十国春秋十國春秋卷二十九 南唐十五 魯崇範・毛炳・邵拙・黄載・朱存・朱弼ほか隠逸・孝義・列女の伝

魯崇範

  • 魯崇範、廬陵の人。家は貧しく竈の薪も続かないほどだったが、平然と読書し、心はのびやかだった。九経・諸子・史書を一室に蓄え、みな自ら校定していた。
  • 烈祖が学校を建てはじめたころ、典籍が散逸していたため、詔を下して郡県に広く求めた。吉州刺史の賈皓が崇範の蔵書を取って献上し、私財で代金を償おうとした。崇範は笑って「墳典は天下の公器だ。世が乱れれば家に蔵し、世が治まれば国に蔵する。実は同じことだ。私は書店ではない、なぜ代金を受けよう」と言った。
  • 賈皓が入朝する際、崇範も同行して金陵に至り、表を奉って推薦されたので太子洗馬を授けられた。崇範は清廉倹約を守り、月俸だけで暮らし、四季の下賜品や臨時の特別給与はすべて親旧の貧しい者に分け与えた。
  • 元宗が即位するといっそう重んじ、東宮使に任じた。在官のまま没した。

毛炳

  • 毛炳、洪州豊城の人。学問を好んだが自活できず、郷里の人に従って廬山に入った。書生たちのために講釈をし、銭を得れば酒を買って酔いつぶれた。
  • 当時、彭会は茶を好み炳は酒を好んだので、「彭生は賦を説いて茶三斤、毛氏は経を伝えて酒半升」と嘲る者があったが、炳は薄く笑うだけだった。
  • のち螺川周辺の諸邑を巡り、酒があれば飲み、酔うまでやめなかった。酒家に泊まって泥酔し、誤って炉の炭に座り、後日尻が痛むので鞭打たれたのかと疑い、問いただして事情を知ったこともある。
  • また道端で酔い臥していたとき、里正が助け起こそうとすると、炳は目を怒らせて「酔う者は自ら酔い、醒める者は自ら醒める。さっさと去れ、私の眠りを妨げるな」と怒鳴った。
  • のち南台山に移り住んで数年、突然、書斎の壁に「先生 此に住まずんば、千載 惟だ空山のみ」と書きつけ、ひとしきり大酔した末、一夜のうちに没した。

邵拙

  • 邵拙、宣城の人。孤高で人に屈せず、経史に博通した。酒は百杯飲んでも酔わなかったが、ある日ひどく飲みすぎ、以来、杯を伏せて酒を断った。
  • 詩百篇があり『廬嶽集』という。ほかに手写した史伝・文集三百巻があった。没したとき、門人の袁氏が土地を買って葬った。

黄載

  • 黄載、字は元吉。先祖は江夏の人で、代々農を業とした。載は農具を捨てて廬山で学び、虔州の人・劉元亨に師事した。経史を究め文章をよくした。
  • 一度科挙に落ちると「士が浅薄な文で規格を測られ、有司の手で採否を決められる。それは道からさほど遠くないと言えようか」と嘆じ、以後は仕官を求めず教授を業とした。
  • 母に仕えて孝行で知られた。酒を好み、講席のそばに幾つも甕を置き、興が乗ると飲んだが、義理の筋は乱れなかった。
  • 『礼経』の注釈を若干巻著し、その値は百千に相当したが、人に持ち去られると笑って「あの人は元手がないのだ。これで一家を成すのなら、それも私の徳だ」と言い、まったく意に介さなかった。
  • 書生たちが金を出し合って羊を買ったとき、その夜、一頭の羊が載に命乞いをする夢を見た。載は銭を出して代金を払い、その羊を飼った。また一匹の犬も飼っており、よく馴れていて、外出のたび羊と犬が連れ立って従った。時人は「犬羊仙」と呼び、その話を書き記した。
  • 金陵が陥ちたとき、隠居していたため難を免れた。宋の天禧末年、ある夜、酔ったまま没した。享年七十。妻子はいずれも先立っていた。

朱存

  • 朱存、金陵の人。保大年間、呉の大帝(孫権)以来の六朝の興亡成敗の跡を取り上げ、『覧古詩』二百章を作った。一章四句である。地誌を扱う家はしばしばこれを証として引用する。

