十国春秋十國春秋卷二十六 南唐十二

陳覺の出自と権柄の始まり

  • 陳覚は海陵の人。のち海陵が泰州に昇格したので泰州の人となった。烈祖が呉を輔けていた頃、礼賢院を作って図書一万巻や琴・碁などを備え四方の賢士を招き、政務の合間に古今を論評したが、覚もそこに加わっていた。
  • 烈祖が金陵に移り、次子の景遷を東都に留めて輔政させた時、宋斉邱の薦めで覚を補佐とし、「私は朝夕賢士と接してきたが、もう老いた。まだ天下の事に達していない。景遷は年少で国に当たるのだから、君を屈して頼むのだ」と言った。まもなく景遷が病臥し、覚は東南諸道副都統に移り、やがて景遷は卒した。覚は朝に還って宣徽副使となった。
  • 昇元四年(940年)、烈祖の東巡に覚も供奉した。かつて覚の兄が故里にいた時、泰州刺史の褚仁規が法を犯したとして笞打っていた。覚はその私怨から機に乗じて仁規の貪残を讒し、御史の王仲連もその言を主として弾劾した。烈祖は罪を軽く見て職を罷めただけだったが、仁規は憤って上書して自ら訴えた。烈祖はただちに覚を馳せ遣って糾問させ、仁規は恐懼して罪に伏し、詔で死を賜った。覚が権を弄する始まりはここにある。
  • 烈祖の晩年は近臣が譴責されがちで、覚も懼れて病と称し数か月家に籠もったが、遺詔が宣せられるとその日のうちに入朝して大理寺を判した。蕭儼が公然と覚の罪を弾劾したが元宗は取り上げず、覚は光政院副使・太僕少卿に遷った。

福州の敗戦

  • 覚はもと宋斉邱の食客だった。斉邱が九華に帰隠して一年余り召されずにいると、覚は李徴古とともに斉王景達を通じて元宗に取りなし、斉邱は復帰できた。斉邱はいよいよ覚を腹心として、功を立てさせ権柄を握らせようとした。
  • 当時、国軍が建州を取ったばかりで、諸将は勝ちに乗じて福州を取ろうと請うたが、斉邱はひとり覚を宣諭使に薦め、李弘義を召して入朝させれば刃を煩わさず閩の地を尽く得られると説いた。元宗は覚に傾いていたので派遣した。
  • 覚が着くと弘義は甚だ傲慢で、覚は気を挫かれて何も言えなかった。劍州まで帰ったところで無功を恥じ、詔を偽って弘義を召し、自ら権知福州事と称し、汀・建・撫・信の兵と戍卒を勝手に動員し、馮延魯に率いさせて福州を攻めた。敗れて衆は潰え、死者は万を数え、金帛・武具の損失は数え切れなかった。
  • 朝議は覚を必死と見、元宗も怒って軍法に処そうとしたが、斉邱が待罪の表を奉って力めて覚らを援け、馮延巳も助けたので、蘄州に貶せられただけで済み、一年余りで再び起用された。

李徳明の誅と朱元の離反

  • 覚はこの頃から李徴古と死党を結び、唱和して口を一つにした。淮南に兵が起こると、元宗は支えきれぬと見て、鍾謨・李徳明・孫晟・王崇質を周に遣わし、寿・濠・泗・楚・光・海の六州を献じて兵を罷めるよう請うたが、周の世宗は許さず、徳明と崇質を先に帰した。徳明は金陵に着くと北兵の強さを盛んに述べ、淮南の地を尽く割くべきだと請うたので、元宗は不快だった。覚と徴古はもとより孫晟と徳明を憎んでいたので、崇質から言葉を引き出して徳明と食い違わせ、徳明が国を売ったと極言した。徳明は狭量で憤り、排斥されたと知っていよいよ袖をまくり「北師は必ず勝つ」と大言したので、元宗は怒って徳明を市で斬った。覚と徴古の勢いはいよいよ盛んになり、道行く人は目で語り合い、盟を請う議は二度と出なくなった。
  • 元宗は斉王景達に大兵で周を防がせ、覚を監軍使としたので軍政はすべて覚から出た。五万の兵を集めながら決戦の意がなく、朱元がしばしば功をあげると妬んでその兵を奪ったので、元は叛いて周に降り、諸軍はことごとく潰えた。覚は帰ってなお枢密使のままだった。

