潘佑の出自と登用
- 潘佑は幽州の人。祖父の貴は劉仁恭に将として仕えて劉守光に殺され、父の處常は身を脱して南に奔り、烈祖に仕えて散騎常侍となった。
- 佑は生まれつき気宇が高く孤高で、門を閉じて苦学し、資産を営まず、文章と議論で同輩に推された。中書舎人の陳喬と戸部侍郎の韓熙載がそろって元宗に薦め、秘書省正字から仕官した。後主が東宮にあって崇文館を開いて賢を招いた時にもその選に入り、即位後は虞部員外郎・史館修撰に除せられた。
- まもなく後主が博士の陳致雍に納后の礼を議させ、徐鉉と佑にも参議させた。佑は精緻で博い典拠を挙げて反対の論を立て、文采も見事だった。後主はその議を優れたものとしてかなり採用し、これによって恩寵は日ごとに厚くなり、知制誥に改まった。
- また詔されて南漢に降伏を勧める書を草した時は、筆を止めず数千言を綴った。その末尾はおおよそ「皇帝の宗廟には慶びが垂れ、清明の徳は身に備わる。日々に徽猷を広め、時に多福を受けられるよう願う。仁に依る思いは切なるも、徳に報いる情は尽くしがたい。南風を望んで永く懐い、我を撫でてくれるようにと庶幾い、白日を指して自ら誓う。この上、何を言おうか」というもので、情も辞も懇ろで、識者に称された。中書舎人に遷り、後主はしばしば「潘卿」と呼んだ。
老荘への傾倒と「贈別」の文
- 佑は老荘の言を好み、「贈別」と題する文を作った。その論旨はこうである。荘周に「得るのは時であり、失うのは順である。時に安んじ順に処すれば、哀楽は入り込まない」という言葉があり、自分は長くこの言葉を心に佩びてきた。得るとは、人が生まれて一歳から百歳へ、少年から壮年へ、壮年から老年へと進むようなもので、歳運の来るのは退けられない。これが「得るのは時」ということだ。失うとは、同じく一歳から百歳へ進む中で、暮れは朝を失い、今日は昨日を失い、壮年は少年を失い、老年は壮年を失うようなもので、過ぎゆく年は留められない。これが「失うのは順」である。天下の事はみなそうだ。達者は、自分が物をどうすることもできず、物も自分をどうすることもできぬと知っており、天下の事を、走る車が蟻塚を通り過ぎるように見る。出会っても得たのではなく、去っても失ったのではない。燕の南、越の北、日月の照らすところが中国であり、その中で歯を持ち髪を戴き粟を食い帛を着る者が人であり、剛柔・動植のあまたあるものが物であり、声で呼び合うのが名、物を重ねて集めるのが利、頭を並べてざわめくのが事である。事が過ぎて心に記され、喜となり悲となり怨となり恩となる。その名は多いが、実は一つの心の変化にすぎない。始めには何もなく、終わってもまた何もない。それなのに人は無理に彼と我を分ける。彼は我を彼と呼び、我も彼を彼と呼ぶ。彼も自らを我と呼び、我も自らを我と呼ぶ。結局どちらが彼でどちらが我なのか分からない。世人は欲を追い利を嗜み、心を物に繋いで、轅の下の子馬のように窮屈である。どうすれば列禦寇や荘周のように、天下の轅を焼き天下の子馬を放って、浩々と無物に帰れようか——と。
上疏と最期
- 開宝五年(972年)に官名が改まって内史舎人となった。当時、国は日ごとに衰え、用事者は位を埋めるだけで為すところがなかったので、佑は憤り、上疏して時政を極論し、大臣・将相を歴詆して言葉はきわめて激しかった。後主はしばしば手ずからの札を賜って感嘆したが、結局その言を用いなかった。
- 佑の上疏は七度に及んでもやまず、田廬に帰ることを請うたので、佑に専ら国史を修めさせ他の職を罷めた。それでも佑はさらに上疏した。「三軍から帥を奪うことはできても、匹夫から志を奪うことはできない。臣は先に続けて表章を奉り、あわせて数万言、辞は窮まり理も尽き、忠邪は明らかに分かたれた。陛下は力めて奸邪を庇い、諂偽を曲げて容れ、そのため国家は沈み込んで日の暮れようとするかのようである。古に桀・紂・孫皓がいて国を破り家を亡ぼしたのは自らの所業で、今なお千古の笑い者である。今、陛下は姦邪を手本とし国家を敗乱させておられ、桀・紂・孫皓にすら遠く及ばない。臣はついに奸臣と交わって亡国の主に仕えることはできない。陛下が必ず臣を罪とされるなら、どうか誅戮を賜って中外に謝されたい」と。
