十国春秋卷三十 南唐十六 列傳 龔慎儀

使節としての苦難と義死

  • 龔慎儀は後主に仕えて給事中となった。開宝三年、宋太祖が南漢を討とうとして決しかねていたとき、後主に詔してその正朔を奉じるよう諭させた。後主はそこで潘佑に書を撰させ、慎儀に持たせて南漢に使いさせた。漢は書を得て大いに怒り、慎儀を囚えて遣らなかった。後主は表してこれを太祖に聞かせると、太祖はついに軍を興す決意をし、南漢が平定されると、そこで帰ることができた(『青箱雑記』には、慎儀が嶺表に使いすると、劉主(南漢主)はこれを囚えて年を越えても遣らなかったので、慎儀は頭頂を焼いて仏に祷り、宅を捨てて寺を建てることを願い生還を遂げようとした。まもなく劉主の娘が病んで譫語(うわごと)で「急いで龔慎儀を国に帰らせないと、私はすぐに死ぬ」と言ったので、劉主は懼れてこれを遣わした、まもなく帰るとその宅を寺とした。これが邵武の王堂里香厳寺である。これに拠れば、慎儀の帰還は漢が亡ぶ日より先であったことになる。今は『唐余紀伝』に従う)。
  • 江南が亡んだとき、慎儀は歙州刺史であった。折しも昭武留後の盧絳が国の破れたことを聞き、義を起こして兵を提げ閩に入ろうと謀り、道は歙を経た。慎儀は城を閉じて拒み守った。絳は怒って「慎儀よ、私の旧知であるのに、なぜ拒むのか」と言い、副将の馬雄を遣わしてこれを攻めさせた。慎儀は朝服を着て出ると、雄に害された。