十国春秋十國春秋卷二十八 南唐十四 韓熙載・徐鉉・徐鍇・高越(兄子遠)・殷崇義・蒯鼇・郭昭慶・盧郢・章僚
韓熙載——出自と南奔
- 韓熙載、字は叔言。濰州北海の人。若いころ嵩山に隠棲し、後唐の同光年間に進士に及第した。
- 父の光嗣は平盧節度副使。軍中がその帥である符習を追い出し、光嗣を留後に推した。明宗が即位して反乱を討つと、光嗣は連座して死んだ。
- 熙載は罪を恐れて南に走った。もともと李穀と親しく、別れぎわ正陽で酒を酌み交わしたとき、熙載は「江左が私を宰相に用いれば、一気に中原を平定してみせる」と言い、穀も「中国が私を宰相に用いれば、江南を取るのは袋の中の物を探るようなものだ」と応じた。
- 呉に着くと自ら売り込む文を書き、「泗水で春秋の学を得、邳垠で兵法を授かった」「陳平の六奇をめぐらせ、魯連の一箭を放つ」、さらに「范増を失って項氏は興らず、呂望を得て周は覇者となった」などと述べ、誇大な物言いが多かった。
呉から烈祖の時代——不遇の年月
- 烈祖が呉を輔けて法令の整備に努めていたころ、熙載は若く放蕩で身を慎まなかった。はじめ校書郎に補せられ、のちに滁・和・常の三州の従事として出された。
- このころ中原から来た人士は多く抜擢されたが、京洛で早くから才名を負っていた熙載だけは落魄して機会に恵まれなかった。それでも意に介さなかった。
- 烈祖が受禅すると秘書郎に召され、東宮で元宗に仕えさせた。烈祖は「そなたは早くに文名を挙げたが粗放で世事に未熟だから州県の労を経させた。これから用いる。身を慎んでわが子を輔けよ」と諭した。熙載は礼も言わず、東宮では談笑するばかりで政務に関わらなかった。
元宗朝——直言と排斥
- 元宗が位を継ぐと虞部員外郎・史館修撰に任じられ緋衣を賜った。熙載は嘆じて「先帝は私を知りながら顕用しなかった。私を慕容紹宗のような者と見たのだ」と言い、以後は朝廷の施行すべき事、吉凶の礼儀が式に合わぬ点などを事あるごとに正し、隠すところがなかった。このため宋斉丘・馮延巳らに大いに憎まれた。
- 烈祖の葬送にあたり、礼に通じるとして太常博士を兼ねさせられた。議者は孝高(烈祖)が昭宗の後を継いだのだから廟号は「宗」であるべきだとしたが、熙載は「自ら失ったものを自ら取り戻すのが反正、自分が失ったのではないものを自分が回復するのが中興であり、中興の君の廟号は祖と称する」と論じ、廟号を烈祖とするよう建議した。元宗はこれを嘉して容れた。
- まもなく知制誥に抜擢された。その詔命の文は典雅で、唐の元和年間の風格があった。
- 契丹が汴に入り晋主が北へ遷されたとき、熙載は上疏して「陛下には天下を経営し祖業を回復する志がある。今こそその時だ。契丹が去って中原に主が立てば、もはや図ることはできない」と説いたが、容れられなかった。
- 陳覚・馮延魯が福州で軍を失ったとき、当初は軍法にかけるべきだと議されたが、斉丘の口添えで官を削り外郡に遷すにとどまった。熙載は赦してはならぬと奏し、また斉丘の党与は必ず禍乱の基になると再三述べた。
- 熙載はもともと酒が飲めなかったが、斉丘は「酒に酔って乱暴した」と誣告し、和州司士参軍に貶した。宣州節度推官に移され、のち中央に戻って虞部員外郎、郎中・史館修撰に進み紫衣を賜った。まもなく中書舎人となり、鉄銭の発行を建議して戸部侍郎・鋳銭使を兼ねた。
北伐反対と周の南侵
- 周が中原を有すると、南唐では北伐を主張する者が多かった。熙載は「北伐は本より私の意だが、今は不可だ。郭氏は曹操・司馬懿の類の奸雄で、建国は日が浅いが守りは固い。妄りに兵を動かせば無功ではすまぬ」と言った。
- 言は切実だったが朝廷は兵を構えるのをやめず、周はこれを口実として淮南に攻め込んだ。