- 辞があまりに激切であり、張洎らも横から押しのけたので、後主はついに怒った。佑がもとより李平と親しく、佑の狂直は平に煽られたためと考え、しかも平も民籍を作る建言で諸臣に排斥されていたので、まず平を吏に付し、あわせて佑も捕らえさせた。佑は命を聞いて自殺した。家は饒州に徙された。処士の劉洞が詩を賦して弔い、国中の人が伝誦して涙を流した。のち宋師が南征した際の詔で後主が忠臣を殺したと数え上げたのは、佑のことである。
- 佑は自ら語っていた。母が身ごもった時、古めかしい衣冠の人が夢に現れ「私は顔延之である。夫人の子にしてほしい」と告げた。生まれて七年ではじめて口をきき、「私は誤って白龍を傷つけ、上帝に罰せられた」と言い、「ただ玉龍の腰を騎り折ったばかりに、人間に謫されること三十六年」と口ずさんだ。果たして三十六歳で命を終えた。
廖居素
- 廖居素は将楽の人。昇元・保大の頃に仕えた。人となりは堅固で正しく、当国の者に好まれず、校書郎に二十年も留め置かれ、ようやく大理司直となった。後主が嗣位すると次第に瓊林光慶使・検校太保に進み、三司を判した。
- 後主は暗愚で群臣は位を埋めるばかり、富貴を保つことに汲々として国はますます削られた。居素だけが慷慨してしきりに諫め、後主が一度でも悟ることを望んだが、ついに聴かれなかった。そこで門を閉じ食を断ち、朝服と冠を着けたまま井中に立って死んだ。のち箱の中から大書した紙が見つかり、「私が死ぬのは、国が破れ主が辱められるのを見るに忍びないからだ」とあった。徐鍇が文を作って弔い、屈原・伍員になぞらえたという。
趙仁澤
- 趙仁澤は元宗に仕えて常州団練使。周人が南侵した隙に呉越が兵を出して常州を攻め、仁澤は敗れて捕らえられ杭州に送られた。呉越の忠懿王に見えても拝せず、「わが烈祖皇帝は中興して真っ先に先王と結好し、天地に誓われた。王は今、利を見て義を忘れている。どの面下げて先王の廟に入れるのか」と責めた。忠懿王は怒って刀でその口を耳まで裂いた。呉越の丞相元徳昭は仁澤の忠を嘉し、良薬を創に塗って癒やした。その後の消息は分からない。
段處常
- 段處常は郷里も家世も分からない。保大年間に兵部郎中となり、周が淮南を侵すと、元宗は處常に海を渡って契丹に援を乞わせた。處常は契丹に利害を陳べて弁論は明快だったが、契丹は本国と通じていても空言を並べるだけで、南方の茶・薬・珠貝を目当てにしていたにすぎず、出兵の意はまったくなく、しかも處常を留めて帰さなかった。處常はその信のなさを怨み、国事に死ぬ覚悟でしばしば面と向かって契丹主を譏った。契丹主もその言に恥じて寛容に遇したが、處常は病んでその地で卒した。
史論
- 潘佑は国の奸を歴挙して疏を上げ、ついに讒によって死んだ。彼を狂気で身を滅ぼしたと言う者があるのはどういうことか。廖居素は井に沈んで命を致し、趙仁澤は口を裂かれても屈せず、段處常は遠国で死を誓った。いずれも忠と言ってよい。
孫晟の出自と流浪
- 孫晟、はじめの名は鳳(一説に鳳は字)、また忌とも称した。高密の人。学に篤く文辞をよくし、とりわけ詩に巧みだった。若くして進士に応じて洛陽に行ったが、当時の名のある進士たちは体面を繕い名声と行儀を尚んだのに対し、晟は豪放で規矩に収まらず、ついに棄てて南の廬山に遊び、簡寂宮の道士となった。唐の詩人賈島の像を壁に描いて朝夕これに仕えたので、道士たちは妖しいとして追い出した。そこで儒服に着替えて北の趙・魏に走り、鎮州で後唐の荘宗に謁した。
- 荘宗が建号して豆盧革を相とすると、革はかねて晟を知っていて判官に招き、のち著作佐郎に遷った。天成年間に朱守殷が汴州に鎮すると判官に招かれたが、守殷が反いて誅されると、晟は妻子を棄てて陳・宋の間に亡命した。安重誨は晟を憎み「守殷に反乱を教えたのは晟だ」として、その人相図を作って懸賞したが捕らえられず、家族を族滅した。
