十国春秋十國春秋卷三十 南唐十六 郭廷謂・朱令贇・陳大雅・盧絳ほか南唐末期の諸臣
郭廷謂——出自と濠州の守り
- 郭廷謂、字は信臣。彭城の人。父の全義は濠州観察使を務めた。廷謂は幼いころから学を好み、書に巧みで騎射をよくした。殿前承旨に補せられ、濠州中門使として出た。全義が没すると荘宅使に抜擢され、そのまま州の監軍となった。
- 周が淮南に侵攻すると、廷謂は州将の黄仁謹と死守を誓った。周は間諜に鉄券(降伏の保証状)を持たせて城壁に近づけたが、廷謂は拒んだ。
- 州民のうち素行の悪い者を寺に集めて厳重に見張り、日々食を与えて能力に応じて守城具を作らせた。そのため周軍は城中の虚実をまったく掴めず、長く落とせなかった。元宗はその忠節に嘆じ、大規模に軍船を発し、林仁肇とともに寿州を救援させた。
渦口の橋を焼く
- 周の世宗はこれを聞き、下蔡の浮橋を渦口に移し、東西に塁を築いて橋を守らせ、張従恩・焦継勲に守備を命じた。
- 廷謂は仁謹に「これは濠州・寿州の禍いのもとだ。敵は騎兵に長けて陸で有利、我らは水軍に長けて水で有利だ。今年の夏は長雨で淮水が溢れている。舟兵二千を貸してほしい。橋を断ち城を屠り、まっすぐ寿春に迫る」と説き、仁謹は従った。
- 軽舟で流れを遡って急ぎ渦口に赴き、兵を指揮して綱を断ち、すべて焼き払った。周軍は大敗し死者は数知れず、その物資と兵糧を焼いて帰った。功により武功殿使を授けられた。
- 周軍が退いて定遠を保つと、廷謂は壮士を募って行商人の姿で定遠に入り、兵力と守将の名を偵察させた。「武行徳と周務勍です」との報に、廷謂は「これは図れる」と言い、郷兵一万余と兵卒五千を集めて日夜訓練し、山に沿って枚を銜えて伏兵を置き、これを破って数百を斬った。行徳は身一つで逃げた。
- 玉帛や子女を廷謂に贈る者があったが、すべて突き返し、良馬二百匹だけを取って献上した。功により滁州刺史となり、上淮巡検・応援兵馬都監を兼ねた。
濠州の降伏
- 紫金山の戦いで将帥の多くが周に降ったとき、廷謂だけは軍を還して濠州を守り、追撃も及ばなかった。濠州の守臣が城を捨てて逃げようとしたのを廷謂が止めた。まもなく濠州団練使を加えられ、壁塁を修め武具を整え、つねに敵が来るかのように備えた。
- 世宗が再び南征すると、廷謂は金陵に表を送って援軍を請い、あわせて「周軍の勢いは日ごとに増している。言葉を低くして和を請い、機会を待つべきだ」と述べた。夜、決死の兵千余を出して周の陣営を襲い破り、雲梯や洞屋を焼いた。周軍は大いに驚き、押し合って踏み殺される者が多かった。
- しかし援軍は来なかった。世宗は自ら城を攻め、戦艦数百艘を焼いて二千人を殺し、羊馬城を攻めてさらに数百人を殺した。間諜に詔を持たせて降伏を諭すと、廷謂はもはや支えきれぬと判断し、周に上表して「代々本国の爵命を受け、家は江南にあります。使者をやって国主の指示を仰ぎたい」と切々と述べた。世宗はこれを許し、攻撃を緩めた。
- 使者が戻って金陵が結局救援できないと知ると、廷謂は将士を塁門に集め、南に向かって慟哭し再拝して降った。
- 山陽で世宗に会うと、特に宴を賜って労い、「兵を起こして以来、江南は敗亡が相次いだが、卿だけが渦口の浮橋を犯し定遠の寨を破った。国に報いるには十分だ。濠州は小城だ。汝の主に自分で守らせて、国が保てようか」と言った。襲衣・金帯・良馬および器皿一万余を賜り、亳州防禦使に任じ、弟で本州馬歩都校の廷讃を和州刺史とした。
宋に入って
- そこで濠州の兵を率いて天長軍を攻め落とさせた。楼櫓・戦櫂左右廂都監に遷った。
- 宋に入って官は静江軍節度観察留後に至り、梓州を知り、交代して帰ると汴京に邸宅を賜った。開宝五年(972年)に没した。享年五十四。子は延濬。
- 廷謂が降ったとき、元宗は力尽きたことを酌み、他の叛いた者とは違うとしてその家族を赦した。