朱弼

  • 朱弼、字は君佐。建州の人。明経に首席で及第し、国子助教を授けられ、廬山国学を主宰した。
  • 当時、盧絳・蒯鼇・諸葛濤らが飲酒と博打にふけって手がつけられず、書生たちは迷惑していたが、学官はあいまいにして誰も咎めなかった。弼が着任すると一切を礼法で律し、堂に登って講説すると席下は粛然とした。絳らも恥じ入って引き下がった。四方から集まる学生は平時の数倍になった。
  • 国が亡んで宋に帰し、衡山主簿に補せられ、任期が満ちると南嶽令を求め、その職で没した。

沈彬——出自と楚・呉での境遇

  • 沈彬、洪州高安の人。唐末に進士に応じたが及第しなかった。そこで衡・湘のあたりを流浪した。
  • 楚の武穆王(馬殷)が湖南に覇を称えると、彬は頌徳の詩を献じた。武穆王は幕府に招こうとしたが、足の病があるためやめた。これによって雲陽山に隠れ、神仙を好み、詩を賦するのを喜んだ。その句法は精美だった。
  • まもなく郷里に帰った。烈祖が呉を輔けていたとき、上表して秘書郎を授けられた。元宗と交わり、まもなく辞職を願って山に帰り、吏部郎中で致仕した。

元宗との再会と墓の異事

  • 元宗が南都に遷ったとき、彬は八十余歳で謁見に来て、「臣は久しく山林におり世事に関わりませんでしたが、妻が『あなたの主人のご子息が今は天子です。一度行かないのですか』と申しますので、老いも忘れて参りました」と言った。元宗は拝礼を免じ、粟帛を厚く賜り、その子の元を秘書省正字とした。
  • 彬は以前、鍾山で雷に打たれた柏の木四枚を指して「これは天が私に賜ったものだ」と言い、直ちに工人に命じて棺を作らせた。子らは逆らえなかった。
  • さらに杖をついて郊外に出て、一本の木を自ら植えて目印とし、子に「私はここに骨を埋める」と言った。没して木を伐り、地を一丈余り掘ると、石槨が出た。作りは精美で光沢は鏡のようであり、蓋には篆書で「開成二年寿槨」とあった。棺を運んでそこに納めると、寸法がぴたりと合った。
  • 彬には「都門送客」「再過金陵」などの詩があり、世に盛んに称えられた。
  • 次子の廷瑞は道術があり、人は「沈道者」と呼んだ。酒を好んで穀物を断ち、寒暑を通じて一枚の単衣を数十年替えず、裸足で日に数百里を歩き、林に棲み露に宿った。多くは玉笥山・浮雲山にいた。死んだ日、江上を舟で去る姿を見た者があり、後にその墓を見ると一尺余り陥没していたという。

史虚白——南渡と烈祖

  • 史虚白、字は畏名。代々斉魯の地の家柄である。嵩少に隠れて著述していたが、中原が乱れると韓熙載とともに南に渡った。
  • 当時、烈祖は呉を輔けて宋斉丘を用いていた。虚白が公言して「私は彼に代われる」と言うと、斉丘は不服でその技量を試そうと、宴に招いて倡楽・囲碁・博打を並べ、酒が数巡したところで書檄・詩賦・碑頌を作らせた。虚白は半ば酔いながら数人に紙を持たせ、口述して筆を止めず、たちまち諸篇を仕上げた。詞采は堂々とし、居並ぶ客は驚嘆した。
  • そこで斉丘に「五可十必然の論」を説き、湯・武や伊尹・呂尚の事を多く引いた。斉丘は「あなたの道は大きい。私にはこれは理解しきれない」と謝し、烈祖に引き合わせた。
  • 烈祖が「江南の地は伏せた甌のように小さい。何を教えてくれるか」と問うと、虚白は「中原はまさに乱れているが、江淮だけが豊かで兵も食も足りている。一気に進んで大業を定めるべきで、機を失って後日悔いてはならない」と説いた。
  • 烈祖はその言を喜んだが用いることができず、校書郎に抜擢し、やや進めて州従事として繋ぎ止めた。虚白は初めの進言が容れられなかったことを恥じ、病と称して去った。