- 斉王景達が兵馬元帥として辺境に臨み、陳覚が監軍使となった。熙載は「出師は大事であり、まず名分を正すべきだ。親王より信ずべき者はなく、元帥より重い職はない。監軍使など何に用いるのか」と述べたが、これも用いられなかった。
後主朝——自汚と晩年
- 後主が即位すると吏部侍郎に改められ、まもなく秘書監に移り、一年たたずに旧官に復した。新銭が行われると詔で銭二百万を賜り、兵部尚書・勤政殿学士承旨に任じられた。
- 熙載は才気が奔放で多芸、談笑に巧みで、衣冠にはつねに新しい様式を作り、当時の風流の第一人者だった。とりわけ碑碣の文に長じ、他国の人が数千里の遠くから金帛を車に積んで文を求めた。
- しかし細事に無頓着な性格は老いていっそう甚だしくなり、妓四十人を抱えて出入りを自由にさせ、客と雑居させたため、内向きの締まりがなく世論が沸いた。熙載は親しい者に「これは自ら汚して宰相になるのを避けるためだ。もう老いた。千古の笑いものにはなりたくない」と密かに語った。
- 病と称して朝せず、太子右庶子に落とされ南都に分司となった。熙載が妓をすべて追い払うと後主は喜び、留めて秘書監とし、まもなく元の兵部尚書に復した。大いに用いようとした矢先、去った妓がみな戻ってきたので、後主は「私にもどうしようもない」と嘆じた。
- のちに「格言」五篇を奉った。後主は手詔で慰め、中書侍郎・光政殿学士承旨に任じた。これに先立ち後主は近侍の臣を選んで禁中に宿直させ、しばしば光政殿で夜半まで召し対していたので、この職を設けて特別の寵遇を示したのである。
- 開宝二年(969年)、城南の戚家山で病臥した。上表におよそ「草を横たえるほどの功もなく、天に滔る過ちばかり。老妻は枕に伏して呻き、幼子は牀を巡って泣く」とあった。翌年(970年)に没した。享年六十九。
- 後主は衾被を賜って歛めさせ、侍臣に「私はついに熙載を宰相にできなかった。平章事を贈りたいが、古にそのような例はあるか」と問うた。潘佑が「晋の劉穆之に開府儀同三司を贈った故事があります」と答えたので、右僕射・同平章事を贈り、朝を三日廃し、諡を文靖とした。梅嶺岡の謝安の墓のかたわらに葬るよう命じ、徐鉉が墓誌銘を作った。
- 子は八人、疇・伉・佩・份・儼・侹・儔・俛。疇は奉礼郎、伉は校書郎。著書に『擬議集』五十巻、『定居集』二巻がある。
人物——気節と眼識
- 熙載は高潔簡素で人に屈することがなく、江左では「韓夫子」と称された。
- 厳続が父の可求の神道碑を書いてほしいと巨万の珍貨を贈ってきたが、書き上がった文は系譜と官位を叙するだけだった。続が不満で送り返すと、熙載は贈り物も突き返した。
- 宋斉丘が自ら署名した碑碣の文を熙載に書かせようとすると、熙載は紙で鼻をふさぎ「文が汚くて堪えられない」と言った。
- 一方で後進を引き立てるのを好み、採るべき文を見ると自ら書き写し、その名声を広めてやった。
- 隷書も絵も当時抜群だった。とりわけ人を見る目で知られ、周に使いして帰ったとき、元宗が周の将相を一人ずつ問うと、熙載は「趙点検(趙匡胤)の目つきは尋常でなく、測りがたい人物です」と答えた。のち果たして宋の太祖が周に代わり、人々はその先見に服した。
徐鉉——出自と初仕
- 徐鉉、字は鼎臣。代々会稽の人。父の延休は呉の江都少尹となり、そのまま広陵に住みついた。
- 鉉は十歳で文を綴り、成長して韓熙載と名を並べ、江南では「韓徐」と呼ばれた。呉の校書郎から身を起こし、烈祖父子に仕えて試知制誥となった。
- 宰相の宋斉丘と反りが合わなかった。あるとき軍中の書檄を手に入れた者があり、鉉は弟の鍇とその引用の不適切さを論評した。その檄はもともと殷崇義の筆だったため、崇義は斉丘とともに鉉・鍇が機密を漏らしたと誣告した。鉉は泰州司戸掾に貶され、鍇は烏江尉に落とされた。