- 廷謂は恭謹な性格で、母に孝行なことで知られ、朝夕に帯を締めて立ち侍り、寒暑を問わず変わらなかった。政治にも恵み深く、百姓に称えられた。
朱令贇
- 朱令贇、大将軍・朱匡業の甥。額は槌のように張り出し目は鷹のようで、敏捷で射に長け、軍中では「朱深眼」と呼ばれた。累進して神衛軍都虞候に至り、のち林仁肇に代わって鎮南軍節度使となった。
- 開宝年間、後主が討伐を受けて宋軍が金陵を囲むと、令贇は救援に召された。軍が湖口に至ると諸将と議して「今、前進すれば北軍が背後を占め、上江が遮られる。進んでも敵を破れず、退けば兵糧が絶える。どうすべきか」と言い、南都留守の劉克貞に檄を送って出兵を促した。到着を待って湖口の守りを代えさせるつもりだったが、出発してみると後主の危急は迫り、督促の飛書が相次いだので守りきれなかった。
- 当初の議のとおり、戦櫂都虞候の王暉とともに流れに乗って進んだ。潯陽湖から木を編んで長さ百余丈の大筏を作り、大艦は千人を収容できるもので、一気に下って采石の浮橋を断とうとした。ところが折しも江の水が涸れ、舟筏の進行は難渋した。さらに宋軍が中洲のあいだに長い木を密かに立てて帆柱のように見せかけたので、令贇は伏兵を疑ってすぐには進めなかった。
- 虎蹲洲に至って合戦となった。令贇の乗る艦はとりわけ大きく大将の旗鼓を立てていたので、宋軍は小舟を集めてこれを攻めた。
- 令贇はかねて巨舟を造り葦を詰めて油を注いだものを用意し「火油機」と名づけていた。ここでその火油で焼き討ちをかけ、宋人は支えきれなかった。ところが北風が吹き返して自軍を焼き、水陸十五万の軍は戦わずして潰えた。令贇は狼狽して火に身を投げて死んだ。糧米も武具もすべて焼けて何一つ残らず、煙と炎は十日も止まなかった。これ以来、金陵への外部からの援軍は絶え、ついに滅亡に至った。
- はじめ軍が石碑営に至ったとき、濃い霧が昼のうちから幕のように営を覆い、掌も見えなかった。外から見ると気が虹のように天まで立ち上っていた。不祥の兆であり、数日もせず敗れた。
陳大雅
- 陳大雅、字は審己。後主のとき衛尉卿。宋軍が金陵を囲むと、陳喬が使者を包囲下から出して上流の援軍を急がせようとした。後主は大雅に「審己は儒者だ。平時から人の急を救ってくれた。私のために無理を承知で行ってくれるか」と言った。
- 大雅は再拝して「陛下は十余年、心を砕いて士を養われましたのに、群臣は万分の一もお報いしておりません。この危急に臣は万死をいといません。ただ愚考しますに、覆水の勢いは挽回しがたく、ご威光を承っても果たせぬかと恐れます」と述べた。
- 後主は「私は生来、禅学を好み、世俗の味は淡いものだった。先帝が世を去られたとき、嫡子が早世して順序を越えて立ったので、もとより本意ではない。江を割いて以来、中朝に身を屈し、つねに罪を得るのを恐れ、いつも位を捨てたいと思っていたが、方法がなかった。今こうして大討伐を招いた。私も一日の恥を惜しみはしない。ただ長く抵抗を続けたため受け入れられまい。それゆえ上江の戍兵を起こして声援としたいのだ」と言った。
- 大雅がさらに「上江の大帥・朱令贇は諫めを聞かず独断で遠謀がありません。頼るには足りぬかと」と言うと、後主は色をなして「諸臣は平生、稷や卨のような大言を吐きながら、目先では任蠻奴のような策しか考えぬ。私は誰に命を託せばよいのか」と言った。
- その夜、大雅に令贇らの軍を発する詔が下った。大雅は疾駆して軍に至り、令贇に道を倍して勤王するよう勧めた。令贇は勝ち目がないと知り、「私の首は国家のために一死を捧げると決めた。あなたと共倒れになっても益はない。あなたは先に入って報告してくれないか」と言った。
- そこで矢と石をくぐって密かに金陵に入り、後主と向かい合って涙を流し、「令贇の軍は必ず成功しません」と言った。
- 城が陥ちた日、大雅は殿の角の井戸に身を投げたが、衣が井戸枠に引っかかって死にきれず、兵に引き上げられた。宋の将・曹彬は後主に従って宋に入らせ、太子洗馬に任じられた。一年余りで悶々としたまま没した。
