出自と学問、非業の死
- 郭昭慶は禾川の人である。父の鵬は保大の初めに進士となり、官は大理司直に至った。ある者が故南平王鍾傳の夫人が僧と姦通したと告げ、大理卿の蕭儼が法に按じて徒(流罪)を議したが、鵬は法を曲げて誅殺した。宋齊邱が罪を得るに及んで、鵬はその党に連座して官を免ぜられ卒した。
- 昭慶は博学で著作を善くし、常に九経に擬えて『唐春秋』三十巻を撰した。元宗の時、著した『治書』五十篇を献上し、進士挙に就かせようとしたが、昭慶は不平として、上書して「補綴雕虫は、臣は少より恥じて行いません」と言った。それにより召見され揚子尉を授けられたが辞退し、禾川に帰った。
- 邑令が謁見・通問しても昭慶は会おうとせず、令はこれを恨みに思った。あるとき編戸を検閲するのに乗じて、昭慶を新擬軍に籍入した。後主が立つと、昭慶は再び金陵に走り、『経国治民論』を再び献上した。おおよそ池州・采石の諸要害の地、および東海隅の恢拓すべき謀略を指述した。著作郎に抜擢され、この時まさに中朝に仕えていたので、歳ごとの慶賀の貢物・牋表および廷労宴餞の辞は、みな昭慶に作らせた。
- 昭慶は徐鍇兄弟と仲が悪く、鍇が前に通謁したとき署名しなかった。昭慶は怒ってこれを罵り投げ捨てた。あるとき客将の李師義が昭慶と隣人で、師義は鍇の姻戚であった。鍇はひそかに師義に昭慶を招かせ、酒に鴆を仕込んで毒殺しようとした。翌朝、朝に赴こうと起きたところ急死した。
- 昭慶の『治書』の中には『禁絶』三篇があり、多くは天文・孫呉の述および『経国論』などで、みな世に行われた。ただ『唐春秋』は鉉・鍇に匿されて世に見られなかったという(時にまた何晦という者があり、『唐摭言』十五巻を著し、当世にもまた称された)。