十国春秋卷三十 南唐十六 列傳 鄭彦華
要約
鄭彦華は福州の人で、代々福建諸州の刺史を務めた家に生まれ、若くして節度使李宏義に仕え、乳虎を射殺するほどの勇で聞こえた。南唐の大将王崇文が城上で宏義を罵らせた際には、夜ひそかに縄で城外に降りて壕の傍らに伏せ、罵り続けていた敵兵を鈎で引っかけて生け捕るという武勇を示し、崇文を退却させた。後に閩を攻める南唐将陳誨に降ってその配下に加わり、周の淮南侵攻では大小百余戦を戦って身に五十余の傷を負い、累進して鎮海軍節度使・同平章事にまで昇った。
後主の末年、宋軍が采石から浮橋を作って渡江すると、後主は自ら出向いて戒め、彦華に舟師万人を、別将杜貞に歩兵万人を率いさせて水陸から迎撃させた。しかし杜貞が力戦する間、彦華は兵を擁したまま救援せず、杜貞の敗北を招いて金陵の士気を大きく落としたが、それでも彦華の罪が正されることはなかった。南唐滅亡後は後主に従って宋に仕えたが、太原・幽州の遠征に従っても功績はなく、諸衛の将軍職を歴任して七十三歳で没した。
付伝の子文寶は、後主が宋に連行された後も旧主への忠義を貫き、朝廷から録用を勧められても応じず、魚売りに変装して禁じられた面会を果たすなど義理堅い人柄で知られ、後主没後に初めて進士となり文才でも名を残した。
現代語訳全文
出自と武勇
- 鄭彦華は福州の人である。祖父は代々福建諸州の刺史であった。彦華は若くして節度使李宏義の帳下に隷属し、かつて乳虎(母虎)を射殺し勇をもって聞こえた。元宗が軍を出して福州を攻めたとき、大将の王崇文は卒の李興を遣わして楼車に登らせ宏義を罵らせた。宏義は忿りに堪えられず、興を生け捕りにする者を募った。
- 彦華は行くことを請い、夜、縄で城外に降りて壕の傍らに伏せた。詰朝(翌朝)、興はなお嫚罵(罵り)をやめなかったので、彦華は鈎で興を引っかけ、これを挟んで城に登った。城上ではみな鼓譟し、宏義は興を得て気が晴れた。崇文はそのまま遁走して帰った。
- 一年余り後、劒州刺史の陳誨が水軍で閩を攻めたとき、彦華はたまたま候官に出屯していたが、たまたま呉越の兵が誨に敗れると、彦華はそのまま本部をもって誨に降った。誨はこれと語ってこれを奇とし、軍校に任じた。まもなく周が淮南を侵すと、彦華は大小百余戦、身に五十余の創を被った。累進して鎮海軍節度使に至り、同平章事を加えられた。
- 後主の末、宋軍が采石から浮橋を作って渡江すると、後主は彦華に舟師万人を督させ、また別将の杜貞(一に真に作る)に歩兵万人を率いて同じく迎え戦わせた。後主は自ら行って戒め「水陸両軍が相表裏すれば、私の事は成るだろう」と言った。宋軍と遇うに及び、貞はその部隊で力戦したが、彦華は兵を擁して救わなかった。貞が敗れると、金陵はこれを聞いて意気消沈し、そのまま塁を閉じて自守し、ついに国が破れるに至ったが、ついに彦華の罪を正すことができなかった。
- 彦華は後主に従って宋に入り、右千牛衛将軍となった。太原および幽州の征討に従ったがいずれも功はなく、なおも諸衛将軍を歴任して左千牛衛大将軍に至って卒した。享年七十三。子は文寶という。
鄭彦華(附)文寶――節を守った旧臣
- 文寶は初め後主に仕え、文学をもって清源郡公仲寓の掌書記に選ばれ、まもなく校書郎に遷った。後主が宋に帰すと、群臣はみな北遷に従った。宋は江南の故臣に皆録用を許すと詔したが、文寶ひとりこれを肯んじて言わず、そのため汴梁に覊栖して仕列に与らなかった。後主は環衛(宮中警護職)として朝請を奉じ、賓客の謁見を禁絶されていたが、文寶はそこで蓑を披り笠を荷って魚売りに扮し、こっそりと会いに行った。しばらくして後主はこれに感嘆した。
- 後主が既に薨じると、文寶はそこで初めて進士に挙がり、仕えて兵部郎に至った。文寶は詩に巧みで、その「過緱山」および「題緑野堂」は晏殊・欧陽修に膾炙された。『南唐近事』三巻があり世に伝わる。