盧絳——出自と無頼の時代
- 盧絳、字は晋卿。宜春の人。自ら歙州刺史・盧肇の後裔と称した。初名は衮で、晋の魏絳を慕って改名した。
- 読書して大意はいくらか通じ、当世の利害を論じるのを好んだが、規範にはこだわらず、いつも博打や角力にふけっていた。進士に及第せず捨て去り、吉州回運務の計吏となったが、倉庫の金を盗んだのが発覚して死罪に当たるところ、儒者の服に着替えて江湖に亡命した。
- 新淦に至って土豪の陳氏に身を寄せ、その子弟とともに学んだ。絳は縦横家や兵家の言を好み、日夜狩りをしていた。陳氏は士人ではないと見抜き、「朝廷は今、賢豪を求めている。君がここに長居するべきではあるまい」と言い、旅の支度を厚く整えて送り出した。
- 絳は宜春に帰る途中、博打で路銀を使い果たした。家に着くと母や兄弟にみな軽蔑され罵られた。
- そこで廬山の白鹿洞書院に入ったが、無頼ぶりは変わらず、屠殺や商いを事とし、同舎生から金を脅し取り、専売品を山中の商人に押し売りし、人の弱みを握って賄賂を求めたので、皆が迷惑した。諸葛濤・蒯鼇とともに「廬山の三害」と呼ばれた。国子助教の朱弼が罪を問おうとすると、また逃げ去った。
- 金陵と丹陽のあいだを往来し、厳寒に遭うと平地から跳び上がって軒の垂木を折り薪にして凌ぎ、倉の番人が帰ると倉の軒に跳び上がって気楼から中に入り、一晩に数十往復して米を盗んだ。
呉越攻略の献策
- 久しくして上書して事を論じたが返答がなかったので、枢密使の陳喬を訪ねて上書の内容を口で述べた。その弁舌が縦横無尽だったので喬は驚いて非凡と認め、本院の承旨に用い、沿江巡検を授けた。亡命者を募って水戦を習わせ、馬雄・王川らに分けて率いさせ、呉越の兵を海門で迎え撃ってたびたび舟艦を奪い、善戦で名を得た。
- 開宝年間、絳は後主に密かに説いた。「呉越は仇敵であり腹心の病です。いずれ必ず北兵の羽翼となって我が国を攻めます。臣は何度も渡り合って与しやすいと分かっています。先手を打って不意を衝き滅ぼすに越したことはありません」。
- 後主が「そうすれば大朝(宋)が討伐に来るのではないか」と言うと、絳は「臣が宣州・歙州で叛いたと偽り、陛下は賊の討伐を強く言い、呉越に賄賂を贈って援兵を乞うのです。呉越は勢い出兵せざるを得ません。来たところを迎え撃ち、臣が背後を襲えば、その国を覆せます。呉越を滅ぼせば国威は大いに振るい、北兵も動けなくなります」と述べた。後主は聞き入れなかった。
潤州から死まで
- 宋軍が南侵すると、絳は凌波都虞候・沿江都部署となり秦淮の水柵を守り、戦えばしばしば勝った。諸将はその才を妬み、そろって後主に説いて絳を潤州の救援に出させた。
- 昭武軍節度留後を授けられ、八千の兵を率いて潤州城下に陣を敷いた。北軍は近づけず、城に入って守りを固めた。
- ところが節度使の劉澄は、軍議にかこつけて絳を斬り、城を挙げて降ろうと謀った。絳がこれに気づくと、澄は「都城は危うい。万一守れなければ、ここを守って何になる」と言った。絳は「あなたは守りを預かる身だから城を棄ててはならぬ。難に赴くのはこの絳だ」と答えた。
- その夜、澄は副将を出して降伏の書を送った。絳は部下を率いて駆け出し、包囲を破って金陵に入ろうとしたが、囲みが堅くて入れず、宣州に走って拠った。
- 金陵が陥落し諸郡がみな降っても、絳だけは降らず、南下して閩中に拠ろうと謀った。歙州を通ったとき、刺史の龔慎儀が城を閉じて拒んだので、これを殺して進んだ。
- 宋の太祖は絳の弟の襲を使って招いた。絳ははじめ襲を殺して屈しない意を示そうとしたが、結局は降った。汴京に至り冀州団練使を授けられた。
