十国春秋卷二十七 南唐十三 劉仁贍
要約
劉仁贍、字は守恵。武忠王に仕えた濠州団練使劉金の末子で、財を軽んじ士を重んじ法令厳粛な将であった。烈祖・元宗に仕えて黄袁二州刺史・武昌軍節度使などを歴任し、楚平定戦では巴陵で舟師を率いて功を挙げ人心を得た。淮南防備の要となる清淮軍節度使に任じられると、監軍呉廷紹が「把浅」の守備を無益として罷めようとしたのを力めて争い、周の急襲に際しても神気閒暇として守禦を定めて群情を安んじ、劉彦貞の軽率な出撃を諫めたが聞かれず、彦貞は正陽で敗死した。
寿州が周世宗の大軍に幾重にも包囲されると、仁贍は数ヶ月にわたり城を固守し、自ら世宗の陣屋を弓で狙い矢を数尺前で落とすほどの気迫を示した。大暑の水害で礟舟・竹龍を焼かれ周軍に十分の三の死者が出た後も、応援に来た斉王景達方の内紛によって出撃の好機を逃し、憤りから病に倒れた。翌年、周軍が紫金山の砦を破って南唐軍が総崩れとなり、元宗が称臣・割地を願い出た後も仁贍だけは屈せず城を守り、父の病に乗じて周に降ろうとした実子崇諫を斬らせてまで士卒の士気を保った。
病が篤くなり人事不省となる中、副使孫羽が偽ってその名で降伏を宣したため、周世宗は仁贍を担がせて厚遇し検校太尉などの官爵を授けたが、仁贍は命を受けることなく五十八歳で卒した。世宗はその忠節を称えて寿州を下蔡に移し軍号を「忠正」と改め、元宗も哭して太師・中書令を追贈し忠粛と諡した。史論は、崇諫を斬らせた妻薛氏もまた仁贍の死後に食を絶って殉じた烈女であったと伝えている。
現代語訳全文
出自と早年の治績
- 劉仁贍、字は守恵。父の金は呉の武忠王に事えて濠州団練使となった。長子の仁規は忠武王の娘を娶り、その国で貴顕であった。仁贍はその末子である。仁贍は将となって財を軽んじ士を重んじ、法令は厳粛で、略々兵家の言に通じていた。烈祖に事えて左監門衛将軍・黄袁二州刺史となり、至るところで治績を称された。元宗の時、武昌軍節度使に拝された。
- 楚を平定する役で、仁贍は舟師をもって巴陵に克ち、降附した者を撫納して甚だ人心を得た。まもなく湖南の戍兵が潰えて帰り、楚の地が全て失われた。上書する者の多くは周人に南侵の謀があると言った。淮上で石がたまたま人語を発したので、元宗はこれを聞いて悪み、その首を断つよう命じた。当時ひどい旱魃に遭い、長い淮水が徒渉できるほどであったので、百姓は周の境に流入し、遮り殺すことを禁じることができなかった。これにより辺備を増修し、寿州を最も要害としたので、仁贍を清淮軍節度使に移した。
淮南攻防の緒戦
- 先に、毎年淮水が浅く涸れる時期には、兵を分けて屯守させ、これを「把浅」と名づけていた。監軍呉廷紹は境上に幸い事が無ければ、ただ餉(軍糧)を無益に糜(費や)すだけだと考え、すべてこれを罷めた。仁贍は力めて争ったが不可とされた。まだ報告が届かないうちに周の軍が突然到来し、州の人々は大いに恐れたが、仁贍は神気閒暇(落ち着いている様子)として、守禦の部署を平常のように定めたので、群情はそこで安まった。
- この時、周の軍を統べて来たのは李穀であり、兵を率いて周を拒んだのは神武統軍劉彦貞であった。穀は退いて正陽の浮橋を守った。彦貞はその怯えを推し量って兵を麾いて進んだが、仁贍は敵が我を狃(あなど)っているのだと考え、独り兵を按じて城を守った。彦貞はその言を聴かず、正陽で敗死した。仁贍はついに周饒の計を用いて城南の大寨を破り、擒獲する者は数えきれないほどであった。
寿州の籠城戦
- 周世宗が寿州に至ると、これを数重に囲み、丁夫数十万を徴して攻撃に備え、雲梯・洞屋(トンネル)を下して城中に臨み、数道から進攻し、塹を埋め壁を陥し、昼夜少しも休まなかった。このようであること数ヶ月に及び、鼓角の声は墻壁を震動させた。援兵はしばしば敗れたが、仁贍の意気はますます壮んになった。周人は方舟(複数の舟を並べたもの)に礟(投石機)を載せ、淝河の中流からその城を撃ち、また巨竹数十万を編んで栰(いかだ)とし、上に板屋を施して「竹龍」と号し、甲士を覆ってこれを攻めた。さらにその水砦を決壊させて淝河に注がせた。正月から四月に至るまで、これを攻めること百端に及んだが下すことができなかった。