元宗朝の直言
- まもなく祠部郎中に遷り知制誥に復した。貢挙は設けたばかりで急に廃すべきでないと上言し、元宗はこれを容れて再び貢挙を行わせた。
- 元宗が内臣の車延規・傅宏に楚州で屯田を営ませたところ、民は苦しみに耐えかねて群がり盗賊となった。鉉が伝馬で巡撫に赴くと、着くなり屯田の廃止を奏し、内臣を厳しく責めて容赦せず、また賊の首領を捕らえて軍前で斬った。専殺の罪に問われ舒州に流された。
- 周が南侵すると元宗は鉉を饒州に移し、のち召して太子右諭徳とし、また知制誥に復して中書舎人に遷した。後主のときは礼部侍郎となり中書省の事を通署し、尚書右丞・兵部侍郎・翰林学士・御史大夫・吏部尚書を歴任した。
宋への使い——抗論
- 宋軍が金陵を囲むと、後主は鉉を派遣して援兵を求めさせた。当時、朱令贇が十余万の兵を率いて上江から救援に向かっていたが、後主は鉉を送り出した以上、令贇の東下を止めようとした。鉉は「今、社稷が頼むのはこの援兵だけです。なぜ止めるのですか」と言った。後主が「和解を求めながら決戦しては、そなたに不利ではないか」と言うと、鉉は「この使いで国難を緩められるとは限りません。私のことは度外視してください」と答えた。後主は涙を流し、鉉に左僕射・参知左右内史事を授けたが、鉉は固辞した。そこで隠士の周惟簡を仮の給事中として鉉の副とした。
- 鉉らが宋に至ると、宋の太祖は鉉が弁舌に長けると知り、その能を発揮させまいと、わざと書物を知らぬ武弁を接待役に当てた。鉉は終日論じ立てたが相手は答えようもなく、どうにもならなかった。
- 便殿での謁見では、鉉は江南が大国に仕える礼はきわめて恭しく、王への祭祀を欠く罪もない、ただ病のため朝謁に堪えないだけで詔を拒んだのではない、と述べ、兵を緩めて一国の命を全うしてほしいと乞うた。
- 太祖と何度もやり取りするうち、鉉の言葉はいよいよ勢いを増し、「李煜に罪はなく、陛下の出師には名分がありません」と言った。太祖は激怒したが、言い尽くせと命じた。鉉は「陛下は天のごとく父のごとし。天なればこそ覆い、父なればこそ子を庇う。煜は二十余年貢賦を納め、小をもって大に事えること子が父に事えるがごとくで、過失はありません。なぜ討たれるのですか」と述べた。太祖が「そなたは父子が二つの家であってよいと言うのか」と返すと、鉉は言葉に詰まった。
宋に仕えて——後主の死をめぐって
- のち後主に従って宋に帰した。太祖が厳しい声で責めると、鉉は「臣は江南の大臣です。国が亡んだ以上、罪は死に当たります。それ以外を問われる筋はありません」と答えた。太祖は「忠臣だ。私に仕えても李氏に仕えたようにせよ」と嘆じ、太子率更令に任じ、のち左散騎常侍を歴任させた。
- 勅を奉じて湯悦(殷崇義)とともに『江南録』を撰したが、南唐の亡国の際については過失を言わず、ただ暦数の存亡として論じた。君子はその態度を評価した。
- 太平興国年間、太宗が「李煜に会っているか」と問うと、鉉は「私事で謁見などできません」と答えた。太宗が「行ってよい、朕の命だと言え」と言うので、鉉はそのまま門に赴いた。門番が朝廷の禁を理由に拒むと、鉉は「勅を奉じて来た。太尉にお会いしたい」と言い、門番が取り次いだ。庭下で待っていると後主が急いで手を取って上がらせようとしたが、鉉は固辞した。後主が「今日そのような礼があろうか」と言い、庭に座を設けた。鉉は席をやや脇に引いて座った。
- 後主は立ち上がって鉉の手を取り大笑したが、やがて黙り込み、ふと長嘆して「あのとき潘佑を殺したのが悔やまれる」と漏らした。鉉は何も言わず辞去した。