- 朝廷で慎儀の兄の子、賛善大夫の龔穎に出会うと、穎は「これが我が叔父を殺した男だ」と罵り、殿階まで引き立てて冤を訴えた。詔で吏に付された。枢密使の曹彬は絳の才略は用いるに足るとして助命を願ったが、太祖は「その面構えは侯霸栄に似ている。留めておけるものか」と言い、西市で斬った。霸栄は河東の将で、降っておきながら叛いて帰り、主の劉継恩を殺した男である。それゆえ太祖は嫌ったのである。
- 絳は刑に臨んで大声で「陛下は鉄券の誓書をもって臣を招かれたのをお忘れか」と叫んだ。
- はじめ絳がまだ世に出ないころ、熱病で幾日も臥せっていたとき、真珠の衣をまとった白衣の女子が甘蔗の汁を勧めて飲ませ、菩薩蛮の詞を歌って興を添える夢を見た。覚めてからその「玉京人去」の一闋を憶えており、つねに「いつか富貴になって固子坡で会おう」と言っていた。刑のとき、耿玉真という婦人が淫乱の罪で同時に斬られたが、姿かたちが夢に見たままだった。刑場の名を問うと、まさに固子坡だったという。
史論
- 論に曰く。郭廷謂はしばしば強敵をくじき、力尽きて降った。主を裏切って栄達を得た者とは違う。朱令贇は軍を覆して身を没し、将略はもとより得手ではなかったが、事に殉じたことは抹消できない。陳大雅は申屠のような志を抱きながら節を屈して官を受けた。当初の志はそこまでは思わなかったであろう。盧絳はよく終わりを全うできなかったが、才略は縦横で、頑強に屈しなかった点は、初めのうちは取るべきところがあった。
呉仲挙
- 呉仲挙、字は太沖。永興の人。文学の素養があり春秋三伝に通じた。後主のとき彭沢主簿。
- 宋軍が南侵し、曹彬が江南の郡県に降伏を促す檄を発したとき、彭沢令は早々に迎え降ろうとした。仲挙は大義をもってこれを責め、彬の使者を殺した。まもなく彬に捕らえられたが、仲挙は「私は代々李氏の禄を食んだ。国が亡んで死ぬのは職分だ」と言った。彬はその義を認めて釈放した。
- 宋に入って累進し零陵令となり、その職で没した。
陸昭符
- 陸昭符、初名は匡符。金陵の人。保大年間、常州刺史となった。常州は呉越との要衝で、たびたび交戦して城邑は荒廃していたが、匡符の政治は寛やかで簡素、逃亡者を招き戻し、まもなく富み栄えた。
- ある日、庁事に座っていると雷雨が突然襲い、稲光が金色の蛇のように梁を巡って、吏卒はみな震え倒れた。匡符は机を叩いて叱りつけ、雷電はぴたりとやんだ。机の帷を上げると数百斤の鉄の鎖があったが、匡符は顔色も変えず、静かにそれを庫に納めさせた。
- 交泰元年(958年)、元宗が周に藩を称した。その秋、匡符を進奏使として大梁に邸を置かせた。宋が周の禅を受けると、匡符は太祖の名を避けて昭符と改めた。
- 後主が即位して宮門に金鶏竿を立て、天子の礼にならって大赦を行った。太祖はこれを聞いて怒り、昭符を召して厳しい顔つきで詰問した。昭符が落ち着いて俗な言い回しで答えたので、太祖は笑って問い詰めるのをやめた。
- 当時、潘慎修が入貢使であり、昭符もしばしば金陵を往来していた。国庫が空になって必要な物品を揃えられなくなると、昭符は富民の石守信の家から買い付けることを請い、絹十万疋を得た。後主は大いに喜んだ。
- 宋の太祖がすでに李穆を遣わして後主の入朝を求めたのち、昭符に「汝の主は来ると思うか」と問うと、「君命で召されれば車の支度も待たずに参るもの。来ないはずがありません」と答えた。後主が病と称して宋が討伐に及ぶと、昭符はまた太祖に「臣の主は必ず社稷に殉じます」と言った。
- のち後主が降ると、邸は廃されて任官もされず、そのまま没した。
潘慎修
- 潘慎修、字は成徳。尚書の潘承祐の子。父の任によって後主に仕え起居舎人となった。
- 宋軍が南侵すると、後主は慎修を江国公・李従鎰に従わせ、宴の費用を献じて出兵の猶予を求めさせ、懐信駅に留められた。金陵がすでに陥ちると、邸吏は従鎰に入賀を促したが、慎修は「国が亡ぼうとしているのに何の賀か」と言い、表を奉って罪を請うただけだった。宋の太祖はその体をわきまえた態度を嘉し、太子右賛善に任じた。後主が上表して慎修を書記に掌らせたいと願い、許された。
