十国春秋卷二十七 南唐十三 孫晟
要約
孫晟、初め名は鳳、また忌ともいう。高密の人で、若くして進士に挙げられたが世俗の名声競争を嫌って廬山で道士となり、賈島の像を祀って妖と疑われ追われた末、後唐荘宗に仕え著作佐郎となり、後に朱守殷の判官となったが、守殷の乱に連座して逃亡し安重誨に家族を族滅された。淮を渡る際に邏卒の前で瘖を装って虱を噛み難を逃れ、劉金の廟で祈る言葉を密かに聞かれて金陵に送られ、烈祖に見出されて重用され、禅代の秘計に参与した。
元宗の時は景遂に排斥され舒州に左遷されたが復権し、左僕射として馮延已と並んで相となったが、その人物を「玉椀に狗の糞を盛るようなものだ」と評すほど軽んじ、後に延已に排侮されて先に罷免された。周の南侵に際し、内附を請う使者として周に赴く前、必ず死を免れないと予感しつつも「先帝の陵に背くことはない」と述べて節を曲げなかった。周に抑留され厚遇されたが、金陵が李重進に送った密書に周を指斥する言葉があったことが発覚すると疑われ、従者二百余人もろとも処刑された。最期まで江南の実情を語らず、南に向かって拝礼し「死をもって国に報いる」と述べて刑に就いた。元宗はその死を深く悼み太傅を追贈して文忠と諡し、史論は鍾謨・李徳明が強隣に懾服した卑屈な態度と対比してその節義を「死は泰山より重い」と高く称えている。
現代語訳全文
出自と道士・官途の遍歴
- 孫晟、初め名は鳳、また名を忌と言う。高密の人である。篤学で文辞に善く、とりわけ詩に工みであった。少い時に進士に挙げられて洛陽に赴いた頃、当時名を成した進士たちは辺幅を修めて名検(名声と自制)を尊んでいたが、晟は豪放奔放でこれに従うことができず、ついに棄て去って南に廬山に遊び、簡寂宮で道士となった。常に唐の詩人賈島の像を描いて壁に置き、朝夕に伺候して事えたので、道士たちはこれを妖と考え駆逐した。そこで儒服に換えて北に趙・魏の地に走り、後唐の荘宗に鎮州で謁見した。荘宗が号を建てると、豆盧革を宰相としたが、革はもとより晟を知っており、辟いて判官とし、著作佐郎に遷った。
- 天成中、朱守殷が汴州を鎮していた時、辟いて判官とした。守殷が叛いて誅に伏すと、晟は妻子を棄てて陳・宋の間に亡命した。安重誨は晟を憎み、守殷に叛くよう教えたのは晟であると言い、その姿を図って懸賞をかけ、捕らえられず、その家を族滅した。
烈祖への出仕
- 晟は逃げて正陽に至った。まだ渡らないうちに邏騎(巡邏の騎兵)が突然到着し、その姿が偉異であることを疑って睨みつけたが、晟は顧みず淮岸に坐って敝れた衣を撫で虱を噛んでいたので、邏卒はそこで放って去った。淮を渡って寿春に至り、節度使劉金がこれを得て、招いて語らせた。晟は瘖(唖)を装って答えなかった。館で数日を過ごした後、突然漢の淮南王安の廟に謁した。金は先に人を神座の下に伏せさせておき、その祈るところをすべて聞いて、金陵に送り届けた。
- 当時、烈祖は呉を輔佐し、まさに四方の豪傑を招納していたが、晟を得て甚だ喜んだ。晟の人となりは口吃(吃音)で、とっさに寒暄(挨拶)の言葉を言うことができなかったが、坐が定まると弁論は風生じ、上下・今古を論じて聞く者は倦むことを忘れた。烈祖は酷くこれを愛し、教令を出させるとたちまち意に合った。そこで禅代の秘計に預かり、入見するたびに時を移してから出るほどで、とりわけ謹密を務め、人はその内実を窺うことができなかった。烈祖が受禅すると、中書舎人・翰林学士・中書侍郎を歴任した。
元宗期の左遷と復帰
- 元宗が立つと、斉王景遂がこれを排斥し、舒州節度使に出た。軍を治めること厳であった。帰化の卒二人が晟を殺そうとしたが果たせなかった。都押牙李建崇を刺し殺して逃走した。晟は坐して光禄卿に貶されたが、元宗はもとよりこれを重んじており、罪とはしなかった。累進して左僕射となり、馮延已とともに相となった。