摂政の画策と講和、そして最期

  • 覚は徴古とともに斉邱を担いで長く保身を図ろうとした。折しも司天が天文の異変を告げ「人主は位を避けて祈禳すべし」と言った。元宗が「それは私の意だが、誰に託せるか分からぬ」と言うと、覚と徴古は本気と受け取り、「天命がこうである以上、宋公に摂政させ、陛下は深く禁中に居られるがよい。臣らも時折入って閑談し釈老を語り、国事が定まってから政を返しても遅くはありません」と言った。中書舎人の陳喬が固く諫めて不可としたので、元宗は笑ってやめた。
  • 周師がさらに進み世宗が迎鑾鎮に駐まると、元宗は覚を遣って表を奉り方物を貢がせた。覚は迎鑾で周の戦艦が江津に並び今にも南渡しようとするのを見て大いに懼れ、本国に人を遣って「江を画して境とする」旨の表を取り寄せたいと請い、世宗はこれを許した。覚は頓首して謝し、属官の劉承遇を南に帰らせて報じ、江を境とし藩を称し正朔を奉る議はこれで決した。周も兵を引き、覚を帰して賜与も豊かだった。覚は出発に際して詩一章を献じて別れの情を述べ、金器百両を賜った。
  • はじめ覚らは徳明が割地を請うたのを売国として死に至らしめたのに、今や自分がそれを行ったのである。帰国後、兵部尚書で致仕した。
  • 覚はかつて周の世宗の言葉と称して元宗に「江南が命に背くのは宰相の謀りごとだと聞く。厳続を殺して私に謝すべきだ」と告げた。元宗は覚と厳続に旧怨があるのを知って疑った。先に鍾謨が周から帰ってしばしば覚らの罪は容せぬと言っていたので、謨が周に赴いて事実を確かめたいと請い、元宗は手ずからの表で自らの咎を述べ「続の罪ではない」と伝えさせた。世宗は表を見て大いに驚き、「厳続が命に背けるのなら忠臣である。朕は天下の主として、人に忠臣を殺せと教えるものか」と言った。謨が帰って具さに奏すると元宗は激怒した。斉邱が失脚すると、覚は国子博士に落として饒州に安置と決まり、その途上に使者を遣って誅された。
  • 覚の妻の李氏は嫉妬深く気の強いことで知られた。覚がすでに貴顕となっても自ら炊事をして妾を置かなかった。斉邱がかつて容姿の良い婢三人を与えた時も、李氏は嫌な顔をせず、三人に姑に対するような礼で仕え、朝夕そばを離れなかった。理由を問われると「これは令公(斉邱)の寵愛された人たちです。会えばまるで令公に会うようで、どうして無礼にできましょう」と答えた。三婢は落ち着かず帰らせてほしいと願い、覚はただ諾々と従うほかなかった。

李徴古

  • 李徴古は袁州宜春の人。昇元末に進士に及第した。宋斉邱とは姻戚の関わりがあり、斉王景達の宮官となった。斉邱が九華に帰隠して一年余り召されずにいた時、徴古はその僚属の謝仲宣を通じて景達に「斉邱は先帝の布衣時代からの旧交である。用いないにしても棄てるべきではない」と元宗に言わせた。斉邱が召されると、徴古は陳覚と朋党を結んだ。
  • やがて枢密副使に改まり覚とともに機密を掌り、いよいよ斉邱を担いで自らを固めた。元宗の前で議事する態度は横柄で人臣の礼がなかった。淮甸の敗戦で元宗が感慨のあまり涙を落とすと、徴古はつかつかと進んで「陛下、なぜ泣かれるのですか。酒が過ぎましたか、乳母が来ませんか」と言った。元宗は色を変え左右は震えたが、徴古は傲然と平然としていた。
  • また陳覚とともに元宗に迫って国事をすべて斉邱に委ねさせようとした。元宗は内心不平だったが、戦がまだ収まらず発するきっかけがなかった。江を画して兵を罷めた後、鍾謨が周から帰って尚書三省の事を判し、斉邱の党をことに憎み、常々「人臣が国を窺うのは道理として容せぬ」と言った。覚が周の世宗の命を偽って宰相の厳続を殺そうとした事件で覚と斉邱の党は敗れ、徴古は官爵を削られて洪州に置かれ、死を賜った。