- 後主の没後、太常博士・直秘閣に改まり、累進して翰林侍読学士に至った。
- 真宗のとき、江南の旧臣の多くが後主を暗愚だと言った。真宗が慎修に問うと、「煜が道理に暗かったのなら、どうして十余年も国を保てましょう」と答えた。真宗は深く感嘆した。
- 慎修は風采がおおらかで、文史に広く通じ、道書を多く読み、清談をよくした。交わった士大夫はみなその高潔な志向を推重したという。
張佖
- 張佖、常州の人。後主の朝で考功員外郎となり、中書舎人に進んだ。開宝五年(972年)に制度を削減した際、内史舎人に改められた。
- 後主は文事を好み、末期に至ってもなお科挙に意を注いだ。佖に文才があるので礼部貢挙を主宰させた。合格発表の前夜、程員という者が、自分が王綸ら五人とともに及第したと告げられる夢を見た。驚き喜んで省の門に赴くと、楊遂・張観・曾顗に出会い、「榜は鶏行街にあるのに、なぜ慌ててここに来たのか」と言われた。覚めてみると、遂ら三人が及第したと聞いた。
- その夏、後主は佖が私意を挟んだのではと疑い、張洎に再試験させ、ふたたび王綸ら五人を落第させた。洎が佖の弊を矯めたとはいえ、あらかじめ定まった運はこのようであった。翌年の癸酉に付け足しの榜が出たのが、鶏行街の夢の応であった。
- 佖は後主に従って宋に入り、旧臣として叙用された。太宗の朝、佖が史館にいたとき、太宗が「卿の家では食事のたびに客が多いと聞くが、何を語っているのか」と問うた。佖は「私の親旧の多くは都に寄寓して貧窮して食に事欠きます。私は身軽で俸は厚いので、いつも来て食べていきます。拒めません。ただ菜羹だけです」と答えた。
- 翌日、太宗は足の速い者を遣わして客をもてなす様子を窺わせ、その場から食事を取って進めさせたところ、果たして糝飯と菜羹だけで、器はみな陶器だった。太宗はその隠しだてのなさを喜び、郎中に遷した。佖の邸は故里にあり、人は「菜羹張家」と呼んだという。
- 佖は長者の風があり、のち河南に任じたとき、寒食にはかならず自ら後主の墓に参って哀しく哭した。李氏の子孫が落ちぶれると、俸を分けて援助した。
龔慎儀
- 龔慎儀、後主に仕えて給事中となった。開宝三年(970年)、宋の太祖は南漢を討つかどうか決めかね、後主に詔して南漢に正朔を奉じるよう諭させた。後主は潘佑に書を撰させ、慎儀に持たせて南漢に使いさせた。
- 漢はこの書を得て激怒し、慎儀を囚えて帰さなかった。後主が表でこれを報せると、太祖はついに出兵を決意した。南漢が平定されてようやく帰国できた。
- 江南が亡ぶとき、慎儀は歙州刺史であった。昭武留後の盧絳が国の滅亡を聞き、義兵を挙げて閩に入ろうと兵を率い、道が歙を通った。慎儀が城を閉じて拒むと、絳は怒って「慎儀は私の旧友だ。なぜ拒むのか」と言い、副将の馬雄に攻めさせた。慎儀は朝服のまま出て、雄に殺された。
周惟簡
- 周惟簡、饒州鄱陽の人。隠居して学問を好み、易の義理に明るかった。後主が金陵に召し、布衣から国子博士・集賢殿侍講に取り立てた。まもなく虞部郎中で致仕して山に帰った。
- 金陵が包囲されると間道から召し返され、後苑に入って否卦を講じ、金紫を賜った。
- 後主は兵事に使える奇士を求めており、張洎が「惟簡なら談笑のうちに和解させられる」と薦めた。そこで給事中を授け、徐鉉の副として宋に使いさせた。後主は自ら手紙を書いて「惟簡は妙門に志を託し道典に心を留め、臣の修養に付き添うだけで公務には関わらぬ者です」と述べた。その声価を高めて朝廷の耳目を動かそうとしたのである。
- 宋に至ると太祖が召見して詰責した。惟簡は恐れ入り、逆に「臣はもともと野人で仕官したことはありません。李煜が無理に遣わしたのです。終南山には霊薬が多いと伺っております。そこに隠棲させていただきたい」と言った。太祖は許した。
- 金陵平定後、宋の国子周易博士・判監事となった。ある人が「終南の言葉を果たさなければ罪を得ますぞ」と言ったので、惟簡はやむなく官を解いて初志を遂げたいと表を奉り、虞部郎中で致仕し、子の繕を鄠県主簿として養わせた。
