十国春秋卷三十 南唐十六 列傳 張佖

科挙の逸話と質朴な人柄

  • 張佖は常州の人である。後主の朝で仕え考功員外郎となり、中書舎人に進んだ。開宝五年、制度を貶損して内史舎人に改めた。後主は文事を好み、末運に当たってもなお科第(科挙)に意を留めた。佖に文があるので礼部貢挙を知らせた。
  • 掲榜(合格発表)の前夜、程員という者があり、人が報せる夢を見て「既に王綸ら五人とともに及第した」と言われた。員は驚喜して省門に詣り、楊遂・張観・曾顗に出会うと「榜は雞行街にあるのに、どうしてこんなに慌てているのか」と言われた。目覚めてみると、遂ら三人が中選したと聞いた。その夏、後主は佖がかなり私意を働かせているのではと疑い、張洎に覆試を命じたところ、再び王綸ら五人を放(合格させ)た。そこで洎は佖の弊を矯正したといえども、しかし前もって定まっていたことがまさにこの通りであったことを知った。翌年の癸酉に付榜(追加合格)となったのは、雞行街の応であった。
  • 佖は後主に随って宋に入り、旧臣として敘用された。太宗朝、佖が史館にいたある日、太宗が「卿の家では毎食客が多いというが、何を話しているのか」と問うと、佖は「臣の親旧の多くは都下に客としており、困窮して食に乏しく、臣は官が軽く俸が優厚なので、常に臣のもとで食事をします。臣は拒むことができません。しかしただ菜羮(野菜の吸い物)だけです」と言った。
  • 翌日、太宗は快行者(密使)を遣わしてその饌客を伺わせ、その場で食を取って進上させると、果たしてただ糝飯(雑穀飯)・菜羮のみであり、しかもみな陶器であった。太宗はその隠さないことを喜び、官を郎中に遷した。佖の邸宅は故里にあり、人は「菜羮張家」と呼んだ。
  • 佖は人となり長者(徳望のある人物)で、のちに河南の官となったが、寒食のたびに必ず自ら後主の墓を拝して甚だ哀しく哭した。李氏の子孫が落ちぶれると、常に俸を分けてこれを贍給した。