魏岑

  • 魏岑、字は景山、鄆州須城の人。学に篤く記憶に強かったが文章は拙かった。四方を遊歴し、天下の山川の形勢や風土の善悪を知り尽くしていた。乱を避けて淮南に至り郡従事となったが久しく志を得ず、しばしば計策を宋斉邱に売り込み、その薦めで校書郎を授けられた。とりわけ諂諛に巧みで人の意を汲むのが上手だった。保大年間に急速に諫議大夫まで進んだ。
  • 元宗は自ら唐の子孫であるとして中原を平定し旧都を回復する志を抱き、有司が南郊の礼を行うよう請うと「天下が一つになってから天地に告げ謝そう」と言った。岑は陳覚・馮延巳・延魯らと唱和して境土の拡張を煽り、元宗に勧めた。侍宴の折、「臣は若い頃元城に遊んでその風物を楽しみました。陛下が長安に還られる日には、臣はひとり魏博節度使を頂きたい」と言い、元宗は喜んで許した。岑は階下に走り降りて再拝して謝したので、侍衞たちは皆ひそかに笑った。
  • 岑ははじめ覚と親しかったが、のち仲違いして覚を元宗に讒し、覚は少府監に左遷された。時に岑の腹は測り難いと言われた。まもなく覚が命を偽って兵を発し福州を攻めると、岑は漳州・泉州を安撫中だったが、覚の挙兵を聞いて手柄を独占されるのを恐れ、やはり勝手に兵を発して覚に合流した。元宗は勢いを止められず、岑を東南面応援使とし、馮延魯・王崇文および覚とともに四面から攻めさせた。互いに功を争って進退が噛み合わず、岑はことに軽率で功を焦り、自ら営壁を焼き兵を城に入れて福州の人に殲滅された。呉越の援兵が着き、延魯が戦って敗れ、諸軍はことごとく潰えた。
  • 元宗ははじめ軍法によって覚と延魯を誅し、岑は許そうとしたが、御史中丞の江文蔚が朝儀の場で弾奏し典法の適用を請うたので、岑は太子洗馬に貶せられ、まもなく旧官に復した。
  • 李守貞が漢に叛いて援軍を乞うと、岑は力めて出兵を請い、元宗は従って沿淮巡検使としたが、功なく帰り、屯田使に落とされた。のち入って兵部侍郎、枢密副使に拝せられ、いよいよ奸佞を極めた。当時、鍾謨・李徳明も権を用い、志向は岑と異なったが国を誤る点では同じだった。戸部員外郎の范沖敏は内心これに堪えず、大将の王建封をそそのかして三人を尽く逐うよう上疏させたが、元宗は怒って沖敏と建封を死罪に処した。岑は主上の眷顧を得たと思っていよいよ憚らなかった。
  • 清淮節度使の劉彦貞は厚く賄って岑を後ろ盾とし、岑の得るものはますます多くなった。ついに「彦貞の治兵治民は韓信・白起・龔遂・黄覇を一人にしたようだ」と言い放った。その欺きの大言はこの類が多い。ある日、突然、范沖敏の亡霊が見えたので、道士に章を上げて天に訴えさせたが、数か月でついに死んだ。

