十国春秋卷二十八 南唐十四 列傳 高越
要約
高越は字を冲逺といい若くして進士に挙がり詞賦に精しく燕・趙の間で名を馳せた文人で、盧文進に仕えその才色ある娘を娶り「女学士」と呼ばれた妻とともに文進の南奔に従って南唐に入った。烈祖・元宗父子に文才を愛され、江文蔚と並び「江高」と称されるほどの名声を得て、斉国の制度に関わる祈祷・祭祀・宴餞の文の多くを起草した。文進の死後にその家を貶めようとする者があると弁護の上書をして蘄州司士参軍に一時左遷され、隠士の陳曙と交わり栄利を求めない日々を過ごしたが、のちに広陵令・侍御史知雑・中書舎人を経て御史中丞・勤政殿学士などを歴任した。末年病で廃され、まもなく六十二歳で没した。貧しく葬儀もできなかったため後主が葬費を給し、その清廉さが世に称えられた。
付伝の高逺は越の甥で、幼くして孤児となりながら学問に励み烈祖・元宗に仕えて史職を歴任し、『烈祖実録』『元宗実録』などの編纂に携わったが、未完のまま病に倒れ、自ら史稿を焼き捨てて没した。湖南平定の祝賀の席で獲得よりも守ることの難しさを予言し、後にその通りとなって人々を感服させた先見の逸話も伝わる。
現代語訳全文
出自と江南への流転
- 高越は字を冲逺といい、若くして進士に挙がり、詞賦に精しく燕・趙の間で名があった(『馬令南唐書』に「詞に精しく才思があった」とある)。盧文進が上党を鎮すと、礼幣を具えて越を招いた。はじめ客として文進に従い、文進が安州を鎮すに及んで越もまたこれに従い、その掌書記となった。文進の次女は才色があり文を能くし「女学士」と号された。それゆえ越に嫁がせた。
- 文進が南奔すると、越はともに行き、まず鄂帥張宣に投じたが、久しく知遇を得られなかった。越は「鷹」の詩を題してこれをそしった(『馬令南唐書』に、越が鷹の詩で張宣をそしったこと、「晴空不礙摩天翮、未肯平原浅艸飛」の句が載る。『鄭文宝南唐近事』には、鄂帥李公が越を殊礼をもって遇し、愛女を妻せようとしたので、越がひそかにその意を諭され、鷹一絶を屋壁に書いた「雪爪星眸衆鳥帰、摩天専待振毛衣、虞人莫謾張羅網、未肯平原浅艸飛」とあり、そのまま告げずに去ったといい、説は同じではない。今は陸游『南唐書』および『唐余紀伝』に従う)。
- そのまま広陵に至ると、呉は秘書郎とした。烈祖はその文章を愛し、当時斉国が制を立て、祈祷・祭祀・宴餞の文の多くを越に作らせた。烈祖が禅を受けると、水部員外郎に遷り、祠部・浙西営田判官を改め、江文蔚とともに賦を能くして江表に名を馳せ、当時の人は「江高」と呼んだ(『南唐近事』に「江南の士人で物の性質を言い表す者は、江・高を第一とする」とある)。
- 保大の初め、文進が卒すると、その家を傾けようとする者があった。越は上書してこれを頌え、蘄州司士参軍に黜けられ、軍事判官に遷った。隠士の陳曙と物外の交わりを結び、淡然として栄利を志さなかった。しばらくして広陵令に移され、還って吏部銓を判じ、侍御史知雑・元帥府掌書記・起居郎・中書舎人を歴任した。
- 淮南の交兵の際、書詔の多くは越の手から出て、筆を援ればたちまち成り、辞采は温麗であった。元宗はこれを称職とし、二徐と等しく眷待され、官を徙されないまま何年も過ぎた。後主が立つと、初めて御史中丞・勤政殿学士・左議諫大夫・戸部侍郎を兼ね国史を修めるに遷った。末年、病で廃され、しばらくしてついに卒した。享年六十二。諡を穆といった。貧しくて葬ることができず、後主が葬費を給し、世はその清廉を称えた(『金陵志』に「越の墓は栖霞寺の旧門外の山の麗にある」とある)。
高越(附)逺――出自と学問・史職
- 逺は字を攸逺といい、越の兄の子である。父の操は袁州別駕であった。逺は幼くして孤児となり、人となりは淳雅で冲淡であったが、事に臨んでは奇節があった。門を閉ざして学に力め、人事に交わらなかった。烈祖が禅を受けると、四方の秀傑を招来し、逺を秘書省正字とした。保大の初め、校書郎に遷り太常修撰を兼ね、そのまま太常博士となった。
- 淮南で兵が興ると、元宗が召見して金紫を賜い、戎府の書檄を典どらせた。礼部員外郎・枢密判官・侍御史知雑・史館修撰・起居郎知館事を歴任し、そのまま勤政殿学士となった。
- 国の初め、兵部尚書の陳濬に呉史を修めるよう命じたが、未完のまま卒した。その後、史職を領する者の多くは貴族の遊び人や新進の少年で、纂述はほとんど廃れていたが、逺は保大中から史事に参与し始め、『烈祖実録』二十巻を撰し、事を叙すること詳密であった。後主が嗣位すると、逺は徐鉉・喬匡舜・潘佑とともに『呉録』二十巻を共成し、また自ら『元宗実録』十巻を撰した(『唐余紀伝』に「昇元以来の故事を編緝して一家の言となした」とある)。
- 未だ上呈しないうちに病にかかり、史稿および他の著書を取ってことごとく焼き捨て、卒した。享年五十七。給事中を贈られ、諡を良といった。後主が国史を修めようとして稿をその家に求めたが、もう残っているものはなかった。
- 逺には精識があり、辺鎬が潭州に入って湖南が悉く平定されたとき、百官が入って賀すると、逺はひとり「われらが楚の乱に乗じてこれを取ることは甚だ易しいが、諸君の才を見るに、これを守ることは実に難しいだろう」と言った。聞く者は愕然としてこれを言い過ぎと思ったが、のちに果たしてその言った通りになり、皆その先見に服した(案ずるに『馬令南唐書』には「諸将が潭・衡を取り、満朝が慶を称えたとき、高越が『潭・衡を取ることは一時の凶乱にすぎず、甚だ易しいが、諸将の才を見るに善く守ることは難しいだろう』と言った」と載る。今は陸游『南唐書』の逺伝に従う)。