- 晟は常に延已の人となりを軽んじ、「玉椀・金杯に狗の糞を盛るようなものだ」と言っていた。しかし延已に排侮されて、ついに先に罷免され、司空に位を進めた。晟は烈祖父子に事えること二十余年、家はますます豪富になった。食事のたびに几案(食卓)を設けず、多くの伎(妓女)にそれぞれ一器を執らせて周りに立って侍らせた。これを「肉台盤」と号し、江南の貴人は多くこれに倣った。
使周と処刑
- 周の軍が南侵し、寿春を囲み滁州を破って皇甫暉を捕えると、江左は大いに震撼した。晟を周に使いさせ、表を奉って内附を得ることを請わせた。晟は延已に会って「公は今国を執っている、この行はまさに公に属すべきである。しかし晟がもし辞すればこれは先帝に背くことになる」と言った。すでに出発すると、夜中に嘆息してその副の礼部尚書王崇質に語って言った、「私のこの行は必ず免れることができないだろう。しかし私は結局永陵(烈祖の陵)の一坏の土に背くことはない」と。
- まもなく周に至ると、周は崇質を帰らせて晟を留めた。折しも暑雨で班師することになり、晟は従って大梁に至り、都亭駅に宿泊した。世宗はこれをよく厚遇し、朝会では東省官の班に列させた。後に召見するときは必ず醇酒を飲ませて慰藉すること甚だしく、江南の事を問うても晟はただ「寡君は実に二心が無い」と言うのみであった。
- まもなく周の兵はしばしば利を失い、得たすべての州を喪失した。周世宗は憂いを顔に形し、晟を召して江南の虚実を問うたが、晟は答えなかった。世宗はこれに怒ったが、発するきっかけが無かった。折しも周の将張永徳と李重進が相い能わず(不仲であり)、重進がまさに反するだろうという流言があった。金陵はこれを聞いて隙に乗じられると考え、蜜蝋書を送って重進を招いた。重進はその書を上呈したが、その中には周の過悪を指摘する言葉が多く、これにより発怒して言った、「晟が来て使いした時、私に『景(元宗)は我が神武を畏れ、北面して称臣し二心の無いことを保つことを願っている』と言ったのに、どうしてこのような指斥の言葉があるのか」と。侍衛軍虞候韓通を趣召して晟を収獄させ、その従者二百余人とともにこれをすべて殺した。
- 処刑の時、周世宗はなお都承旨曹翰を遣わして右軍巡院に護送しこれを問わせ、酒を数杯飲ませたが、晟は最後まで答えなかった。翰はそこで「勅があって相公に死を賜る」と言った。晟は神色怡然として靴と笏を求め、衣冠を正して南を望んで拝し、「臣は謹んで死をもって国に報います」と言い、そこで刑に就いた。
死後の顕彰と壽州説得の逸話
- 晟がすでに死ぬと、周世宗はその忠を憐れみ、これを殺したことを頗る悔いた。元宗は晟の死を聞いて哀しみ甚だしく涙を流し、太傅を贈り魯国公に追封し、文忠と諡し、その家を厚く恤み、その子を擢用して祠部郎中とし、名を魯嗣と賜った。
- 初め、晟が周に使いした時、世宗は中使を遣わして楼車に晟を載せて寿州城下に至らせ、劉仁贍に降ることを諭させた。晟は城中を望んでその言葉を変えて呼んで言った、「臣節を隳(そこ)なうな、援軍はすぐに至るだろう」と。世宗は怒ってこれを詰問した。晟は言った、「臣は員数の中に備わる唐の宰相です、どうして節度使に叛くことを教えることができましょうか」と。仁贍はもとより純臣であったが、晟にもこれを激励したところがあったという。
史論
論じて言う。保大の末、敵兵が境に迫り辺疆を揺り動かした時、孫晟は大臣として使いを奉じ、慷慨として撓まず、生を捨てて義を取った。その侃侃たる節は、まことに「死は泰山より重い」と言うべきものである。鍾(謨)・李(徳明)らが強隣に懾服し、稽首して後れることを恐れたのに比べれば、その風烈の差は較べようもなく異なるではないか。