馮延巳の出自と登用

  • 馮延巳、一名は延嗣、字は正中、広陵の人。父の令頵は本郡に軍吏として仕え、烈祖が歙州塩鉄院判官に任じた。裨将の樊思藴が乱を起こして営を焼き、火が令頵の邸に及んだ時、叛卒たちは皆兵を捨てて消火にあたった。それほど人心を得ていた。当時の刺史の骨言が重病で、すでに死んだとの噂が立ち人心が動揺したが、延巳は十四歳で父の命により見舞いに入り、出て骨言の言葉として将吏を労ったので、外は落ち着いた。
  • 長じて文雅で知られ、白衣のまま烈祖に見えて秘書郎を授かった。元宗が呉王として元帥だった時、延巳を掌書記に用いた。陳覚と親しく、覚を通じて宋斉邱に付き、同じ府の位の高い者を策を用いて皆追い出したので、自分より上の者はいなくなった。元宗も彼が端正な士でないとかなり気づいていたが、遠ざけられなかった。
  • 延巳は才芸を恃んで朝士を侮った。かつて孫晟に「君に何の取り柄があって丞郎の位にいるのか」と言うと、晟は憤然として「私は山東の書生、鴻筆藻麗では十分の一も君に及ばず、諧謔と飲酒では百分の一も君に及ばず、諂佞と険詐では何度生まれ変わっても君に及ばぬ。しかし主上が君を王邸に置かれたのは、道をもって王を規正させるためで、声色狗馬の友にするためではない。私には何の取り柄もないが、君の取り柄はまさに国家を敗るに足りるものだ」と答え、延巳は恥じて答えられなかった。
  • 給事中の常夢錫はしばしば「延巳は小人で王のそばに置くべきでない」と言い、烈祖もその言に感じて斥けようとしたが、崩御して果たさなかった。元宗が立つと延巳は喜色を顔に出し、まだ政を聴かぬうちからしばしば入って事を白した。元宗は服喪中でこれを厭い、「書記には常の職分がある。他は各々有司があるのに、なぜそう煩わしいのか」と言い、少し止んだ。

宰相としての専権

  • 保大の初め、諫議大夫・翰林学士に拝せられ、戸部侍郎・翰林学士承旨に遷り、中書侍郎に進んだ。弟の延魯とともに魏岑・陳覚・査文徽と結んで政を損ない、時人は「五鬼」と呼んだ。保大四年(946年)に同平章事・集賢殿大学士、罷めて太子少傅。まもなく昭武軍節度使に除せられ、母の喪で去ったが起復されて冠軍大将軍、太弟太保に召され昭義軍節度使を領し、やがて左僕射同平章事となった。
  • 延巳はしばしば要職にあって、元宗がその奸を見抜けぬのを見透かし、「自分の才略は天下を経営するに余りある。人主が自ら庶務を見るなら大臣は位に備わるだけで、それで治まるはずがない」と考えた。果たして元宗は政を悉く委ね、事は奏せば可とされるだけになった。延巳はもと文芸で進んだ人で他に長がなく、綱紀は緩み胥吏が事を握り、軍事はすべて辺帥任せで可否を言わず、大言で衆を圧し人主を惑わせるばかりだった。
  • ついには烈祖が兵を収めたことを「せせこましく遠略がない」と嘲り、「安陸の敗で数千の兵を失っただけで、十日も食事も喉を通らず嘆いていた。あんな田舎爺に天下の事が成せるものか。今上は数万の兵を外に暴しながら宴楽も打毬もやめない。これぞ真の英雄の君だ」と言った。
  • 保大九年(951年)、湖南は平定されたが朗州の劉言が叛いて勢いが盛んになった。元宗も用兵の難しさを知り、延巳と孫晟に「湖湘の役は楚人が肩の荷を下ろしたいと願ったからで、出師はやむを得なかった。今、劉言に旄節を授けてその民を和ませれば、こちらも休養でき、衡湘の民も国もまずはよかろう」と語った。晟はただちに奉行しようとしたが、延巳は楚を克したのを自分の功としていたので、「本朝は偏師を出して一国を平らげ、天下を震わせた。今にわかに三分の二を棄てるのは威を傷つけ重みを損ない、天下に示す道でない。まして諸将は功を奏している最中だ」と押し切った。また軍費を内帑から出すのを嫌い、使者を長沙に遣って兵賦を取り立てたので、重ねて民心を失った。劉言はついに長沙を取って旧楚の地を尽く占め、周人も隙をうかがって動き、朝論は騒然となった。延巳は力めて辞任を求めたが、元宗の待遇は変わらなかった。
  • 周師が大挙して入り江北の地を尽く失って、ようやく延巳の相位が罷められて太子少傅となったが、数か月で再び相となり、病により太子太傅に改まった。建隆元年(960年)五月乙丑に卒、五十八歳(一説に五十七)、諡は忠肅。