- 晟は逃げて正陽に至り、まだ渡らぬうちに巡邏の騎兵が来た。体格が偉丈夫なので怪しんで睨んだが、晟は意に介さず淮の岸に坐って破れた衣を探り虱を噛んでいたので、巡邏は捨てて去った。淮を渡って寿春に至ると、節度使の劉金がこれを得て招き入れて語ったが、晟は唖のふりをして答えなかった。館に置かれて数日後、突然、漢の淮南王安の廟に詣でたいと申し出た。金はあらかじめ人を神座の下に伏せさせ、その祈りをすべて聞き取ったうえで、金陵に送った。
南唐での栄達
- 当時、烈祖は呉を輔けて四方の豪傑を招いており、晟を得て大いに喜んだ。晟は吃音で、とっさの挨拶もうまく言えなかったが、坐が定まって論を交わすと風が起こるように今古を論じ、聞く者は倦むのを忘れた。烈祖はこれを深く愛し、教令を書かせればいつも意にかなった。禅代の秘計にも与り、入って見えるたび長い時間を経てから出たが、ことに機密を守り、人はその内実を窺えなかった。
- 烈祖が禅を受けると中書舎人・翰林学士・中書侍郎を歴任した。元宗が立つと斉王景遂に排されて舒州節度使に出た。軍を厳しく治めたので、帰化軍の兵二人が晟を殺そうとしたが果たせず、都押牙の李建崇を刺殺して逃げた。晟はこれに坐して光禄卿に貶せられたが、元宗はもとより重んじていたので罪とせず、累進して左僕射となり、馮延巳と並んで相となった。
- 晟はかねて延巳の人となりを軽んじ、「玉の椀や金の杯に犬の糞を盛るようなものだ」と言った。しかし延巳に排され侮られ、結局は先に罷めさせられて司空に進んだ。晟は烈祖父子に二十余年仕えて家はますます富み、食事のたび几案を置かず、多くの伎女に器を一つずつ持たせて取り囲ませ、「肉臺盤」と号した。江南の貴人は多くこれを真似た。
周への使いと殉節
- 周師が南侵して寿春を囲み滁州を破り皇甫暉を擒にすると、江左は大いに震えた。晟が周への使者として表を奉り内附を請うことになった。晟は延巳に「公は今、国政に当たっているのだから、この役は公が行くべきだ。しかし私が辞退すれば先帝に背くことになる」と言った。出発して夜半に嘆息し、副使の礼部尚書王崇質に「私はこの行きで必ず免れまい。しかし私は永陵(烈祖の陵)の一坏の土に背くことはしない」と語った。
- 周に着くと、周は崇質を帰して晟を留めた。暑雨で周軍が引き揚げると、晟は従って大梁に至り都亭駅に館した。世宗の待遇は厚く、朝会では東省の官の列に加え、召見のたびに醇酒を飲ませて手厚く慰めた。江南の事を問われると、晟はただ「わが君に二心はございません」と言うばかりだった。
- まもなく周兵はしばしば敗れて得ていた諸州を尽く失い、世宗は憂色を浮かべ、晟を召して江南の虚実を問うたが、晟は答えなかった。世宗は怒ったが発するきっかけがなかった。折しも周将の張永德と李重進が不和で、「重進が反く」との噂が立った。金陵はこれを聞いて隙に乗じられると考え、蠟書を送って重進を誘った。重進はその書を差し出したが、中には周を斥る言葉が多かった。世宗は激怒して「晟は使いに来て『景(元宗)は朕の神武を畏れ、北面して臣と称し二心なきことを保つと願っている』と言った。それがどうしてこんな指斥の言葉になるのか」と言った。
- ただちに侍衞軍虞候の韓通を召して晟を捕らえて獄に下し、従者二百余人とともに皆殺しにした。刑の執行にあたって世宗はなお都承旨の曹翰を遣り、右軍巡院まで送って問わせ、酒を数杯酌み交わさせたが、晟は最後まで答えなかった。翰が「勅あり、相公に死を賜う」と告げると、晟は神色怡然として靴と笏を求め、衣冠を正して南を望んで拝し、「臣は謹んで死をもって国に報います」と言って刑に就いた。
- 晟が死ぬと世宗はその忠を憐れみ、殺したことをかなり悔いた。元宗は晟の死を聞いて深く哀しみ涙を流し、太傅を贈り魯国公を追封、諡を文忠とし、その家を厚く恤み、子を祠部郎中に抜擢して魯嗣の名を賜った。