廬山での隠棲と元宗

  • 南に遊んで九江の落星湾に至り、そこに住みついた。いつも二頭の牛に引かせた粗末な車に酒壺を掛け、総角の山童に琴一張と酒瓢一つを負わせて従え、廬山を往来し、世事への関心を絶った。
  • 保大初年、熙載が史館修撰となり虚白を用いるべきだと薦めた。元宗が召見して国事を諮ると、「草野の人間で釣りをしているだけです。国家の大計など知りません」と答えた。便殿で宴を賜ると、酔って殿の階に小便をした。元宗は「真の隠者だ」と言い、田百頃を賜って山に帰した。
  • 淮甸が安定せず、元宗が江北の地を献じて和を求めたとき、虚白は「割江賦」を作って諷し、「舟車には限りがあり、汀州や島に沿ってともに閑かである。魚鼈は無知で、なお交わり遊んで止まない」と述べた。
  • のち南昌に遷都し、元宗の舟が蠡沢に泊まったとき、虚白は鶴の裘に藜の杖で道端に出迎えた。元宗が車を止めて労い「処士は山に住んで何か賦したことがあるか」と問うと、「近ごろ渓居の詩の一聯を得ました」と言い、誦して「風雨 屋を掲げ却るも、渾家 酔うて知らず」と述べた。元宗は顔色を変えたが、粟帛を厚く与え、酒好きと知って御用の酒数壺を別に賜った。
  • 徐鉉・高越が「先生は高潔で屈しがたいが、二人のご子息を仕えさせてはどうか」と言うと、虚白は「野人にも子はある。賢ければ功業を立てて道をもって明主に仕え、愚かなら薪を負い鹿を捕って母を養う。私は気にかけたことがない。あなた方の煩わしにはできない」と答えた。鉉と越は恥じ入って嘆じた。
  • 享年六十八。臨終に子へ「官から賜った美酒はほぼ飲み尽くしたが、一榼だけ残してある。私が死んだら藜の杖とこの酒を棺に入れよ。四季の祭祀は無用だ。死者には益がなく、私も享けはしない」と言い、子はみなその通りにした。
  • 著書に『釣磯立談』一巻があり、江南の興廃をかなり詳しく記している。

陳陶——隠棲と天象

  • 陳陶、剣浦の人。若くして長安で学び、昇元年間に南へ奔った。金陵に行って烈祖に会おうとしたが、宋斉丘と合わないと自ら判断し、洪州の西山に隠れた。つねに「世に麒麟や鳳凰がいないのではない。国家が自ら見捨てているのだ」と言った。
  • 陶は博識で、暦象に通じていた。保大末年、参宿のあたりに彗星が出て芒が東南を指すと、陶は人に「国は間もなく亡ぶのではないか」と語った。果たしてまもなく淮南を失った。
  • 元宗が南都に遷る途中、落星湾に至って天象を尋ねようとしたが、陶が本音を言うまいと考え、陶が鮓(塩漬けの魚)を好むのを利用して、鮓を売りに来たと偽らせて門に行かせた。陶は出てきて鮓を食べ、大いに喜んだ。売り手が「官の舟が落星に着きました。ご存じですか」と言うと、陶は笑って「星は落ちたら還らない」と答えた。元宗はこれを聞いて不快だった。
  • 南都に着くと殿前で獣の足が一本見つかり、由来を知る者がいなかった。使者をやって陶に問うと、「その夜は貪狼星が日を直したためです」と答えた。元宗は「真の大学者だ」と嘆じ、召見しようとしたが、その折に元宗が崩じた。

晩年と行方

  • 陶は仕官の意を絶ち、修養と丹薬の煉成に専念した。西山には霊薬が産したので、陶は妻と日々掘っては服した。二人の子には「柤」「梨」という小字をつけた。優劣を問われると「味は違うが、どちらも口に合う」と答えた。
  • 久しくして姓名を変えて移り、行方は知れない。
  • 開宝年間、南昌の市に、髷を結い粗衣をまとった老翁が老婆と薬を売り、銭が入ると酒と鮓を買って向かい合って飲み食いし、酔うと道で歌い舞う姿があった。その歌に「藍采和 藍采和、塵世は紛紛として事さらに多し。いかんぞ薬を売り美酒を沽い、帰り去って青崖に手を拍って歌わんには」とあり、陶夫婦ではないかと疑われたという。

陳貺

  • 陳貺(「况」とも書く)、閩の人。淡泊な性格で、孤独と貧窮のなかで学に励み、蔵書は数千巻に及んだ。廬山に隠れることほぼ四十年、慶弔の付き合いに一度も出向かず、衣食が尽きても心を動かさなかった。叔父に僧がおり、その援助を頼りにしていた。
  • 詩に苦心し、句ができて一篇にならぬうちから遠近に広まった。学ぶ者の多くが師と仰いだ。
  • 元宗はその名を聞き、幣帛を送って召した。貺は幞頭に絛帯、布の裘に鹿革の靴で謁見したが、立ち居振る舞いはゆったりとして品があった。折しも厳寒で、元宗はその衣の薄いのを見て手ずから札を下し、「綾綺の衣を賜りたいが、卿は必ず受けまい。今、朕が自分で着ている紬縑の衣三十点を賜る。受け取ってほしい」と言った。
  • 貺が「景陽宮懐古」の詩を献じると元宗は称賛し、詔して江州士曹掾を授けたが、固辞したので粟帛を賜って山に帰した。享年七十五。

