに因ったものであろうが、恐らく『九国志』は信用できない。洎は既に約束に背いて死ななかったのだから、どうして喬の気が絶えるのを待って閣を下りる必要があろうか。『談苑』にはまた、国主が喬を求めても見つからず、ある人が洎は喬が既に北に降ったと思ったと言い、翌日ようやく喬の屍を見つけたとある。これによれば、共に閣に上ったという説は誤りであろう。おおよそ、城が破れたとき、洎は喬とともになお国主に見え、前の約束の通りにと請い、喬はついに死に洎は死ななかったというだけのことである。洎はもとより死ぬことができなかったので、共に国主に見えることで、国主が必ずその死を許さないだろうと見込んだのである」とある)。
  • 宋に帰ると、太祖はこれを召して「お前は煜に降らないよう教え、今日に至らせた」と責め、常書を出してこれを示した。それは囲城の日、洎が上江の救兵を召すために起草した詔の蝋丸書であった。洎は神色自若として、おもむろに「危急の際には、歳月を延ばすことを望んで、どんな計でもしないことはありません。臣が作った帛書は甚だ多く、これはただその一つに過ぎません」と言った(『宋史』には、洎が頓首して罪を請い「実に臣がしたことです。犬はその主でない者に吠えるもの、これはその一つに過ぎません。他にもなお多くあります。今、死は臣の分です」と言ったとあるが、今は『南唐書』に従う)。

宋朝での立身と人物評

  • 太祖はこれを奇として太子中允を授けた。太宗の時、官を重ねて礼戸二部郎中に遷った(当時、秦国の銭王俶が薨じ、太常が諡を「忠懿」と定めたが、洎は当時考功を判じ覆状を作った。尚書省で集議するに及び、虞部郎中の張佖が奏駁して「考功覆状の一句に『亢龍无悔』とあるのを按ずるに、実に臣子として言うべきことではありません。まして俶はもとより荒服(辺境)であり、未だかつて尊位に略しても居たことはなく、終には藩臣であり、それゆえ名は龍と称すべきではなく、位は元とすべきではありません。その『亢龍无悔』の四字は改正を請います」と言った。洎は上に対して「謹んで『易』乾の九三を按ずるに云々。王弼は『下卦の極に処り、上九の亢に愈る』と言い、正義には『九三は下体の極に居り、これは人臣の体である。その亢龍の咎を免れるのは、これ人臣の極として慎んで守り禍を免れることができるからである。ゆえに亢極の禍を免れるという』とある。『漢書』梁商伝の賛には『地は亢満に居りながら謹厚をもって自ら終える』とあり、楊植『許由碑』には『錙銖九有、亢極一夫』とあり、杜鴻漸の『譲元帥表』には『禄位亢極、過ぎて涯量を踰ゆ』とあり、盧杞の『郭子儀碑』には『亢に居りて悔無く、その心ますます降る』とあり、李翰の『書霍光伝』には『伊周負荷の明有り、九三亢極の悔無し』とあり、張説の『祈国公碑』には『一に目牛の全無く、一に亢龍の悔無し』とある。まして考功の状の中では、ただ『寵を受けて驚くが若く、亢に居りて悔無し』と称するに止まり、もとより『亢龍无悔』の語ではありません」と言った。詔して「張洎の援引する故実はみな依拠がある。張佖の学識は甚だ浅く、敷陳は実を失っている。俸一月を罰すべし」とあった)。
  • まもなく右諫議大夫を拝し大理寺を判じ、また史館修撰・判集賢院事を充てられた。初め洎が命を奉じて入貢したとき、十詩を作って汴京の風物をそしり、「一堆の灰」の句まであった。蘇易簡はその自筆を得ており、易簡と同僚となって折り合わなくなると、人に語って「清河(張洎)がまた異を唱えれば、すぐに『一堆の灰』の詩を進呈しよう」と言った。洎は少し屈したが、巧宦(世渡り上手な仕官)をもってついに参知政事に至った。
  • 至道三年、病んで卒した。享年六十四。刑部尚書を贈られた。子は二人、安期・方回という。
  • 洎は風儀灑落、文采清麗、あわせて道釈の書を読み、禅寂虚無の理に通じ、終日清談して滔々と聞くに値したが、とりわけ険詖刻薄(陰険で薄情)であった。後主が既に宋に帰ると貧しさが甚だしく、洎はことにこれをねだり取った。後主は白金の頮面器(洗顔器)を洎に与えたが、洎はなお満足しなかった。
  • 当時、潘慎修が後主の記室を掌っており、洎は慎修が後主を教唆していると疑い、もとより慎修と親しかったが、これより次第にこれを疎んじた。清源郡公仲寓は蒲博(賭博)や飲宴を好んでおり、洎は切にこれを諫めたが、仲寓は謝罪した後、なお仲寓が蒲博をもとのように行っていると言う者があり、洎はそのまま仲寓と絶交した。仲寓が死んで郢州で京師に葬られたとき、洎もまた弔いに赴かなかった。
  • 常に張佖と議事が合わず、ついに仇敵となった。はじめは父に従う礼をもって佖に事えていたが、まもなく拝礼しなくなった。洎は先に寇準に薦められ甚だ謹んでこれに仕えていたが、まもなく内意を推し量って寇準の誹謗を奏上した。性は鄙吝(けちで狭量)で、親戚であっても恩恵に潤うことはなく、江表の故旧はその門に登る者が稀であった。徐鉉とはもとより厚く仲が良かったが、のち事を論じて相忤い絶交に至ったが、それでも鉉の文章を手ずから書き写し、その筆札を訪ね求め、篋笥に蔵すること珍玩に甚だしかった。洎には文集十五巻、『賈氏談録』一巻があり、世に伝わる。