- はじめ晟が周に使いした時、世宗は中使に楼車で晟を寿州城下に運ばせ、劉仁贍に降伏を諭させようとした。晟は城中を望むと言葉を変え、「臣節を堕とすな、援兵はすぐに来る」と叫んだ。世宗は怒って詰ったが、晟は「臣は唐の宰相の末席に連なっております。どうして節度使に叛けと教えられましょう」と答えた。仁贍はもとより純臣だったが、晟もその意気を励ましたのである。
史論
- 保大の末、敵兵が境を圧して辺疆を揺るがした時、孫晟は大臣として使いに立ち、慷慨して屈せず、生を捨てて義を取った。その堂々たる節は、まことに死に泰山より重いものがあるというべきだ。あの鍾謨・李徳明らが強隣に懾服して先を争って稽首したのに比べれば、その風烈の差は歴然としている。
劉仁贍の出自と壽州鎮守
- 劉仁贍、字は守惠。父の金は呉の武忠王に仕えて濠州団練使。長子の仁規は忠武王の娘を娶ってその国で貴顕だった。仁贍はその末子である。
- 仁贍は将として財を軽んじ士を重んじ、法令は厳粛で、兵家の言にもおおよそ通じていた。烈祖に仕えて左監門衞将軍、黄州・袁州の刺史となり、赴任先ごとに治績で称された。元宗の時に武昌軍節度使。楚を平らげる役では舟師で巴陵を落とし、降った者を撫し受け入れて大いに人心を得た。
- まもなく湖南の戍兵が潰えて帰り、楚の地は完全に失われた。上書する者の多くが「周人に南侵の謀がある」と言い、淮上の石像が人の言葉を発したので、元宗は聞いて嫌い、その首を断たせた。折しも大旱で長淮は渡れるほどになり、百姓が周の境に流入するのを遮って殺しても止められなかった。そこで辺備を増強することとなり、寿州が最も要害だとして仁贍を清淮軍節度使に移した。
- これまで毎年、淮水が浅くなる時期には兵を分けて屯守させ「把淺」と呼んでいたが、監軍の呉廷紹が「境上は幸い無事なのに徒に糧を費やして益がない」としてすべて廃止した。仁贍は力争して不可としたが、返答が来ないうちに周師が突然到着し、州の人は大いに恐れた。仁贍は落ち着きはらって守禦の部署を平常どおり定めたので、人心はようやく安まった。
籠城戦
- この時、周師を率いて来たのは李榖、周を防いだのは神武統軍の劉彦貞だった。榖が正陽の浮橋に退いて守ると、彦貞は怯えたと見て兵を進めた。仁贍は「敵はこちらを油断させようとしている」と見て、ひとり兵を按じて城を守った。彦貞はその言を聴かず正陽で敗死した。
- 仁贍はついに周饒の計を用いて城南の大寨を破り、捕虜は数え切れなかった。周の世宗が寿州に至ると幾重にも囲み、丁夫数十万を徴発して攻撃に備え、雲梯や洞屋が城中を見下ろし、数方向から攻めて堀を埋め壁を崩し、昼夜休みなく、これが数か月続いた。鼓角の音に城壁が震え、援兵はしばしば敗れたが、仁贍の意気はいよいよ壮んだった。
- 周人は方舟に砲を載せて淝河の中流から城を撃ち、また巨竹数十万を編んで筏とし、上に板屋を設けて「竹龍」と号し、甲士を覆って攻め、さらに水砦を決壊させて淝河に流し込んだ。正月から四月まで百方手を尽くしたが落とせなかった。世宗はますます憤り、城下に坐して攻撃を督し急がせた。
- 仁贍は射術に長け、弓を引いて世宗を射たが、矢は帳の牀の数尺手前で落ちた。世宗が牀を前に進めさせても、矢はまた数尺手前で逸れた。仁贍は弓を地に投げ「天は唐を佑けぬのか。そうならば私は死あるのみだ」と言った。世宗は中使を遣って「卿の忠義は分かる。しかし士民に何の罪があるか」と諭し、また自ら城に臨んで招いたが、仁贍は顧みなかった。
- 折しも酷暑となり長雨が十日以上続いて淮水と淝水が急増し、周の営塁は水深数尺に達し、砲舟や竹龍の多くが南岸に流されて南兵に焼かれ、周兵の死者は十のうち三に及んだ。
落城と最期
- 世宗は東の濠梁に向かい、李重進を廬寿都招討使とした。元宗も元帥の斉王景達らを遣って紫金山の下に砦を連ね、夾道を作って城中に通じさせた。当時、重進はその副帥の張永德と不和で、仁贍はしばしば機に乗じて出撃したいと請うたが、景達は許さなかった。仁贍はこれを憤り悶えて病を得た。保大十四年(956年)のことである。
