十国春秋卷二十八 南唐十四 列傳 徐鍇
要約
徐鍇は字を楚金といい徐鉉の弟で、生まれて四歳で父を失いながら自ら書を学び、長じて文辞は兄と並び称された。昇元中は文人軽視の風潮を恥じて仕進を求めなかったが、常夢錫に文才を認められて元宗に起用され、馮延魯の登用に異を唱えて権要に忤い左遷されたこともあった。後主の代には屯田知制誥・集賢殿学士などを歴任し、兄とともに「二徐」と呼ばれ、宰相㳺簡言に中書舎人への昇進を長く抑えられながらも巧みに説得されて納得する逸話も残る。
博覧強記で知られ、失われた古書『斉職儀』の内容を一条ずつ挙げて遺漏なく答えたり、桂の屑を敷いて庭の雑草を枯らす知恵を示したりするなど逸話が多い。読書を酷愛して集賢院の蔵書整備に尽力し、後主も「群臣が皆これほど職務に励めば憂いはない」と称賛した。
国運の日に衰えるのを深く憂えて病を得、家人に俘となる運命を免れると語り、宋軍が金陵に迫る中、開宝七年に五十五歳で没した。生前、金陵陥落と鍇自身の死を暗示する不思議な夢が人々の間で語られ、死の知らせと符合したという。著書に『説文解字係伝』『説文通釈』などがある。
現代語訳全文
出自と学問
- 徐鍇は字を楚金といい、鉉の弟である。生まれて四歳で父を失い、母がちょうど鉉に学を教えていて鍇にまで手が回らなかったが、鍇は自ら書を知ることができた。やや長じて文辞は鉉と斉名した。
- 昇元中、議論する者は「文人は浮薄なので、多くは経義・法律をもって士を取るべきだ」としたが、鍇はこれを恥じて門を閉ざし仕進を求めなかった。鍇は常夢錫と門下省で同直し、鍇の文を出して見せると、夢錫は賞愛してやまず、烈祖に薦めたが、用いられる前に烈祖は崩じた。
- 元宗が即位すると、家より起こされて秘書郎となった。齊王景達が奏して記室に授けたが、まもなく烏江尉に貶され、一年余りで召し還されて右拾遺・集賢殿直学士を授けられた。馮延魯に罪があり才も人望もごく浅いのに巡撫使にするべきではないと論じたことで、権要にひどく忤い、秘書郎で東都に分司させられた。しかし元宗はその才を愛し、再び召して虞部員外郎とした。
- 後主が立つと、屯田知制誥・集賢殿学士に遷り、官名を改めて右内史舎人を拝し金紫を賜り、光政殿に宿直して兵吏部の選事を兼ねた。兄の鉉とともに近侍にあり、当時「二徐」と号された。
- はじめ鍇は久しく順番待ちで中書舎人に遷るはずだったが、㳺簡言が国政を握っていて常にこれを抑えた。鍇は簡言のもとを訪ねると、簡言は従容として「君の才と地位はどうして一中書舎人にとどまろうか。しかし兄弟がともに清要の地位にあるのも、物忌みするに大きすぎる。少し遅らせたほうがよい」と言った。鍇は大いに不満であったが、簡言は徐に妓を出して酒を勧めさせ、歌わせた詞はみな鍇が作ったものであった。鍇は大いに喜んで立ち上がり「丞相の言葉こそが私の本心だったのです」と謝した。帰って鉉に告げると、鉉は嘆息して「お前は何と愚かなことか、数曲の歌で中書舎人の地位と換えるとは」と言った。
- 鍇は四たび貢挙を知り、人を得たと称された。鍇は常に『質論』十余篇を著した。後主が自作の文を丹黄で校定し、また自ら制した文を集めて鍇に序を作らせると、士人はこれを栄とした。鍇は読書を酷愛し、隆冬烈暑にも少しも怠けたことがなかった。
- 後主がある日、周載の『斉職儀』を得たが、江東には元来この書はなく、知る者がいなかった。鍇に問うと、一つ一つ条をあげて答え、遺漏がなかった。その博記はこのようなものであった(『談苑』に「江南の時、呉淑が校理となり、古楽府の中に『摻』の字があるものを、淑は多く『操』の字に改めた。おそらく章草の変化であろう。鍇は『これは一例をもって言えるものではない。漁陽摻というものは三たび鼓を撾つことである。禰衡が漁陽の撾を行った古歌に、辺城晏(おそ)くして漁陽摻を聞く、黄塵蕭蕭として白日暗しとある』と言った。淑は嘆服した。また、後主が清暑閣の前に艸が生えるのに悩んでいたとき、鍇は桂の屑を甎の縫い目に布かせると、宿った艸はことごとく枯れ死んだ。『呂氏春秋』に「桂林の下には雑木がない」というのに拠ったものである)。
- 長く集賢院に居り書冊を手放さず、夜でなければ外出せず、少にして小学に精通していたため、校讎する書はとりわけ審らかであった。いつもその家を指して人に「私はここに寓宿しているに過ぎない」と語った。江南の蔵書の盛んなことは天下に冠たるものであったが、鍇の力によるところが多かった。後主はいつも「群臣がその官を勤めることがみな徐鍇の集賢院にあるようであれば、私は何を憂えようか」と嘆いた。
- 宋の李穆が使いに来て鍇と鉉に会うと「二陸(陸機・陸雲)の流である」と嘆じた。ある夜、直宿して召し対面したとき、天下の事から人材の才と行いのどちらを先にすべきか話が及ぶと、後主は「多難な時にはまず才を先にすべきだ」と言ったが、鍇は「もし韓信・彭越のような才を持ちながら行いのない人がいたら、陛下は兵十万をその者に付されますか」と言った。後主はこれを善しとした。
- 当時、国勢は日に日に削られ、鍇は憂憤して病を得た。家人に「私は今こそ俘(捕虜)となって田を耕す運命を免れるのだ」と語り、開宝七年七月に卒した。享年五十五。礼部侍郎を贈られ、諡を文といった。著書に『説文解字係伝』四十巻、『説文通釈』四十巻、『方輿記』百三十巻、また『古今国典』『賦苑』『歳時広記』ほか、文章若干巻がある。
- これより先、宋軍が江南を伐ち、金陵が陥ちようとしたとき、ある夢に四角の女子が空中を行き、巨大な簁(ふるい)で物を散らし落とすと、地に落ちてみな人になるというものがあった。ある人がこれを問うと「これはまさに難に死ぬべき者だ」と答えた。のちにまた金紫の貴人が地に墜ちるのを見て「これは徐舎人である」と言った。目覚めてこれを不思議に思ったが、朝になると鍇が死んだと聞いた(『事物紺珠』に「南唐の徐氏二龍とは、鉉と鍇を指す」とある)。