詞人としての一面と晩節

  • 延巳は詩をよくし、貴顕となり老いてもやめなかった。「宮瓦数行の暁日、龍旗百尺の春風」の句などは、識者が元和の詞人の気格があると評した。とくに楽府詞を好んだ。
  • 元宗はかつて内殿の宴で「『吹皺一池春水』は、卿に何の関わりがあるのか」とからかい、延巳は「陛下の『小楼吹徹玉笙寒』の妙には及びません」と答えた。当時は敗戦続きで支えきれず、敵に稽首して臣と称し歳月を偸安していたのに、君臣の戯れはこの通りだった。
  • 延巳は宰相となってから私情に流れることが多く、旧友や親戚とはほとんど交わりを絶った。弟の延魯とは同じく斉邱の党でありながら内心は仇のように忌み合い、延魯の生母は延巳の継母であったが、これとも疎遠だった。
  • 晩年はやや自ら努めて寛恕になった。蕭儼はかつて朝廷で延巳の罪を面罵したが、儼が大理卿として軍吏李甲の妻の獄を誤って死罪に落とし、議者が皆死に当たるとした時、延巳だけは「儼は正卿として誤って一婦人を殺したので死に当たるというなら、今、諸君が正卿を殺せと議して、他日その責めは誰が負うのか」と公言し、「儼はもとより直言の名があり、その罪はすでに赦を経ている、寛大にすべきだ」と建議した。儼は死を免れ、人々はこれを是とし、裴冕が怨みを捨てた例もこれに勝るまいと評した。

馮延魯の出自と福州の敗戦

  • 馮延魯、字は叔文、一名は謐、延巳の異母弟である。若くして才名があり、烈祖の時に延巳とともに元帥府に仕えた。元宗が立つと礼部員外郎から中書舎人・勤政殿学士となった。江州観察使の杜昌業はこれを聞いて「国境が多難な時、賢才を御するにはまず爵禄をもってすべきだ。延魯は一言が意にかなっただけで高位に置かれた。後に大功を立てる者は何の官で賞するのか」と嘆じた。しかし元宗はその才を愛して不当な抜擢とは思わなかった。
  • ある内宴で宝器に龍脳数斤を盛って群臣に賜った時、延魯は「臣は陳平に倣って均分いたしましょう」と言い、行き渡ってなお半分残ると、「勅して録事の馮延魯に賜う」と言って拝舞して懐に入れたので、元宗は喜んで笑い、宴を終えた。
  • 延魯は進取に鋭く、常に四方で事を行って功名を得ようとした。延巳が「勤めて職に精励すれば栄光は自ずと来る。なぜ危険を冒して禄利を図るのか」と詰ると、延魯は「私は兄のように、おとなしく年功を積んで宰相になるような真似はできません」と答えた。
  • 保大年間、出兵して建州を平らげた時に監軍使となった。諸将が勝ちに乗じて福州を取ろうとし、枢密使の陳覚は功を独占しようと宣慰の使命を願い出て李弘義を召したが、会っても言い出せず、劍州まで戻って詔を偽り辺兵を起こし延魯に率いさせた。元宗は覚の専断に怒ったがすでに動いていたので、延魯を南面監軍使とし、覚・王崇文・魏岑とともに福州を攻めて外郛を取った。
  • 呉越の将余安の援兵が海路から白蝦浦に着き、舟を捨てようとしたが泥濘で進めず、竹の簀を敷いて上陸しようとした。延魯の軍が集中して射かけ、舟人の楯は矢で針鼠のようになった。延魯は「弘義が降らぬのはこの援軍を恃むからだ。わが軍を少し退けて呉越兵を平地に上げ、そこで全滅させれば城はすぐ降る」と言った。裨将の孟堅は「援兵はすでに死地にある。力を尽くして戦えば勝敗は分からない」と諫めたが、延魯は聴かなかった。ほどなく呉越兵は岸に上がり、鼓を鳴らし躍り上がって前進し、城中と挟撃した。延魯は敗走し、孟堅は戦死、諸軍は大潰して死者は万を数え、軍需・武器数十万を失い、国庫は空しくなった。延魯は佩刀で自刺しようとしたが人に救われた。
  • 朝廷は軍中で延魯と覚を斬ることを議し、すでに命が下っていたが、宋斉邱がかつて覚を福州に薦めた咎を引いて力めて解いたので、詔して延魯と覚を械につないで金陵に帰し、吏に付して流罪にとどめた。延魯は舒州に流された。福州から着いた時は五木の枷を厳重にはめられており、延巳は「弟が年功を積む宰相を嫌ったあげく、ここまで落ちたか」と嘆じた。兄弟はこれで隙ができた。