- 翌年二月、周の世宗が再び淮上に至り、紫金山の砦を尽く破って夾道を壊し、南兵は大敗した。諸将は次々に捕らえられ、東都を守る馮延魯、光州の張経、泰州の方訥、泗州の范再遇らは逃げるか降るかした。元宗と左右の大官も震え恐れ、表を奉って臣を称し、地を割き貢賦を輸して罪を贖い兵を息めたいと願った。それでも仁贍だけは危城を堅守して落ちなかった。
- 末子の崇諫が父の病に乗じて夜に淮北へ渡って降ろうとし、小校に捕らえられると、仁贍はただちに斬るよう命じた。監軍使の周延構が中門で泣いて助命を乞うたが聴かれず、士卒はこれに感泣して死守を誓った。
- 三月甲辰、周が城北で兵威を示した時、仁贍は病篤くすでに人事不省だった。副使の孫羽が仁贍の名で降書を偽作した。世宗は仁贍を帳前に舁いで来させ、長く嘆じ、玉帯と御馬を賜り、城に入って療養させた。制を下して「劉仁贍は仕える所に忠を尽くし、節を守って欠けるところがない。前代の名臣でも幾人が比肩できよう。予の南伐でこの者を得たのは大きな収穫である」と述べ、検校太尉兼中書令・天平軍節度使に拝したが、仁贍は命を受けられぬまま卒した。五十八歳。
- 死んだ時、昼が暗くなり砂が霧のように降り、州の人は皆哭した。副将や士卒で自ら首を刎ねて殉じた者は数十人。世宗は使者を遣って弔祭し彭城郡王を追封、子の崇讃を懐州刺史とし、荘と邸を各一区賜った。寿州はもと寿春を治所としたが、世宗は攻略の困難さから城を下蔡に移し、その軍名を「忠正」と改め、「私は仁贍の節を旌するのだ」と言った。
- 元宗は仁贍の死を聞いて慟哭し、太師・中書令を贈って諡を忠肅とし、衞王を加封した。その告身を焼く時、「魂に知るところあらば、周の恵みを鑑とするか、それとも我が命を歆けるか」と言い、その夜、仁贍が階下に拝して命を受ける夢を見た。後主が立つと越王に進封した。開宝年間、仁贍の子の崇諒が進奉使となると、宋の太祖は忠臣の後であることを嘉し、特に都官郎中に任じた。百余年を経た政和年間、仁贍は祀典に列せられ、「忠顕」の祠額を賜り、代々の廟食が絶えなかった。
史論
- 陸游の南唐書によれば、仁贍が崇諫を斬ろうとした時、監軍使は仁贍の妻の薛氏に助命を求めたが、薛氏は「崇諫は私の幼い子で忍びないが、その死を許せば劉氏は不忠の家となる」と言って急ぎ斬らせ、そののち喪服を着けたという。また仁贍が死ぬと夫人は五日間食を断って卒したという。今の伝記には多く載らない。これをもって見れば、独り仁贍が忠臣であるだけでなく、その妻も烈女であった。ああ、二心を抱いて主に仕える人臣を恥じ入らせるに足りる。
張彦卿
- 張彦卿はどこの郡県の人か分からない。保大の末に楚州防禦使。周の世宗の南侵は勢いが鋭く、十日ほどの間に海州・泰州および静海軍を続けて破った。元宗は令を下して東都の官舎・民家を焼き、その民を江南に移させた。
- 世宗は自ら旗鼓を執って楚州を攻め、城外はすべて陥落した。州民を徴発して老鸛河を浚え、斉雲戦艦数百を淮から江に入れ、その勢いは雷霆や烈火のようだったが、彦卿だけは動じなかった。梯や衝車が城に迫り、城壁に穴を掘って薪を詰め焼いたので城は崩れ、ついに陥落した。
- 彦卿はなお城内に陣を布いて死を誓って奮戦し、これを巷闘といった。日暮れには州の役所まで戦い移り、長短の兵器も尽きたので、彦卿は縄牀を取って戦い、兵馬都監の鄭昭業ら千余人とともに皆戦死し、生きて降った者は一人もなかった。周兵の死傷も甚だ多かった。世宗は怒って城中の民を皆殺しにし家屋を焼いたが、彦卿の子の光祐だけは殺さなかった。元宗は彦卿の忠を嘉して詔で侍中を贈った。当時、雄州に昇格していた天長県の刺史・建武軍使の易文贇も固守していたが、楚州が陥ちたと聞いて降った。
史論
- 張彦卿は孤塁で百倍の敵に当たり、身は砕けても志は変わらなかった。劉仁贍と伯仲の間というべきか。その副守の昭業らが死を同じくしたのも、孫羽よりはるかに勝る。彦卿を、馬氏の書は「彦能」に作るが、どちらが正しいか詳らかにできない。
李延鄒
