十国春秋卷二十七 南唐十三 張彦卿

生涯

  • 張彦卿は、いずれの郡県の人か分からない。保大末、楚州防禦使となった。周世宗が南侵し、その師は鋭く、十日ほどで海・泰の二州および静海軍を連破した。元宗は令を下し、東都の官寺・民廬を焼き、その民を移して江を渡らせるよう命じた。
  • 周世宗は自ら旗鼓を御して楚州を攻め、城の外はすべて已に下っていた。州の民を発して老鸛河を浚渫し、斉雲戦艦数百を遣わして淮から江に入らせた。勢いは震霆のようで、烈しい炎であったが、彦卿だけは動じなかった。梯衝(攻城兵器)が城に臨むに及んで、城を鑿って窟室を作り薪を実めてこれを焼いたので、城はすべて摧圮し、ついに陥落した。彦卿はなお城内に陣を列ね、死を誓って奮撃し、これを巷戦と言った。日が暮れて州の役所にまで転じ、長短の兵器は皆尽きた。彦卿は縄牀(縄で編んだ椅子)を取って搏戦し、兵馬都監鄭昭業ら千余人とともにすべて死んだ。生きて降った者は一人も無かった。周の兵の死傷者もまた甚だ多かった。
  • 周世宗は怒り、城中の民をすべて屠り、その室廬を焼いたが、彦卿の子の光祐を捕えても殺さなかった。元宗は彦卿の忠を嘉し、詔して侍中を贈った。天長県時升は雄州刺史となり、建武軍使の易文贇もまた固守していたが、楚州の陥落を聞くと降った。

史論

論じて言う。張彦卿は孤塁をもって百倍の師に当たり、身を砕くとも志を渝(かわ)えることが無かった。ほとんど劉仁贍と伯仲の間ではないか。その副守の昭業らが死を視ること帰するがごとくであったことに至っては、また孫羽を遥かに越えるものである。彦卿を馬氏の書では彦能とするが、結局どちらが正しいか詳らかにできない。