十国春秋卷二十九 南唐十五 列傳 沈彬
要約
沈彬は洪州高安の人。唐末に進士に応じたが及第せず、衡湘に浪迹して湖南の馬殷(武穆王)に頌徳の詩を献じ幕府に招かれかけたが足の病で辞退し、雲陽山に隠れて神仙を好み詩を賦するのを喜んだ。後に楊呉を輔けていた烈祖が国を有つ望みを察して山水画に寄せた詩を献じ、これを喜んだ烈祖から秘書郎を授けられた。元宗とも交遊し、まもなく吏部郎中で引退して山に帰ったが、元宗が南都に遷ると年八十余りで見えに来て、老衰を忘れて参上したと述べ、厚く粟帛を賜り子の元も秘書省正字に任じられた。
かねて鍾山で雷に撃たれ四片に裂けた柏の木を天の賜物だと言って棺に仕立てさせ、また杖をついて郊原を歩き自ら一本の木を植えてその場所を印とし、子に「ここに骨を埋めることになるだろう」と語っていたが、死後にその場所を掘ると精巧な石槨が現れ、蓋には篆で「開成二年寿槨」の銘があり、棺の大きさがぴったり合ったという不思議な逸話が伝わる。
次子の廷瑞も道術を好んで単衣一枚で寒暑を過ごし各地を放浪した奇人として知られ、死後に舟で去る姿を見た者があるなど神秘的な話が残る。沈彬の「都門送客」などの詩は当時から高く評価された。
現代語訳全文
出自と烈祖への出仕
- 沈彬は洪州高安の人である。唐末に進士に応じたが及第しなかった(『雅言参述』に「彬は常に錦衣が月に貼りついて飛ぶ夢を見たが、識る者は『身が月に入らないのは及第しないということだ』と言った」とある)。そこで衡湘に浪迹し、たまたま楚の武穆王(馬殷)が湖南に覇を称えると、彬は頌徳の詩を献上した。武穆王は幕府に招こうとしたが、足の病があるのでやめた。これより雲陽山に隠れ、神仙を好み、詩を賦するのを喜び句法は精美であった(『江南野史』に「浮図の輩、虚中・斉己と詩名で互いに褒め合った」とある)。
- まもなく郷里に帰ると、烈祖は呉を輔けていて表して秘書郎を授けた(『江南野史』に「彬は先主が楊氏に取って代わろうとしているのを知り、そこで山水画を観る図の詩を献上して『須らく手筆の安排の定まるを知るべし、山河を整頓するの難きを怕れず』と詠んだ。先主は早くよりその名を聞いており、これを見て喜び、そのまま秘書郎を授けた」とある)。
- 元宗と交遊し、まもなく骸骨を乞うて(引退を願い出て)山に帰り、吏部郎中をもって致仕した。元宗が南都に遷ると、彬は年八十余にして見えに来て「臣は久しく山林に処り世事に与っていません」と言った。臣の妻が「あなたの主人の若君は今や天子である。どうして一度行かないのか」と言ったので、老衰を忘れてやって来ました、と言った。元宗は拝礼させず、粟帛を厚く賜り、その子の元を秘書省正字とした。
寿槨の逸話と没後
- 彬は先の年、常に鍾山を指して雷が柏の木を四片に撃ったのを「これは天が私に賜ったものだ」と言い、急いで職人に治めさせて棺にした。子たちはあえて逆らわなかった。また杖をついて郊原を歩き、手ずから一本の木を植えて印とし、その子に「私はここに骨を埋めることになるだろう」と語った。卒するに及んで、木を伐り地を掘ること一丈余りに至ると、一つの石槨を得た。その製作は精麗で光沢があり鑑となるほどで、蓋の上には篆で「開成二年寿槨」と書かれていた(案ずるに『馬令南唐書』『鄭文宝南唐近事』はみな「蓋の上に篆字八字を刊し『開成二年寿槨一所』とある」というが、今は陸游『南唐書』に従う。『江南野史』には「彬が葬られようとした所を穴を掘ると、それは古い墓であった。その中に一つの石灯台があり、上に漆盆一つがあり、塘頭で一つの銅牌を得て、上に篆文が刻まれ、また『佳城は今すでに開いた。開いても葬らず、埋めた漆灯はまだ焚かれておらず、沈彬が来るのを留め待つ』とあった」といい、記すところがこれとやや異なる)。棺をその場所に納めると、広さはちょうど合っていた。
- 彬には「都門送客」「再過金陵」などの詩があり、世に大いに称えられた。
- 次子の廷瑞は道術があり、人はみな「沈道者」と呼んだ。酒を嗜み穀物を却け、寒暑ともに単衣の褐一枚で数十年変えず、素足で歩き一日数百里、林に棲み露に宿し、多く玉笥・浮雲の二山にいた。死んだ日、ある人が舟に乗って江上を去るのを見たといい、後にその墓を見ると一尺余り陥没していたという(『江南野史』には、廷瑞が常に酔って県治に至り、まっすぐ階上に上ったので、県令が「沈道者はいつ道が成るのか」と戯れると、廷瑞はすぐさま筆を奪って几に向かい「何ぞ須いん、我に道成る時を問うを、紫府清都自ずから期あり、手に薬苗を握れど人識らず、体に仙骨を含めば俗争って知る」云々と書き、令はそのまま恥じて謝したとある)。