鄭元素

  • 鄭元素、華原の人。若くして詩礼を学び、乱を避けて南に奔り、廬山の青牛谷に四十余年隠棲した。炊事の煮炊きもままならぬ暮らしのなか、弦歌して平然としていた。住まいの後ろに一室を建て、古書千余巻を集め、そこで生涯を終えた。
  • 元素は温韜の甥である。自ら語ったところによれば、韜が昭陵を暴いたとき、羨道から下りると宮室は壮麗で人間界と変わらず、中央が正寝で東西に石牀が並び、牀上の石函の中に鉄の匣があり、前代の図書と鍾繇・王羲之の墨蹟がすべて納められていた。韜はこれをことごとく取った。韜の死後、元素が手にしたものが最も多かった。

廖凝

  • 廖凝、字は熙績。衡山の人。若くして南嶽に隠れた。祝融峰の頂に登って感興のままに韻文を成すと、当時の詩人はみな屈服した。
  • 元宗はその名を聞き、たびたび招聘したが、初めは詔に応じなかった。のち江南に賊が起こると、凝は「道を抱いて死ぬより、義に就いて我が一族を存えるほうがましだ」と言い、出て彭沢令となった。陶淵明の人となりを慕っていたが、やがて笑って「淵明は五斗のために腰を折らなかった。私がいつまでも人に使われていられようか」と言い、印綬を解いて衡山に帰った。
  • 久しくして再び起用され連州刺史となり、張居詠らと詩友となった。まもなくまた辞して衡山に隠れた。詩集七巻がある。
  • 一説に、凝は廖匡図の弟で、楚が亡んだのち金陵に移り、水部員外郎・建昌県令・江州団練副使を歴任したというが、どちらが正しいかは分からない。

洪文用

  • 洪文用は(欠字)の主簿となった。後主のとき、一族の澤とともに泉州の文圃山に隠れた。人々はその世に屈しない姿を高く評価した。

何溥

  • 何溥、字は令通。袁州宜春の人。生まれつき聡明で、雲気を見分け、地理・風水の説に通じていた。元宗はその賢を聞いてたびたび詔して起用しようとし、溥が天経地義の実について上言したので国子祭酒に抜擢した。
  • 保大年間、鄒廷翊が牛頭山に皇陵の地を相したが、溥は不利だとして強く諫争し、勅意に逆らって休寧令に落とされた。
  • 溥は着任するとすぐ県の位置を改め、呉王の墓の後ろに松蘿山を負い、前に真武下壇の地形を望む形にした。まもなく県の東南隅に土地を卜して住んだ。家の前の石を削って太極・八卦の諸図を刻み、茂った林と長い竹のなかで、しばしば襟を開いて悠然と嘯くのを常とした。
  • 後主のとき再び召されたが応じなかった。国が亡ぶと溥は号泣して血を吐き、芙蓉山に移り隠れ、髪を剃って頭陀となり、昭禅師を礼し、別号を慕真、また紫霞山人と称した。
  • 溥は禅門に身を寄せていたものの、仏教の語はまったく語らず、『道徳経』を誦するたび「真の聖人だ。孔子が私を欺くはずがない」と嘆じた。以後もっぱら長生・煉丹の術を修めた。宋の天禧初年、火解した。著書に『論気正訣』一巻があり世に伝わる。