- 李延鄒は鄱陽の人。元宗の時に濠州録事参軍。周師の攻城が急になり、団練使の郭廷謂が降を通じようと謀って延鄒に降表を草させた。延鄒は忠孝の道理をもって責め、草案を作らなかった。廷謂はその言に恥じたが、すでに降ると決めていたので、どうしても表を得ようと兵で脅した。延鄒は筆を投げて「大丈夫は死ぬだけだ。国に背いて叛臣のために降表を書くことは決してしない」と罵り、殺された。元宗はこれを聞いて悼み惜しみ、その子を召見して官を授けた。
周弘祚
- 周弘祚は呉の徳勝節度使周本の末子である。烈祖が呉から禅を受けた時、徐玠・周宗らが諸臣を率いて勧進したが、本はすでに老いており、また楊氏の恩を重んじて関わろうとしなかった。弘祚は家門のためを思い、代わりに署名して表を奉った。
- 保大年間に累進して舒州刺史。周師が大挙して南侵し舒州が陥落した時、泰州・蘄州・光州など諸州の文武は相次いで逃げるか降るかしたが、弘祚だけは慷慨して屈せず、水に身を投げて死んだ。時人は晋のために死んだ嵆紹になぞらえたという。
陳喬の出自と斉邱摂政の阻止
- 陳喬、字は子喬、廬陵玉笥の人。父の濬は呉に仕えて翰林学士、烈祖が呉に代わると兵部尚書に進んだ。喬は幼くして聡敏、文辞は清麗で、孝行で知られた。濬が没すると一族を収め恤み、財を均しく分け与えて親疎を分け隔てしなかった。蔭によって太常奉礼郎を授かり、烈祖に器量を重んじられ、屯田員外郎に遷り中書舎人に転じた。
- 保大の末、淮南に兵が起こって元宗が憂え悶えていた時、陳覚と李徴古が宋斉邱に摂政させるよう請うた。元宗は喬を召して覚・徴古の請うとおりの詔を草させようとしたが、喬は対を請うて宮門を押し分けて入り、泣いて言った。「社稷の重きをどうして人に貸せましょう。今、陛下がこれに署されれば、百官の朝請はみな斉邱に帰し、尺地一民も自らのものではなくなります。陛下は万乗の位を靴を脱ぐように捨てられても、中興の大業の艱難を思われないのですか。臣には淖歯や李兊のような者が再び現れるのが見えます。譲皇(楊溥)が丹陽に幽囚されたのは陛下が親しくご覧になったこと。ひとたび涙を流して田舎爺になろうとしても、もう叶いません」と。元宗は愕然として「卿がいなければ賊の術中に落ちるところだった」と言い、喬を引いて后や諸子に会わせ、「これは忠臣だ。他日、国家に急難があれば、お前たち母子は彼に託せる。私は死んでも恨みはない」と言った。
- 斉邱とその党が皆死んだ時、喬は斉邱と親しかったのに、ひとり連坐を免れた。建隆二年(961年)、元宗が南都に遷ると、喬を留めて太子の監国を輔けさせた。後主が嗣位すると吏部侍郎・翰林学士承旨・枢密副使を歴任し、門下侍郎兼枢密使となり、制度が貶められると右内史侍郎兼光政院使に改まって輔政した。喬は風度が雅やかで、小心に法を守り、時の誉れが集まった。
亡国と殉死
- 宋の太祖が使者を遣って後主に入朝を求め、後主が出発しようとして喬を介添えとした時、喬は「陛下と臣は同じく先帝の顧命を受け、宗社の大計を委ねられました。今、行けば必ず留められ、国は自らのものでなくなります。悔いても及ばず、死んでも先帝に顔向けできません。臣ひとりで引き延ばした責めを負い、宋の命を拒みます」と言った。後主が連年入朝しなかったのは、すべて喬が主導したのである。
- やがて宋師が金陵を囲むと、太祖はまた進奉使の江国公従鎰を通じて後主に自ら帰服するよう諭し、曹彬には攻撃を緩めて待つよう命じた。喬は堅く不可とした。劉澄が潤州を挙げて降り、後主が戸惑ってその家族を不問に付そうとした時、喬は憤然として「人臣が重寄を受けながら門を開いて敵を迎え入れた。どうして容せましょう」と言い、その父母妻子を尽く捕らえて斬った。常々後主に「勢いは切迫していても、臣節は崩してはなりません」と言っていた。
- 城が陥ちようとする時、後主は自ら降伏の文書を作り、喬と清源郡公仲寓に曹彬のもとへ届けさせようとした。喬はすぐ府に帰って文書を軒の樋の間に投げ入れ、降る意はまったくなかった。後主が急かすと、喬は入って「古より亡びない国はありません。降っても全うできるはずがなく、ただ辱めを受けるだけです。臣は城を背にして一戦して死にたい」と言った。内心は後主とともに国に殉じたかったが、口に出すには忍びなかった。後主は喬の手を握り涙を流したが従えなかった。喬は「それならば臣を誅し、命に逆らった罪を臣に帰してください」と言い、後主はまた従わなかった。喬は手を振りほどいて去り、政事堂に至って親しい吏二人を呼び、身に着けた金帯を解いて与え、「よく私の骨を蔵ってくれ」と言って自ら縊れた。二人の吏は牀を外して埋めた。