- 太平興国初年、惟簡は終南から闕下に来て拝謁を求めたが、有司が「致仕の官は詔召がなければ拝謁を求める制度はない」としたので帰った。一年余りしてまた表を奉って仕官を求め、太常博士を授けられ、水部員外郎に遷って没した。
張洎——出自と後主の寵臣
- 張洎、字は師闇、のち偕仁と改めた。南譙の人。若くして才があり、墳典に博通した。進士に挙げられ、句容尉から身を起こした。
- 文献太子の諡を議したことで元宗に認められ、監察御史に抜擢された。洎は論事が勅意にかなったと自負して、はばかりなく弾劾したので、大臣の游簡言らに憎まれた。
- 元宗が南都に遷り、後主が留守居となったとき、簡言らは洎を後主の記室に薦め、随行させなかった。まもなく元宗が崩じ後主が立つと、工部員外郎・試知制誥に抜擢され、一年で礼部員外郎・知制誥となり、中書舎人に遷った。徐游とともに清輝殿学士となり、澄心堂が建つと洎も機密に参与し、恩寵は第一だった。
- 後主が兄弟と宴を開いて伎楽を催すとき、洎だけが参列を許された。宮城の東北隅に大邸を建ててもらい、書物一万余巻を賜った。後主はしばしばその邸を訪れて妻子を召見し、下賜も厚かった。
- 洎ははじめ潘佑と西省で同僚として親交が深かったが、やがて志向が分かれた。佑は「堂々たるかな張や、ともに仁を為しがたし」と嘆じた。のち佑が罪に問われて死んだのは、洎の働きによるところが大きい。
- 後主が宋に附いて貢献が盛んになると、洎は使者として汴京に赴いた。中朝の公卿はその文才を喜んで大いに愛賞した。
金陵陥落と宋での官歴
- 宋軍が金陵を囲んで一年を越すあいだ、洎は後主に降伏を勧めず、いつも符命を引いて「天象に変はなく、堅固な守りは容易に破られません。北軍は早晩、自ら退きます。もし万一のことがあれば、臣が先に死にます」と言った。
- 城が陥ちると、洎は妻子と荷物を連れて便門から宮中に入った。当時、洎は光政院副使で、光政使の陳喬を欺いて共に閣に登り、ともに死のうとした。喬が首を吊って息絶えると、洎は下りて後主に会い、「臣は喬とともに枢機を掌りました。国が亡べば共に死ぬべきです。しかし主君がおられるのに、誰が主君のために事を明らかにするでしょう。死なずにおれば報いる道もありましょう」と言った。
- 宋に帰ると太祖は召して「汝が煜に降伏させず、今日に至らせたのだ」と責め、一通の書を出して見せた。包囲中に洎が起草した、上江の救援軍を呼ぶ蝋丸の詔だった。洎は顔色も変えず、静かに「危急の際、月日を引き延ばそうと、あらゆる策を臣が書きました。帛書は多くあり、これはその一つにすぎません」と答えた。太祖はその態度を非凡と認め、太子中允を授けた。
- 太宗のとき累進して礼部・戸部の郎中となった。まもなく右諫議大夫・判大理寺に任じられ、史館修撰・判集賢院事を兼ねた。
- はじめ洎が入貢の使命を帯びたとき、十首の詩を作って汴京の風物をそしり、「一堆の灰」の句まであった。蘇易簡がその自筆を手に入れており、易簡と同僚となって折り合いが悪くなると、「清河(洎)がまた妙なことをすれば、あの一堆の灰の詩を進呈するまでだ」と人に言った。洎は少し身を屈めたが、巧みな世渡りでついに参知政事に至った。至道三年(997年)、病で没した。享年六十四。刑部尚書を贈られた。二子は安期と方回。
人物評——才と刻薄
- 洎は風貌が洒脱で文采は清麗、道書・仏書も兼ね読み、禅寂虚無の理に通じ、終日の清談も飽きさせなかった。
- 一方できわめて陰険で薄情だった。後主が宋に帰って甚だ貧しかったのに、洎はなお物をねだった。後主が白金の洗面器を与えても、なお不満だった。当時、潘慎修が後主の記室を掌っていたので、洎は慎修が後主に入れ知恵したと疑い、もともと親しかった慎修を次第に遠ざけた。