- しばらくして「後主は何を言ったか」と下問があり、鉉はありのままに述べた。太宗はこれを恨み、さらに後主の「故国不堪回首」の詞を聞いていっそう怒り、秦王に酒宴を移させて牽機薬を賜り、後主は死んだ。太宗は降王たちの多くを容れられなかったが、後主の禍はこの鉉の一度の面会が端緒となったのである。
晩年と学問
- 数年後、鉉は静難軍行軍司馬に貶された。もともと汴京に来たとき毛皮の褐を着る者を見て笑っていたが、邠州の厳寒でも毛褐を着なかったため冷えの病を得た。ある朝、冠帯を整えたところで急に筆を求め、自ら後事の始末を書き、別に「道なる者は天地の母」と署した。書き終えて没した。享年七十六。
- 鉉は淡白で欲が少なく、質直で飾り気がなかった。李斯の小篆を好んでその妙に達し、隷書も巧みだった。
- 宋に入ってから詔を受け、句中正・葛端・王惟恭らとともに『説文』を校訂した。文集三十巻、『質疑論』若干巻がある。『稽神録』として伝わるものは多く食客の蒯亮に出るもので、鉉の作ではない。
- 博学で珍しい書物を読みこなし、弟の鍇としばしば猫にまつわる典故を挙げ合い、七十余条に及んだ。また宋人が象を解体して胆が見つからず皆が不思議がったとき、鉉は「象の胆は四足にある。春なら左前足を探せ」と言い、果たしてその通りだった。
徐鍇——出自と出仕
- 徐鍇、字は楚金。鉉の弟。四歳で父を失い、母はまず鉉に学ばせて鍇まで手が回らなかったが、鍇は独りで書を解した。長ずるに従い文辞は鉉と名を並べた。
- 昇元年間、文人は浮薄だとして経義や法律で士を採る議が起こると、鍇はこれを恥じて門を閉ざし仕官を求めなかった。
- 鍇は常夢錫と門下省で同直となり、夢錫は鍇の文を見せられて絶賛し、烈祖に推薦した。用いられぬうちに烈祖が没した。
- 元宗が位を継ぐと秘書郎から起用され、斉王景達の奏請で記室となったが、まもなく烏江尉に貶された。一年余りで召し返され、右拾遺・集賢殿直学士となった。馮延魯は罪があって才なく人望も薄いので巡撫使にすべきでないと論じ、重ねて権要に逆らって秘書郎として東都に分司とされた。しかし元宗はその才を愛して再び召し、虞部員外郎とした。
- 後主が立つと屯田・知制誥・集賢殿学士に遷り、官名の改称後は右内史舎人となって金紫を賜り、光政殿に宿直して兵部・吏部の選事を兼ねた。兄の鉉とともに近侍にあり、当時「二徐」と呼ばれた。
游簡言との逸話と学識
- 鍇は在職が長く中書舎人に昇るはずだったが、国政を執る游簡言がいつも抑えていた。鍇が簡言を訪ねると、簡言はゆったりと「君の才と家柄なら中書舎人どころではない。ただ兄弟が並んで清要の地位にあるのは物議を招くほど盛んすぎる。少し遅らせたほうがよい」と言った。鍇は不満げだった。簡言がおもむろに妓を出して酒に侍らせると、歌う詞はみな鍇の作だった。鍇は大喜びで立って謝し、「丞相のお言葉こそ私の本意です」と言った。帰って鉉に話すと、鉉は「お前は馬鹿だ。数曲の歌で中書舎人を取り替えるのか」と嘆息した。
- 鍇は四度貢挙を主宰し、人材を得たと評された。『質論』十余篇を著し、後主が自ら朱墨で校定し、さらに自作の文をまとめて鍇に序を書かせたので、士人はこれを名誉とした。
- 読書を酷愛し、厳冬酷暑でも少しも休まなかった。後主がある日、周載の『斉職儀』を手に入れたが、江東にはもとよりこの書がなく誰も知らなかった。鍇に問うと一つ一つ答えて漏らすところがなかった。その博記はこのようであった。
- 長く集賢院にあって書冊を手放さず、暮れなければ退出しなかった。小学(文字学)に精しく、校訂した書はとりわけ厳密だった。自分の家を指して「私はここに仮寓しているだけだ」と人に言った。江南の蔵書の盛んなことは天下一だったが、鍇の力によるところが大きい。後主はつねに「群臣が徐鍇の集賢院での勤めのように励んでくれれば、何も憂えることはない」と嘆じた。