- 喬は孝悌廉直で家に余財がなかった。先に妻を亡くし、後主が国戚の女を娶らせようとした時、喬は「臣の家はもとより貧しく六礼を備えられません」と言い、後主は宮の帑から貸し与えて婚礼を整えさせた。金陵が平定されると、家人が遺骸を収めようとしたが見つからなかった。ある者が黄色の半臂を着た一人の男が手で顔を覆っているのを見た。埋めた場所を掘ってみると、見たとおりの姿だった。人々は喬の魂魄が滅びなかったのだと言った。
鍾蒨
- 鍾蒨、字は徳林。代々某地の人(原文は地名を欠く)。兄の懐建に従って豫章に家した。文辞に励み行いを敦くし、当時の誉れが高かった。藩府の従事から身を起こし、徐鉉・徐鍇の二徐らと交わり、累進して臺郎となり集賢殿学士に遷った。
- 保大九年(951年)に東都少尹。交泰年間、斉王景達が撫州を都督した時、朝廷が僚佐を慎重に選び、観察判官・検校屯田郎中に除せられた。後主の時に勤政殿学士。宋師が金陵に入ると、蒨は朝服のまま家に坐し、兵が門に及ぶと一族もろとも死んだ。
- 妻の王氏は太原の人で、交泰元年(958年)に先立った。蒨は詩をよくし、「山に賦して知己に別る」「新鴻」などの篇が世に称された。
咼彦
- 咼彦は家系が伝わらない。一説に媧氏の後で、「女」を去って姓としたという。後主の時に池州刺史、のち入って将軍。金陵が陥落し百官の多くが降伏の款を送る中、彦だけは馬承信・承俊とともに壮士数百を率いて巷戦し、力尽きて死んだ。
廖澄
- 廖澄は順昌の人。若くして忠義を負い、梁の開平二年(908年)の進士に及第したが、不遇で世に出なかった。烈祖の時に南へ奔り、累進して大理評事。宋の曹彬が金陵を囲んで急になった時、校書郎の林特が澄にともに降ろうと勧めたが、澄は「私は長く唐に仕えた。君臣の義は廃せない」と言い、あらかじめ身後の事を定めて下男を郷里に帰らせて知らせ、城が陥ちると従容と衣を改めて毒を仰いで死んだ。
張雄
- 張雄は一説に李姓、淮の人。周が淮南を侵した時、民が自ら結んで部隊を作り周師を拒み、これを義軍と呼んだが、雄の率いる部隊が最も功があり、元宗は義軍の首領に任じた。割地の後は江南に移され、袁州・汀州の刺史を歴任した。後主が嗣位すると統軍使に進み、なお二州を守った。
- 宋師が江南に入って金陵が危急になると、雄は諸子に「私は必ず国難に死ぬ。お前たちが私に従って死なぬなら忠孝ではない」と言い、諸子は泣いて命を受けた。雄は兵を糾合して東下し救援に向かったが、溧陽で不意に宋師と遭遇し、田欽祚と戦って利あらず、子とともに力戦して皆死んだ。同行しなかった子も他の陣で死に、父子八人に生き残りはなかった。国人はこれを哀しんだ。
胡則の江州死守
- 胡則は保大の末に軍校、後主が立つと諸軍使に進み、まもなく江州指揮使。金陵が陥ちて曹彬が後主に手書きで郡県に降伏を命じさせ、その書が江州に届くと、刺史の謝彦賔は将佐を集めて見せ、降伏を謀った。則は憤りを顔に出し、急ぎ出て部下に「我らは代々李氏の恩を受けている、どうして背けようか。しかも都城は長く囲まれており、この書は真偽が分からぬ。刺史は不忠でわが州を汚そうとしている。お前たちは私に従って忠義に死ねるか」と言い、皆「善し」と答えた。則は同列の宋徳明らを率いて騒ぎ立て彦賔を攻めた。彦賔は懼れて軒の樋に隠れたが、捕らえて殺した。
- 衆は則を推して刺史とし、号令は厳粛で誰も背かなかった。則はかつて劉仁贍に従って寿州の裨将となり、その城守の方略を尽く学んでいたので、日夜、丁壮を閲し部伍を整えて堅く守り死を期する構えを取った。