- 清源郡公の李仲㝢が博打と宴飲を好んだので、洎は切に諫め、仲㝢は謝った。のち仲㝢が相変わらず博打をしていると言う者があると、洎は絶交した。仲㝢が郢州で死んで京師に葬られたときも、弔問に行かなかった。
- 張佖とはしばしば議論が合わず、ついに仇敵となった。はじめは佖に父の兄に対する礼で仕えていたが、やがて拝礼をやめた。
- 洎はもと寇準に推薦され、きわめて謹んで仕えていたが、まもなく内々の意向を察して、準が誹謗していると奏した。
- 性格は吝嗇で、親戚にも恩恵が及ばず、江表の旧友もその門を訪れることは稀だった。徐鉉とはもともと厚く親しかったが、のち議論が食い違って絶交した。それでも鉉の文章を手写し、その筆蹟を探し求めては箱に収め、珍玩以上に大切にした。
- 洎には文集十五巻、『賈氏談録』一巻があり、世に伝わる。
鄭彦華
- 鄭彦華、福州の人。祖父の代から福建諸州の刺史を務めた家柄。彦華は若くして節度使の李弘義の帳下に属し、乳虎を射殺して勇名を得た。
- 元宗が出兵して福州を攻めたとき、大将の王崇文が兵卒の李興を楼車に登らせて弘義を罵らせた。弘義は憤りに堪えず、興を生け捕った者に賞を出すと募った。彦華が志願し、夜に城外へ縄で下りて壕のそばに伏せた。翌朝、興がなお罵り続けているところを、鉤で引っかけて捕らえ、脇に抱えて城に登った。城上はどよめき、弘義は興を得て溜飲を下げた。崇文はやがて逃げ帰った。
- 一年余りして剣州刺史の陳誨が水軍で閩を攻めたとき、彦華はちょうど候官に出て屯していた。呉越の兵が誨に敗れたので、彦華はそのまま部下ごと誨に降った。誨は語り合って非凡と認め、軍校に任じた。
- まもなく周が淮南に侵入し、彦華は大小百余戦して身に五十余の傷を負い、累進して鎮海軍節度使・同平章事を加えられた。
- 後主の末年、宋軍が采石に浮橋を架けて渡江すると、後主は彦華に舟師一万を督させ、別将の杜貞(真とも)に歩兵一万を率いさせて迎え撃たせた。後主は自ら見送って「水陸両軍が表裏をなせば、私の事は成る」と戒めた。
- ところが宋軍と遭遇すると、貞は部下を率いて力戦したのに、彦華は兵を抱えたまま救わず、貞は敗死した。金陵はこれを聞いて気力を失い、塁を閉ざして自守するばかりで、亡国に至るまで、ついに彦華の罪を正すことができなかった。
- 彦華は後主に従って宋に入り右千牛衛将軍となった。太原・幽州の征討に従ったがいずれも功なく、それでも諸衛将軍を歴任して左千牛衛大将軍に至って没した。享年七十三。子は文宝。
鄭文宝
- 鄭文宝は初め後主に仕え、文学によって清源郡公・李仲㝢の掌書記に選ばれ、まもなく校書郎に遷った。
- 後主が宋に帰し群臣がみな北に遷されたとき、宋は詔して江南の旧臣をみな採用してよいとしたが、文宝だけは口にせず、そのため汴梁に寄寓したまま仕官の列に入らなかった。
- 後主は環衛の身分で朝請に列していたが、賓客の面会は禁じられていた。文宝は蓑を着て笠をかぶり、魚売りの姿になって会いに行き、慰め諭した。久しくして後主はこれに感嘆した。
- 後主が薨じてから、文宝はようやく進士に及第し、兵部郎に至った。詩に巧みで、その「過緱山」や「題緑野堂」の詩は晏殊・欧陽修に愛誦された。『南唐近事』三巻が世に伝わる。
劉澄
- 劉澄は、後主が藩邸にいたころからの旧臣である。後主の末年、呉越が常州を落として兵勢が日に日に迫ると、朝議は潤州が最重要の要害で良将に守らせるべきだとして、澄を節度使としてそこに鎮させた。
- 出発にあたり後主は諄々と「卿はもともと私のそばを離れるべき者ではなく、私も別れがたい。だがこの任は卿をおいて託せる者がいない。私の意に副ってくれ」と諭した。澄は涙を流して別れ、家に帰ると金銀財宝をすべて車に積んで持っていき、「これはみな前後に賜ったものだ。今、国家が難に遭っている。これを蓄えて何になる。散じて功を立てるべきだ」と人に言った。