- 宋の李穆が使いに来て鍇と鉉を見、「陸機・陸雲の類だ」と嘆じた。
- ある夜の宿直で天下の事を諮問され、人を用いるのに才と行のどちらを先にするかという話になった。後主が「多難のときは才を先にすべきだ」と言うと、鍇は「韓信・彭越ほどの才があっても行いがなければ、陛下は十万の兵を託せますか」と言い、後主は感心した。
死と著作
- 国勢が日に日に削られるなか、鍇は憂憤して病を得、家人に「これで俘虜として田を耕らされずにすむ」と言った。開宝七年(974年)七月に没した。享年五十五。礼部侍郎を贈られ、諡は文。
- 著書に『説文解字繋伝』四十巻、『説文通釈』四十巻、『方輿記』百三十巻、ほかに『古今国典』『賦苑』『歳時広記』などの文章若干巻がある。
- これに先立ち宋軍が江南を伐ち金陵が陥ちようとするころ、四角い顔の女子が空を行き、大きな箕で豆のような物をふるい落とし、地に着くとみな人になる夢を見た者があった。問うと「これは難に死ぬ者だ」と答えた。のち金紫の貴人が墜ちるのを見て「これは徐舎人だ」と言われた。覚めて怪しんだが、朝になると鍇の死を聞いた。
高越——出自と盧文進
- 高越、字は沖遠。若くして進士に挙げられ、詞賦に精しく燕・趙の間で名があった。
- 盧文進が上党に鎮したとき礼幣を尽くして招き、はじめは客として従った。文進が安州に鎮すると越もこれに従い、その掌書記となった。文進の次女は才色があり文章もよくして「女学士」と号され、越の妻とされた。
- 文進が南に奔ると越も同行し、まず鄂の帥である張宣を頼ったが久しく認められず、鷹を題材とした詩でこれを諷した。
- そのまま広陵に至り、呉は秘書郎とした。
南唐での官歴
- 烈祖はその文章を愛し、斉国が立てられたころ祈祷・祭祀・宴送の文の多くを越に作らせた。烈祖の受禅後、水部員外郎に遷り、祠部・浙西営田判官に改められた。
- 江文蔚とともに賦の巧みさで江表に名を馳せ、当時「江高」と並称された。
- 保大初年、文進が没すると、その家を傾けようとする者があった。越が上書して文進を称えたため、蘄州司士参軍に落とされ、そのまま軍事判官に遷った。
- 隠士の陳曙と世俗を離れた交わりを結び、淡々として栄利を志さなかった。久しくして広陵令に移り、還って吏部の銓衡を判じ、侍御史知雑・元帥府掌書記・起居郎・中書舎人を歴任した。
- 淮南で戦端が開かれると、書詔の多くは越の手から出た。筆を執れば直ちに成り、辞采は温雅で美しく、元宗は職に堪える者と認め、二徐と同等に遇した。しかし数年間、官は動かなかった。
- 後主が立つとようやく御史中丞・勤政殿学士・左議諫大夫兼戸部侍郎に進み、国史を修めた。末疾のため退き、久しくして没した。享年六十二。諡は穆。貧しくて葬れず、後主が葬費を給した。世人はその清廉を嘆じた。
高遠——高越の兄の子
- 高遠、字は攸遠。父の操は袁州別駕。遠は幼くして父を失い、人となりは淳雅で淡泊、しかも事に臨んでは非凡な節操があった。門を閉ざして学に励み、人づきあいをしなかった。
- 烈祖の受禅後、四方の秀才を招いたとき、遠は秘書省正字となった。保大初年に校書郎に遷り太常修撰を兼ね、そのまま太常博士となった。
- 淮南で兵が起こると元宗が召見して金紫を賜り、戎府の書檄を掌らせた。礼部員外郎・枢密判官・侍御史知雑・史館修撰・起居郎・知館事を歴任し、勤政殿学士となった。