- 周世宗はますます忿怒し、城下に坐って督戦することますます急であった。仁贍はしばしば善く射て、弓を引いて世宗を射たところ、矢は帳の牀の前数尺のところで落ちた。世宗が牀を移して前進させると、矢はまた数尺前で剽(勢いをそがれて)落ちた。仁贍は弓を地に投げて言った、「天は果たして唐を佑けないのか。もしそうならば私に死あるのみだ」と。世宗は中使を遣わして「卿の忠義は知っているが、士民に何の罪があろうか」と諭させ、また自ら城に臨んでこれを招いたが、仁贍は顧みなかった。
- 折しも歳は大暑で、霖雨が旬を積み、淮・淝が暴漲し、周の営寨は水深数尺に及び、礟舟・竹龍の多くは南岸に漂着して南の兵に焼かれ、周の兵の死者は十分の三に及んだ。周世宗はそこで東に濠梁に趣き、李重進を廬寿都招討使とした。元宗もまた元帥斉王景達らを遣わして紫金山下に砦を列ね夾道を作って城中に属させた。当時重進とその副帥張永徳は不協和で、仁贍はしばしば機に乗じて出戦することを請うたが、斉王景達は許さなかった。これにより憤惋(怒り憂う)して病を成した。これは保大十四年(956年CE)のことである。
紫金山陥落と最期
- 翌年二月、周世宗は再び淮上に至り、紫金山の砦をことごとく破ってその夾道を壊し、南の兵は大敗し、諸将はしばしば捕らえられた。守臣の東都馮延魯・光州張経・泰州方訥・泗州范再遇らは、あるいは逃げあるいは降った。元宗および左右の大僚もまた皆震懾し、表を奉って称臣し、割地して貢賦を輸して罪を贖い兵を止めることを願った。しかし仁贍だけは独り危城を堅守して下さなかった。
- 少子の崇諫は、父の病に乗じて夜に淮を渡って北に降ろうとしたが、小校に捕えられた。仁贍はすぐさま斬るよう命じた。監軍使の周延構が中門で泣いてこれを救おうとしたが得られなかった。士卒はこれにより皆感泣し、死をもって守ることを誓った。
- 三月甲辰、周が城北で兵を耀す(示威する)と、仁贍の病は甚だしくなり、すでに人事不省であった。副使孫羽はそこで仁贍の書を偽って降伏を宣した。周世宗は仁贍を担いで帳前に至らせ、嘆嗟すること久しく、玉帯・御馬を賜り、また城に入って病を養わせた。制して言った、「劉仁贍は事えるところに忠を尽くし、節に抗して虧けるところが無かった、前代の名臣の幾人がこれに比べられよう。私が南伐で得たものの中で、爾を最も多しとする」と。そこで仁贍を検校太尉兼中書令・天平軍節度使に拝した。仁贍は命を受けることができないまま卒した。享年五十八。卒した時、昼が暗くなり雨と砂が霧のようであった。州の人は皆哭し、偏裨や士卒で自剄して殉じた者は数十人に及んだ。周世宗は使者を遣わして弔祭し、彭城郡王に追封し、その子崇讃を懐州刺史とし、荘宅各一区を賜った。寿州の故治は寿春であったが、世宗はこれが克ち難かったことから、そこで城を下蔡に移し、その軍を「忠正」と改めて言った、「私はこれをもって仁贍の節を旌するのだ」と。
死後の顕彰
- 元宗は仁贍の卒を聞いて哭すること慟しく、また太師・中書令を贈り、諡して忠粛と言い、衛王を加封した。その誥を焚いて言った、「魂よ、知ることあらば、周の恵を鑒みるか、我が命を歆けるか」と。夜、仁贍が墀下(階段の下)で拝するのを夢に見て、まるで命を受けているかのようであった。後主が立つと、進めて越王に封じた。開宝中、仁贍の子崇諒は進奉使となり、宋太祖はその忠臣の後であることを嘉して、特に都官郎中に命じた。百余年を越えて、政和の時、仁贍を祀典に列し、祠額を「忠顕」と賜り、代々廟食が絶えなかった。
史論
論じて言う。陸游『南唐書』は、劉仁贍が崇諫を斬った時、監軍使が仁贍の妻薛氏に救いを求めたところ、薛氏は「崇諫は私の幼子であり、固より忍びないところである。しかしその死を貸せば、劉氏は不忠の門となる」と言い、直ちに斬るよう命じ、その後で喪服を着けたと言う。また、仁贍が死ぬと夫人は食を絶つこと五日で卒したとも言う。今の伝記の多くはこれを載せていない。これによって観れば、独り仁贍だけが忠臣であったのではなく、その婦人もまた烈女であったのだ。ああ、二心を懐いて主に事える人臣を愧じさせるに足るものである。