東都の陥落と周・宋での応対

  • 赦に遭って少府監に復した。元宗が廷臣を巡撫使として諸州を按じさせた時、延魯もその中にいた。右拾遺の徐鍇が「罪が多く才もなく、派遣に値しない」と上疏したが聴かれなかった。帰って中書舎人に遷り、工部侍郎として東都副留守に出た。
  • 周師の南侵で兵を分けて東都が下されると、延魯は窮して自ら髪を剃り僧衣を着て逃げたが捕らえられた。時人は「符節を執って大軍の帥となりながら、墨衣に剃髪して行脚の僧に成り下がった」と嘲った。
  • 周の世宗は釈放して衣冠を賜り給事中を授けた。江南の事を問われると詳明に答え、賜与も厚かった。大梁に留まること数年、刑部侍郎に遷り、帰国を許されて戸部尚書となった。
  • 宋が興り、周の淮南節度使李重進が挙兵して宋の太祖が自ら平定した時、元宗は延魯を行在に遣わした。太祖は兵威に乗じて南渡しようとし、旌旗・戈甲を江津に並べ、厳しい顔で「お前の国はなぜ我が叛臣と通じたのか」と詰った。延魯は顔色を変えず、「陛下は通謀のことだけをご存じで、詳細をご存じない。重進の使者は臣の家に泊まり、国主は臣に問い詰めさせて『大軍が北征している時に反かず、今、内外無事の時に数千の烏合の衆で天下の精兵に当たろうというのか。私が助けられると思うか』と言わせたのです」と徐かに答えた。太祖は延魯が恐懼して取り乱すと思っていたので、大いに喜んだ。さらに「諸将は渡江を力請している。卿はどう思う」と問うと、延魯は「重進は自ら雄傑で敵なしと称しましたが、神武の兵が臨めば踵を返す間もなく敗れました。まして小国が天威に抗えましょうか。ただ懸念もあります。本国の侍衞数万は皆先王の親兵で死生を共にする誓いがあり、降る道理がありません。大国は必ず数万の人を損なうでしょう。まして大江は天塹、風濤は定まらず、城を攻めて落ちず糧道が続かなければ、事は虞るべきです」と答えた。太祖は大笑して「朕はもともと卿と戯れただけだ。どうして卿の遊説を聴こうか」と言った。
  • 折しも重進の叛卒を捕らえて日に数十人を殺していたので、延魯は奏事のついでに「叛いたのは重進一人でしょうか、衆人でしょうか。衆人だとすれば、陛下は天に応じ人に順って立たれたのにそんな道理はありません。重進一人ならば、脅されて従った者に何の罪がありましょう」と述べ、太祖は感悟して以後は誅さなかった。厚く賜って延魯を帰し、渡江の議もこれで止んだ。
  • 後主が嗣位すると、延魯は使命を果たした功を誇った。内殿の宴で後主が自ら酒を注いだが、飲み干さず、詩を誦し琴を索めて自ら弾いて勧めても平然としていた。後主は寛容に咎めなかった。
  • 建隆三年(962年)に宋へ入貢し、舒州の田宅を請うて詔で賜った。のち楚国公従善が宋に朝して旄節を授けられ闕下に留められたので、後主は延魯を遣って謝させたが、病を発して朝することができなかった。太祖はもとより厚遇していたのでいっそう憐れみ、使者に太医を付けて看護させ、金陵に帰らせた。家で卒した。
  • 子の僎は韓熙載の知貢挙で及第したが覆試で落とされた。のち弟の侃・儀・价・伉とともに宋に入り、相次いで名第を取り、南唐の公卿の家でこれに及ぶ者はなかった。
  • 延魯は内心は競い心が強いのに、口では高踏隠退を語った。かつて早朝、集漏舎で「玄宗は賀知章に鏡湖三百里を賜った。私はそれを望むわけではないが、後湖の数曲でも賜れば素志が遂げられる」と嘆いた。徐鉉は笑って「主上が近臣に玄武湖一つを惜しむものですか。ただ知章がいないのが残念で」と答え、延魯は黙り込んだ。