- 建国当初、兵部尚書の陳濬に呉の史を修めさせたが未完のまま没した。その後、史職に就いた者は貴族の遊興の徒や新進の若者が多く、編纂はほとんど廃れていた。遠は保大年間から史事に参与し、まず『烈祖実録』二十巻を撰した。叙述は詳密だった。後主の代には徐鉉・喬匡舜・潘佑とともに『呉録』二十巻を完成させ、さらに自ら『元宗実録』十巻を撰した。
- 献上する前に病にかかり、史稿と自著をすべて焼いてしまった。享年五十七。給事中を贈られ、諡は良。後主が国史を修めようとしてその家に草稿を求めたが、何も残っていなかった。
- 遠には鋭い見識があった。辺鎬が潭州に入り湖南が平定されて百官が入賀したとき、遠だけは「楚の乱に乗じて取るのは易いが、諸君の才を見るに守るのは難しかろう」と言った。聞く者は驚き言い過ぎだとしたが、のち予想どおりになり、皆その先見に服した。
殷崇義——出自と元宗朝
- 殷崇義、陳州西華の人。父の文圭は呉の翰林学士。崇義は博識で文章をよくした。
- 元宗に仕えて学士に至り、枢密使・右僕射を歴任した。かつて揚州孝光寺の碑を撰したが、周の世宗が淮南に親征して寺に駐留した折にその文を読み、長く感嘆した。
- 江を境と定めて和を請うたとき、元宗は崇義を入貢の使いとし、世宗は厚く礼遇した。
- 淮上での用兵以来、書檄・教誥はみな崇義が担当した。とりわけ典雅豊富で事情に即しており、周の世宗は江左の章奏を見るたび節を撃って賞讃した。
- 元宗が南都に遷ると、枢密使として厳続とともに太子を輔け金陵の留守とされた。
後主朝から宋へ
- 後主が即位して民間に鉄銭を行わせると物価が高騰した。崇義は「貨幣がしばしば変わるのは乱を招く。豪民富商が財産を保てなければ乱を思う心が募る」と数百言を尽くして上言したが、返答はなかった。
- まもなく右僕射・同平章事に進み、開宝二年(969年)五月、罷めて潤州節度使となったが同平章事はそのままだった。のち官名が改まり、司空・知左右内史事となった。
- 国が亡んで宋に入ると、宣祖の廟諱を避けて姓名を湯悦と改めた。太宗の勅で『江南録』十巻を撰し、自ら陳寿の史体に倣ったと言い、当世でも高く評された。
- 当時、降王たちの多くが尋常でない死に方をし、その旧臣には恨み言を漏らす者もあった。太宗は彼らをそろって館に置き『太平御覧』などの編纂に当たらせ、俸禄を厚くした。多くはそのまま館中で老いて没したが、崇義もその一人である。
史論
- 論に曰く。韓熙載の制誥には元和の風格があり、議論は宏大で正しく、博識で要を得ていて、まことに国を経営する華である。徐鉉・徐鍇は互いに競い合い、高越・高遠は轡を並べた。呉の二陸(陸機・陸雲)とてこれに何を加えられよう。殷崇義は文采が見事で著述に巧みであり、陳寿をもって自任したのももっともなことである。
蒯鼇
- 蒯鼇、宣城の人。文をよくした。江南は唐末の繊麗な文体の弊を受け継ぎ、士人はおおむね自ら立ち直れずにいたが、鼇だけは華美な修辞に走らず、理趣を本として太平の遺風を得ていた。
- しかし郷里では博打にふけって行いが悪く、士人に受け入れられなかった。そこで廬山の国学に入ったが、無頼ぶりはいっそう甚だしかった。
- 晩年になってようやく気風を正し、信義を重んじ、一度口にしたことは必ず果たした。かつて龍尾硯を持っていて、友人が欲しがったが口に出さず、鼇も心中では譲るつもりで、まだ渡していなかった。ある日その友人が黙って帰ってしまうと、鼇は悔いて数百里を徒歩で追いかけ、硯を渡して戻った。
- それでも日ごろの行いのため役所に排斥され、後主の末年になってようやく仕官の列に入った。国が亡ぶと銓衡・任官が及ばぬまま、二度と仕える気を起こさなかった。
- 宋の開宝年間、汴京に遊んだ折、樊若水が朝廷に推薦しようとしたが、鼇はこれを恥じて急ぎ帰り、廬山に隠れて数年で没した。
郭昭慶