謝銓

  • 謝銓、会稽の人。元宗父子に仕えて銀青光禄大夫・金吾大将軍となった。国が亡ぶと節義を守って辱めを受けず、一家を挙げて祁門に隠れた。士人の評価は高かった。

李元清

  • 李元清、濠州の人。周の軍が淮南に侵入したとき、元清の父は郷里の義士を集め、紙を折り重ねて鎧とし「白甲軍」と号して官軍とともに濠州の水寨を守った。兵が潰えると元清は金陵に移った。
  • 敏捷で走るのが速く、駆ける馬にも追いついた。しばしば徒歩で汴・洛に入って情報を探った。
  • 後主が即位すると、吉州永新が湖南と境を接するため、元清を永新制置使とした。数か月に一度は病と称して役所に出ず、微行して湖南の境に入ったが、誰にも気づかれなかった。敵の動きはつねに事前に察知した。在任数年、辺境は安穏だった。
  • それまで夏の賦税は現銭で納めることになっており、民は換算・両替に苦しんでいた。元清は絹一疋を銭一貫に折り換えることを定制とするよう奏請した。また状況に応じて課税を調整したので民は大いに助かり、年に諸科の物資を十余万集めて金陵に転運し、国用はこれによっていくらか救われた。
  • 国が亡ぶと元の官のまま汴に召された。元清は二国に仕えまいと心に誓い、失明したと偽った。召して検分し、刃を振り上げて首に迫っても瞬き一つしなかったので、濠州に帰され、そこで没した。

盧珖

  • 盧珖、代々閩の人。王氏が建国すると尤渓に難を避けた。保大四年(946年)、延平津に剣州が置かれ陳誨が刺史となり、尤渓も剣州に属した。尤渓にはもともと戍卒があって山賊を防いでおり、このとき珖が守将となった。
  • 李仁達が閩で乱を起こし、その将の陳匡弼に尤渓を襲わせた。珖は東郊の水亭でこれを防ぎ、力戦した。おかげで邑の人々は逃げのびて死を免れた。
  • 珖の兵が敗れると、珖は「人の邑を預かってその守りに当たった。邑を守れぬなら生きていて何になる」と言い、大声を上げて突進し、匡弼の将・劉掉刀に殺された。邑人は珖を杉嶺に葬った。
  • 珖の五人の子のうち四人も従軍して戦死した。末子は幼く草叢に捨てられていたが、隣家の老婆がその母を探し出して金陵に送り届けた。元宗は詔を下して珖を褒め、末子に総管を授け、その家の賦役を免じた。

許光大

  • 許光大、保大年間に沿海都巡検となり、寧徳県の硯江に住んだ。江に賊が来たとき、光大は短兵で接戦して陣中で戦死した。江の水は三日にわたって血のようになり、屍は潮に運ばれて帰った。郷人は廟を立てて祀った。

陳褒

  • 陳褒、江州徳安の人。旧唐の給事中・陳京の後裔である。十世同居し、老幼合わせて七百口、奴婢を置かなかった。毎日、堂上で会食し、男女は席を分け、まだ元服・笄をしていない者は別席とした。
  • 犬を百余匹飼い、一つの舟に餌を入れて与えたが、一匹でも来ないと群犬もみな食べなかった。
  • 褒はまた書楼を築いて四方の学者を迎えた。郷里は徳に感化され、訴訟はまれになった。
  • 彭李という代々の雇い人がおり、その父は長らく失明していた。彭李は褒の子弟が「舜は至孝で瞽叟の目を舐めると再び見えるようになった」と話すのを聞き、帰って真似たところ、数日で父の目が開いた。人を感化する力はこのようであった。
  • 昇元初年、詔してその家の賦役を免じ、門閭に表彰を掲げた。同時に旌表された家がなお数軒あり、いずれも五世同居だったという。

顔詡

  • 顔詡、禾川の人。旧唐の魯公・顔真卿の後裔である。幼くして父を失い、兄弟数人で継母に仕えて孝で知られた。文筆に優れ、礼の作法を整えた。
  • 晩年には一門百口を擁したが家法は厳粛だった。子弟が賓客と戯れているのを聞いても面と向かって責めず、韋昭の「博奕論」を手写して壁に貼り、自ら恥じさせた。
  • 詡の叔父が礼にかなわぬやり方で郷人の桑を占有し、郷人が県に訴え出た。県令が詡に裁定を委ねると、詡は自分の銭で償い、訴訟はやんだ。享年七十余。

許規

  • 許規、南陽の人。祖父の許儒は義として梁の粟を食まず、南に奔って歙州の山谷に隠れ、生涯そこを出なかった。儒の子が稠、稠の子が規である。
  • 規は道家の言を好み、人となりは慷慨で義を重んじた。かつて宣・歙のあたりを旅していたとき、隣の宿の書生がうめいているのを聞いて見舞うと、「私は某郡の者だ。あなたが長者と見たが、私は死ぬ。遺骨を託したい」と言い、袋の中の黄金十斤を指して「これで長者と交わりたい」と言った。
  • 規は承知して葬儀を取りしきり、遺骨を丁重に背負って千里を運び、黄金とともに死者の家に届けた。死者の父が中から出てきて驚き恥じ入り、亡き子の言うとおり金を寿ぎとして差し出したが、規は見向きもせずに去った。規の子が逖である。

