十国春秋卷二十七 南唐十三 劉茂忠
要約
劉茂忠は南唐の武将で、独力では支えきれないと悟り宋に降った。降伏に先立ち、州県の軍役・課税の帳簿をことごとく焼き捨て、田税の簿だけを残したため、袁州の人々はその配慮に感謝したという。
宋に入る途中、舟が淮口に停まった際、関所の役人に袁州刺史であると名乗ったところ、亡国の捕虜のくせに何が刺史かと侮られ、名刺を地に投げつけられたうえ杖で打たれ庭で参らせられる屈辱を受けた。それでも茂忠は言葉少なに耐え忍び、後に汴京に至って登州刺史を授けられたが、たまたまその関吏が罪を得て同地に編管されており、茂忠はこれを見て「お前だったのか」と言い、以後日々両衙で参謁を強いて庭下に立たせ続けたため、吏は恥じて憤死した。茂忠自身も朝廷での儀礼を終えて帰った後、かつて潭州の帥と戦った際に自ら奮撃して負った金瘡の古傷がもとで、数日病んで没した。
巻末の史論では、南唐に殉じた延鄒・弘祚・陳喬・鍾蒨・咼彦・廖澄・張雄父子・胡則一門らの忠臣を並べ挙げたうえで、死をもって国に報いると誓いながら結局は力尽きて降った令堅・茂忠については、その志は評価しつつも「終わりを全うできなかった者」への歎きを寄せている。
現代語訳全文
降伏後の消息
- 茂忠は独り奮闘できないと考え、そこで降った。まさに行動しようとする時、州県の軍興科斂の文籍をことごとく焼き、留めたのは田税の簿だけであった。袁の人はこれを徳とした。
- 宋に入り、舟が淮口に停まった時、関吏に謁して袁州刺史であると称したところ、吏は刺(名刺)を地に投げて「これは亡国の俘(捕虜)だ、何が刺史だ」と言い、叱して杖を執らせ庭で参らせた。汴京に至って登州刺史を授けられた。関吏は罪に抵り、たまたま登州に編管されていた。茂忠はこれを見て「お前だったのか」と言い、日々両衙で拝謁を責め、必ず庭下に立たせた。吏は恥じて憤死した。茂忠は朝に還った後、金瘡の病で卒した。
史論
論じて言う。延鄒が筆を投げたこと、弘祚が水に赴いたこと、陳喬が宰執として首を投げたこと、鍾蒨が侍従として節を尽くしたこと、咼彦が巷戦して死んだこと、廖澄が薬を仰いで亡くなったこと、張雄の父子が身を殺したこと、胡則の一門が難に殉じたこと、これらは要するに皆李氏の忠臣である。令堅と茂忠が死をもって国に報いることを誓ったことに至っては、志は嘉するに足りるが、しかし茂忠は力尽きて降伏を納れた。昔の人が「鮮く終わりを全うする者」に嘆きを寄せた所以であろうか。