- 郭昭慶、禾川の人。父の鵬は保大初年の進士で大理司直に至った。前の南平王鍾伝の夫人が僧と通じたと訴える者があり、大理卿の蕭儼は法に照らして徒刑と議したが、鵬は法の運用は身分の高い者から正すべきだとして法を曲げてこれを誅した。のち宋斉丘が罪を得ると、鵬も党与として免官となり没した。
- 昭慶は博学で著述に巧みだった。九経に擬えて『唐春秋』三十巻を撰した。元宗のとき自著の『治書』五十篇を献じたところ、進士に応挙せよと言われた。昭慶は不服として上書し、「継ぎはぎの雕虫の技は、私が若いころから恥じて手を出さなかったものです」と述べた。これにより召対を得て揚子尉を授けられたが、辞退して禾川に帰った。
- 県令が訪ねて挨拶したのに昭慶が会おうとしなかったため、令は恨みを含み、戸籍を調べる機会に昭慶を新設の軍籍に入れてしまった。
- 後主が即位すると、昭慶はふたたび金陵に赴き『経国治民論』を献じた。おおむね池州・采石など要害の地を指し示し、東海の隅に版図を広げる方略を述べたもので、著作郎に抜擢された。
- 当時は中朝(宋)に仕えており、毎年の慶賀・貢物に添える牋表や、使者の労いと宴送の辞は、おおむね昭慶が作らされた。
- 昭慶は徐鍇兄弟と折り合いが悪かった。鍇が先に名刺を通じたとき官銜に署名がなかったので、昭慶は怒って罵り投げ捨てた。たまたま客将の李師義が昭慶の隣人で、しかも鍇の姻戚だった。鍇はひそかに師義に昭慶を招かせ、酒に毒を盛らせた。翌朝、昭慶は参内しようとして急死した。
- 昭慶の『治書』のうち「禁絶」三篇は天文や孫子・呉子の兵法を述べたもので、『経国論』などとともに世に行われた。ただ『唐春秋』だけは鉉・鍇に隠されて見ることができなかったという。
盧郢
- 盧郢、金陵の人。文章をよくし、腕力に優れ、鉄笛を吹くのを好んだ。
- 乾徳年間、後主は韓徳霸を都城の烽火使として非常を警戒させた。徳霸は権を笠に着て横暴で、その先駆けを見ると人々は逃げ避けた。郢はこれに出会っても平然と笛を吹き続けた。徳霸が左右に捕らえよと叱ると、郢は腕を振るって十余人を打ち倒し、まっすぐ進んで徳霸を馬から引きずり落とし、殴って顔を傷つけ目を痛めた。徳霸が憤って訴え出ると、後主はこれを叱って退がらせ、近侍を顧みて笑い「軍の帥ともあろう者が一書生に手も足も出ず、その面で訴え出るとは」と言い、その職を罷めた。
- 翌年、郢は進士に挙げられ、「王度如金玉」の賦を試みて第一に及第した。
- 徐鉉は郢の姉の夫だった。後主の命で文を撰することになり、幾日も仕上がらずにいた。郢は「代わりに考えをまとめましょう」と言い、折しも庭に十人がかりでも持ち上がらぬ石があったのを弄び、しばらくして酒を求めて数升を一息に飲み、また石を弄んだ。やがて筆吏を呼んで口述させ、一字も改めなかった。鉉はその出来映えに感服し、郢の文をそのまま奉った。後主は鉉に「語勢が力強く、そなたの作ではあるまい」と言い、鉉は正直に答えた。郢はこれによって名を知られた。
- 国が亡んで宋に入り、全州の知事となって没した。
章僚
- 章僚は著述をよくした。後主のとき如京使として高麗に使いし、その国の山川・事跡・物産を詳しく調べ、『海外使程広記』三巻を撰した。史虚白が序を書いた。
- おおむね次のような内容である。高麗には二京・六府・九節度・百二十郡があり、内には十省四部の官を置く。朝服は紫・丹・緋・緑・青・碧。俗に扁平な頭を好み、男子が生まれると翌朝その頭を押さえつける。
- また高麗には銅が多く、農家の弁当の器もみな銅製である。「服席」という温器があり、形は中国の鐺のようで、底は四角く蓋は円く、七八升が入るという。
- 地誌を扱う家は、この書をしばしば博識の書として挙げている。