- 呉越の兵が到着したばかりで陣営がまだ整わないとき、左右が奇襲を請うたが、澄はすでに二心を抱いており、「兵を出せば必ず勝てるとは限らぬ。援軍が来てから改めて図るべきだ」と言い張った。
- 盧絳の援兵が入城すると、澄は事にかこつけて絳を斬り、城を挙げて降ろうと謀った。絳がこれに気づき、互いに疑い警戒し合った。
- そのころ絳がある副将に腹を立てていたので、澄はその副将に「盧公はお前に怒っている。お前は生きていられまい」と囁き、絳を殺して敵に降ろうと諭した。副将が「家族が都城にいます、どうしましょう」と言うと、澄は「事は急だ。自分のために謀るときだ。私も一族百口を顧みる暇はない」と言った。
- しかし絳を殺せなかったので、絳に「都城が万一救われないなら、ここを守って何になる」と言った。絳はそこで自ら脱け出した。
- その夜、澄は使者を送って降伏の意を伝えた。翌日、諸将を残らず集めて「私は数十日城を守り、国に背く志はなかった。しかし事勢はこの通りだ。策を立てねばならぬ。諸君はどう思う」と告げた。一同は号泣した。澄は変事が起こるのを恐れ、自分も泣いて「私の受けた恩はもとより諸君より深く、しかも父母が都下にいる。忠孝を知らぬわけがない。ただ力が及ばぬのだ」と言い、将吏を率いて門を開き降った。
- 金陵はこれを聞いていっそう震撼した。後主は惑乱して澄の家族を処分しかねていたが、陳喬が憤然として「人臣が重任を受けながら、一朝にして敵に降る。許されることではない」と言い、その父母妻子をことごとく捕らえて斬った。
- 澄の一人娘は許嫁がいてまだ嫁いでおらず、有司は赦そうと議したが、娘は「叛逆の残された者が、どの面下げて生きられましょう」と言い、やはり刑に就いた。
李徳柔
- 李徳柔、字は子懐。鄱陽の人。小吏から身を起こし、人の隠し事を探るのが巧みで有能とされ、亡命者を捕らえれば必ず捕まえたので「李猫児」と呼ばれた。
- 元宗のとき累進して大理卿となった。法の運用は苛烈で、まだ罪の定まらぬ者まで葦の筵で包んで逆さ吊りにし、死者が多数出た。
- 徳柔にはもともと学問がなかったのに、みだりに博識を誇り、馬を「韓盧」と呼び、染物職人を「伶倫」と呼ぶような具合で、士大夫はみな口を覆って笑った。
- ただ、元宗が北寺獄を置こうとしたとき、徳柔は「世に士がいないわけでもないのに、宦官に文書を弄ばせるのですか」と諫め、その議は取りやめになった。論者はこの一点で徳柔を評価している。
劉承勲
- 劉承勲、郷里は伝わらない。計数に明るく、烈祖に仕えて糧料判官となり、徳昌宮使に遷った。徳昌宮とは内帑の別蔵である。
- 楊氏の建国以来、江淮を有して他国よりもっとも富裕で、山沢の利による歳入は計り知れなかった。烈祖は節倹に努め、わずかな金や物も無駄にせず、蓄えは山のようだった。太子が杉の木で衝立を作りたいと言い、有司が伺いを立てると、烈祖は奏状の後ろに「杉の木は不足していないが、戦艦を作りたいので竹で代えよ」と署した。
- ただ徳昌宮の帳簿は煩雑で完全な照合ができず、承勲だけがその事に当たり、扱う資財は数え切れなかった。
- 保大以後、貢納が日ごとに繁くなると、承勲はいよいよ不正の利を得た。伎を数十百人抱え、一人を置くのに数十万、芸を仕込むのにまた数十万を費やし、衣装や珠・犀・金・翡翠もそれに見合うものだった。江南で李徳誠・皇甫継勲らが最も豪奢とされたが、承勲を超えることはできなかった。
- 宋の太祖が荊湖を平定し、江沿いに舟を用意して米を汴京に漕運せよと詔したとき、承勲は先んじて中朝に取り入り将来の地歩を築こうとして、自ら赴くことを願い、長沙から迎鑾まで千の舵が連なる巨艦を督した。太祖はその意図を見抜いて嫌った。
- 国が亡んで宋に帰ると、承勲はまず自分から漕米の功を申し立てた。太祖は「それは汝の主が勤王したまでだ。汝に何の功があるか」と叱って追い出し、特に叙用しないよう命じた。久しくして寄寓の身で資産も尽き、裸同然で食を乞い、凍えと飢えに堪えられず死んだ。