十国春秋卷二十九 南唐十五 列傳 史虚白

要約

史虚白は字を畏名といい、代々斉魯の家柄で嵩山に隠棲して著書し、中原が喪乱に陥ると韓熙載とともに南へ移った。宋斉邱の専権を不満とし自分こそこれに代われると公言したため、齊邱は宴席で倡楽・奕碁・博戯のうえ書檄・詩賦・碑頌を作らせて技量を試そうとしたが、虚白は半ば酔いながら口占して即座に多くの篇を仕上げ座客を驚かせた。齊邱に引見された烈祖に対しては、中原が混乱するいま江淮の富力で長駆し大業を定めるべきだと説いたが、志は用いられず校書郎などの閑職にとどめられたことを恥じ、病と称して南へ去り隠棲した。

以後は雙犢に車を引かせ酒壺を掛け、山童に琴と酒瓢を負わせて廬山を気ままに往来する隠者暮らしを送った。保大年間には元宗に召し出されたが「草野の人、魚釣りをするのみ」と浮世離れした受け答えで通し、酔って殿陛に倒れ伏し「真の隠者」と評されて田を賜り山に帰された。江北割譲の和議を風刺する『割江賦』を作るなど時勢への批評は忘れず、徐鉉・高越が子弟の出仕を願い出た際も、賢愚に関わらず子の生き方に頓着しないと突き放し、二人を恥じ嘆かせた。

享年六十八。死に際し、賜った酒と杖を棺に入れさせ、以後の祭祀を無用とするよう子に遺言した。著書に『釣磯立談』があり、後に宋の仁宗から「虚白冲靖先生」の号を追贈された。

現代語訳全文

烈祖への進言

  • 史虚白は字を畏名といい、代々斉魯の家柄であった(『南唐近事』には「北海の人」とある)。虚白は嵩山に隠居して著書し、中原が喪乱に陥ると韓熙載とともに南渡した。当時、烈祖が呉を輔け、まさに宋齊邱を任用していたが、虚白は「私はあれに代わることができる」と公言した。齊邱は不平に思い、その技能を窮めさせようとし、召して宴飲を設け、倡楽・奕碁・博戯を行い、酒を数巡した後、書檄・詩賦・碑頌を作らせた。虚白は半ば酔ったまま数人に紙を執らせ、口占して筆を止めることなく、たちまち多くの篇を悉く成し、詞采は磊落であり、座客は驚服した。
  • そこで斉邱に「五可十必然」の論を説き、湯武・伊呂の事を多く引いた。齊邱は謝して「あなたの道は大きく、私には理解できない」と言い、烈祖に引見した。烈祖は「江南の地は覆った甌(かめ)のようなものだ。あなたは私に何を教えてくれるか」と言った。虚白は「中原はまさに横流(混乱)しており、ただ江淮のみが豊かで兵食ともに足りています。長駆して大業を定めるべきで、事機を失って後日悔いることのないように」と述べた(『釣磯立談』には、虚白が答えて「昔、関中の父老が劉徳輿に語って『長安の千門万戸はこれ公の家、百姓、五陵の連なりはこれ公の家、墳墓であるのに、これを捨ててどこへ行こうというのか』と言った。ゆえに小人もこれをもって使君に願うのです。もし公が中土を拓き定めることができれば、王が京雒を有することは終に言うに足らないものとなりましょう」と言ったとある)。
  • 烈祖はその言を喜んだが用いることができず、校書郎に抜擢し、まもなく州従事に遷してこれを羈縻(つなぎとめ)した。虚白は初めの言が用いられなかったことを恥じ、病と称して去り、南に遊んで九江の落星湾に至り、そこに家を構えた。常に雙犢(二頭の子牛)に版轅(そまつな車)を引かせ、酒壺を車上に掛け、総角の山童に一つの琴と一つの酒瓢を背負わせて従わせ、廬山を往来し、世事に意を絶っていた。

元宗との交わりと晩年

  • 保大の初め、熈載が史館修撰となり、虚白は用いるべきだと薦めたので、元宗は召見して国事について尋ねた。虚白は「草野の人、魚釣りをするのみで、どうして国家の大計を知りましょうか」と答えた。便殿で宴を賜ると、酔って殿陛に倒れ伏したので、元宗は「真の隠者である」と言い、田百頃を賜って山に放ち帰した。
  • 淮甸が不寧となり、元宗が江北の地を献上して和を求めようとしたとき、虚白は『割江賦』を作ってこれを諷し「舟車には限りがあり、汀島に沿ってともに閑にすべし、魚鼈は知ることなく、なお交遊してやまず」と言った。
  • まもなく都を南昌に遷すと、元宗の舟が蠡沢に泊まったとき、虚白は鶴裘に黎杖で道端に迎え謁した。元宗が駐蹕して労い問い「処士は山に居って、また賦するところはありましたか」と言うと、「近ごろ『谿居』の詩一聯を得ました」と言い、誦させると「風雨屋を掲げ却るも、渾家酔いて知らず」であった。元宗は色を変え、粟帛を厚く頒ち、またその酒を嗜むことを知って別に御醞数壺を賜った。
  • 徐鉉・高越がこれに「先生は高く屈すべきではありませんが、二人の子を仕えさせてもよろしいですか」と言うと、虚白は「野人に子があり、賢ければ功業を立てて道をもって明主に事え、愚かであれば薪を負い麋を捕らえてその母を養う。私は未だかつて気にかけたことがない。あえて公に累を及ぼしません」と言った。鉉・越は恥じて嘆じた。
  • 享年六十八。臨終に際して、その子に「役所から賜った美酒、これを飲んでほぼ尽くしたが、なお一榼を残している。私が死んだら藜杖とこの酒を棺の中に置き、四時に祭享を用いるな。死者に益はなく、私もまたこれを享けはしない」と語り、子はみなこれに従った(『南唐近事』に「虚白が卒すると、その子は季節の折々ごとに必ず奠を修め、終わると紙緡を霊座で焚いたが、紙はみな燃え尽きず、故意にこれを焼こうとすれば火は自ら消えた。そこで二度と祭奠を行わなかった」とある)。
  • 著書に『釣磯立談』一巻があり、江南の廃興の事を言い、頗る備わっている(宋の天聖中、虚白の孫の温が虞部員外郎の官にあり、虚白の文集を献上すると、仁宗はこれを愛し、「虚白冲靖先生」の号を追贈した)。