人物と学問
- 蒯鼇は宣城の人で、文章に巧みであった。江南は唐末の文体繊麗の弊を承けており、士は多く自ら振るうことができなかったが、鼇はひとり華美な修辞に頼らず、理趣を本とし、承平の余風を得た(鼇は嘗て「文章というものは、道徳の本を達し、才智の蘊を発するものであり、旨を辞に勝たせ理を文に勝たせることこそが得るところである。そのほか、章句を摘み裂き、屬耦を鉤校し、綺麗で目を悦ばせ耳を清新にするようなものは、私の知るところではない」と言い、聞く者はこれを善しとした)。
- しかし郷里に居って飲博(酒色・博打)にふけり、行いがなく、人士に容れられなかった。そこで廬山に去って国学に入ったが、無頼はとりわけ甚だしかった。晩年になってようやく風操を励まし、信義を尊び、一言を出せば必ずこれを果たすようになった。常に龍尾硯を蓄えており、友人がこれを欲しがっても口にしなかったが、鼇は心中で許していた。まだ与えないうちに、ある日友人は告げずに帰ってしまった。鼇は悔恨して数百里を徒歩で追いかけ、追いついて硯を授けて帰った。
- なおも普段の行いが原因で有司に排斥され、後主の末年になってようやく仕官の道に登ったが、国が亡ぶ頃には銓授が及ばず、ついに再び仕官を求めなかった。宋の開宝中、汴京に薄遊すると、樊若水が朝廷に薦めようとしたが、鼇はこれを恥じて急いで帰り、廬山に隠れて数年で卒した(一説には宋に帰り進士に登第し、殿中丞をもって致仕し、廬山に隠れたという)。