許逖

  • 許逖、字は景山。人となりは慷慨で自負が強く、清らかな節操があった。後主のときしばしば上書して事を論じ、校書郎を得て監察御史に遷った。
  • 宋軍が金陵を囲むと、統軍使の張雄(すなわち李雄)が数万の兵で上江に駐屯していた。後主は逖に雄の兵を呼ばせた。逖が上江に赴いて事情を告げると、雄はもとより忠義の人だったので直ちに命に従った。
  • ところが後主は蝋書で雄を溧陽(溧水とも)に留めた。逖は「ここは陣を張る地ではない。留まれば必ず敗れる」と言い、雄を戒めて「敵が来ても動くな。一晩待ってくれ。私が入って申し上げ、公の兵とともに入城できるようにする」と言った。
  • 逖が去ると宋軍が挑発し、雄はすぐ出て戦い、果たして敗死した。逖は着いて敗兵千人を収めて帰った。人々はこれによって逖を兵を知る者と評した。
  • 国が亡んで宋に入り、召試を経て汲県尉となり、官は司封員外郎に至った。

欧陽彬

  • 欧陽彬、字は可封。吉州の人。元宗父子に仕えて武昌令・吉州軍事衙推となり、官は検校右散騎常侍兼御史大夫に至った。
  • 性は至孝で、兄弟仲がよかった。一茎に二つの花をつけた紫芝が柱に生え、郷人は孝徳の感応だとして賦や頌を作った。享年九十四。

鍾離君

  • 鍾離君、姓名は伝わらない。保大年間、鍾離県令となり、隣県の許令と縁組を結んだ。
  • 鍾離の娘が嫁ぐにあたり、付き添いの婢を一人つけることにした。ある日、その婢に箒を執らせて地面を掃かせたところ、堂の窪んだところで急に涙を流した。鍾離君が訳を問うと、婢は「幼いころ、父がここに穴を掘って毬の窪みを作り、私に遊ばせてくれました。年月は経ちましたが窪みはそのままです」と言った。
  • 驚いて「お前の父は何者か」と問うと、「父は二代前の県令です。父が死んで家が没落し、私は民間に落ちて売られ婢となりました」と答えた。鍾離君は直ちに人買いと老吏を呼んで確かめ、事実と分かった。
  • 折しも許令の子から納采の日取りが決まっていた。鍾離君は急ぎ書を許令に送り、「私は婢を買ったところ前の県令の娘だった。哀れでならず、義として長く辱めておけない。わが娘の支度金でまずこの娘を嫁がせたい。わが娘は年を改めて別に支度を整えて送りたいが、どうか」と伝えた。
  • 許令は「蘧伯玉は独りだけ君子であるのを恥じたという。あなただけが高義を独占することはない。前の県令の娘を我が子に配し、その後あなたは別に良縁を求めてご息女を嫁がせてはどうか」と返答した。こうして前の県令の娘が許氏に嫁いだ。

呉媛

  • 呉媛、浚儀の人。唐の史臣・呉競の後裔である。父の志野は義として梁の民となることを拒み、江南に奔って廬陵に仮寓した。
  • 媛は段某に嫁ぎ、子を生んだが一歳にならぬうちに段が没した。父母は媛が若く美しいので再嫁を勧めたが、媛は顔を切って自ら誓い、舅姑に敬い仕え、井戸汲みや炊事も自ら行い、生んだ子を善き士に育てた。韓熙載が江西に使いした際、その事を記録して朝廷に上申した。

聶氏

  • 聶氏、太平郷の民の娘。父を早く失い母と暮らしていた。ある日、母に従って山に薪を採りに入ったところ、母が虎にさらわれ、虎はうずくまって食べはじめた。
  • 聶は柴刀を手に虎の後ろから背に飛び乗り、手で頭を押さえて首筋を切り続けた。同行の樵夫たちも声を上げて加勢して斬りつけ、虎は暴れても逃れられず、そのまま死んだ。聶は家に帰って隣里に告げ、ともに母の遺体を収めた。当時わずか十三歳で、人々はみな驚嘆した。

龔氏の二女

  • 龔氏の二人の娘。父の慎儀は盧絳に殺された(事は慎儀の伝に見える)。二女は捕らえられて連れて行かれ、邵武の王堂・香厳寺に至ったとき、絳が酒宴で放縦に飲むあいだに、寺の裏の小さな塚で首をくくって死んだ。後人はその地を「烈女台」と名づけた。