- 宋の太祖は南面行営招安巡検使の曹翰に攻めさせたが、城は江を帯び山を負い、櫓は高く険しく破れなかった。しばしば使者を遣って降伏を諭したが、則は死を誓って従わず、翰の軍の死傷は数え切れなかった。詔書で厳しく責められ戦いを督されたが、則が病篤くして起てなくなってようやく城は陥ちた。
- 衆はなお巷闘して涙を拭って奮い、少しも退かなかった。則は牀に横たわったままだったが、翰は捕らえてその命に背いた罪を数え上げた。則は「犬が主人でない者に吠えるのは当然だ、何を怪しむのか」と答えた。木驢に載せて磔にしようとしたが、まもなく死んだので、屍を腰斬して見せしめとし、宋徳明も殺した。城壁を七尺削って以後守れなくしたという。
- 当時、宋の右補闕張霽が知江州を命じられ翰と同行した。入城後、翰の軍士が民家を掠め、民が霽に訴えたので、霽は法に照らして軍士を誅した。翰は怒って城を屠り、死者は数万、屍を江に投じ、井戸や窪みも埋まった。さらに霽が擅殺したと奏したので、宋の太祖は霽を知饒州に移した。民間の資貨は巨万に及び、翰はこれを横領し、大艦十余艘を出して尽く金帛を積み、廬山の鉄羅漢像をその上に置き、「押綱羅漢」と称した。
- はじめ宋の太祖は則が仕える所に忠を尽くしたと聞き、江州が陥ちかけた時、使者に詔を持たせて翰に「命に背いた者をすべて赦せ」と諭させたが、使者が独樹浦に至ったところで大風のため渡れず、着いた時にはもう生き残りはいなかった。翰が城を攻めあぐねていた時、地相をよく見る者が「城の形は上向きの水亀である。腹と脇を攻めれば破れる」と言ったが、果たして西南から陥ち、城の脇だったという。
申屠令堅と劉茂忠
- 申屠令堅は山東の人。若い頃は無頼で勇敢は人に絶し、晋・漢の間に盗賊となって捕らえられたが、酒を買って番人に飲ませ、酔ったところで械を破って南に奔った。元宗の保大末、寿春で周師を防ぎ、城南の大砦を破る功で神武都虞侯に抜擢され、開宝年間に吉州刺史。
- 当時、吉州安福の人劉茂忠が袁州刺史だった。茂忠はもとの名を徹といったが、ある人が「劉徹は漢の武帝である。人臣の名とすべきでない」と言ったので改めた。若い頃はやはり群盗だったが、赦書が盗を募って兵とした時に応募し、あわせて盗を捕らえて身を洗いたいと請うた。そこで亡命者を装って盗の中に入り、風雲の占いに長けていると称して信用させ、密かに吏と内応を約して残らず捕らえ殺した。ただ廬陵の鷓鴣洞の賊帥呉先は狡猾で謀があり、険しい岩に拠って捕らえられなかった。茂忠は二人の卒を鞭打って罪を得たふりをさせて呉先に投じさせ、一月余りで先を斬り、その党は皆潰えた。州里は喜んで「劉小僕射」と呼んだ。功を積んで吉州兵馬都押牙から今の官に至った。
- 金陵が破れて後主が宋に降った時、二人は「主の存亡によって節を変えない」と約し、死を誓って国に報いようとした。その二年前から令堅は寝ると人と闘う夢を見て大声を上げて目覚めるので、侍婢を集めて歌舞と笑い声で夜を明かしてようやく眠れる有様だった。この時、帳中で人と組み合うようにしていたが、しばらくして卒した。
- 茂忠は独りでは奮えぬと見てついに降った。出発にあたり、州県の軍興のための徴発文書を尽く焼き、田税の簿だけを残したので、袁の人はその徳を慕った。
- 宋に入る途中、舟が淮口に泊まった時、関所の吏に謁して袁州刺史と称すると、吏は名刺を地に投げて「これは亡国の捕虜だ、何が刺史か」と言い、杖を持たせて庭に参らせた。汴京に至って登州刺史を授けられたところ、その関所の吏が罪を得てちょうど登州に編管されていた。茂忠は「やはりお前だったか」と言い、日々拝謁を責め、両衙では必ず庭に立たせたので、吏は恥じ憤って死んだ。茂忠は朝に還って、金創の病で卒した。
史論
- 李延鄒は筆を投げ、周弘祚は水に赴き、陳喬は宰執として縊れ、鍾蒨は侍従として節に殉じ、咼彦は巷戦して死に、廖澄は毒を仰いで亡び、張雄は父子ともに身を殺し、胡則は一門で難に殉じた。みな李氏の忠臣である。申屠令堅と劉茂忠が死を誓って国に報いようとした志は嘉すべきだが、茂忠は力尽きて降った。昔の人が「終わりを全うする者は稀だ」と嘆じたのは、このことであろうか。