査文徽の出自と度量

  • 査文徽、字は光慎、歙州休寧の人。幼くして学を好み自ら刻苦し、経史数百巻を手写した。やや長じて気概と侠気を好み、人が困窮していると聞けば面識がなくても救った。家はもと富裕だったが、これで窮乏しても悔いなかった。
  • ある人が金帛を贈った夜、盗が家に入って尽く持ち去ったが、文徽は口外せず隣里も知らなかった。久しくして盗が隣邑で捕まり、文書で照会されてはじめて人は知り、皆その度量を称えた。
  • 烈祖が輔政の初めに謁見すると、召して語り、その議論を偉とした。宋斉邱も薦めた。徐知諤が浙西の節鎮を領すると文徽を判官とした。ある人が玉杯を献じ、知諤は喜んで銭百万を与え、急いで宴を開いて杯を回して酒を勧めたが、文徽の番で誤って落として砕けた。一座は驚いたが文徽は平然としていた。
  • 烈祖が禅を受けると入って監察御史、元宗が立つと諫議大夫・中書舎人に改まり、枢密副使に遷った。

閩の攻略と福州での捕縛

  • 閩主の延羲とその兄延政が攻め合い、延政は建州で建国して殷と称し、延羲は将の朱文進に殺された。元宗が文進を討とうとすると、文徽は「延政こそ乱の首謀だから先に討つべきだ」と主張した。翰林待詔の臧循は文徽と同郷で、若い頃に商人として閩に入り山川の険易を熟知していたので、進兵の策を陳べた。文徽はもと兵を語るのを好み、自ら赴くことを請うた。
  • 元宗は江西安撫使とし、境上に至って可否を見定めさせた。文徽は成功を焦り、上饒に至ると「必ず克てる」と復命した。詔で洪州の屯兵を発し、辺鎬を将として文徽に従わせ建州を攻めた。建州の人は王氏の乱に飽いていたので木を伐り道を開いて迎えた。葢竹まで進んだところで建州兵に遭遇し、また泉・漳・汀州が皆延政に帰したと聞いて恐れ、退いて建陽を保った。臧循も別将として邵武に屯していたが、延政に襲われて破られ、捕らえられて建州で斬られ、軍声は大いに挫けた。
  • 元宗が何敬洙らを援軍に遣わし、敬洙と鎬が建州兵と対峙する中、文徽は建州の降将孟堅を得て、密かに兵を回して背後から撃たせ、建州兵は大敗して潰え、ついにその城を落とした。建州は下ったものの諸軍に規律がなく殺掠を禁じなかったので、民ははじめて失望し叛心を抱いた。元宗は知りながら問わず、功を策して撫州観察使に遷し、さらに永安軍留後に拝した。これで文徽はいよいよ独断に走った。
  • 保大八年(950年)、呉越が偽って間諜を送り「福州が乱れた」と告げた。文徽は喜んで劍州刺史の陳誨を赴かせ、誨は舟師で福州城下に至って敵兵を破り、呉越の将馬先進ら三人を捕らえた。しばらくして文徽が歩騎を率いて到ると、呉越の知威武軍呉程は数百人を出して迎えるふりをし、西門に伏兵を置いて待った。誨は速やかに進むべきでないと言ったが、文徽は「疑えば変が生じる」と令を伝えてまっすぐ入城し、伏兵に落ちて大敗、落馬して捕らえられ杭州に送られた。将士の死者は万人にのぼった。
  • 元宗は使者を遣って先進を呉越に返し、文徽の返還を求めた。呉越の忠懿王は帰したが、出発にあたって酒に毒を入れた。金陵に帰り着いて毒が発し、元宗が医に診させると、医は珠を口に入れ、しばらくして珠の色が黒く変わり、「病は治せない、しかし十年は生きる」と言った。文徽は口がきけなくなり、工部尚書で致仕した。朱元が北に降ると、その親党であったことに連坐して宣州に安置され、七十歳で卒した。毒に遇った年からちょうど十年だった。諡は宣。
  • 文徽ははじめ陳覚と親しく、覚を通じて宋斉邱に付き、互いに引き立て合ううちに柔媚と便佞を習い、人主の信任を取り、斉邱らと死党を結んだ。元宗が嗣位した当初、斉王に庶政を総べさせ、文徽と魏岑だけが言事できるとした詔には朝廷中が驚愕したが、文徽は平然として辞退しなかった。その恣肆はこの通りだった。子は五人、元方・元規・元素・元範・元賞。

査元方

  • 元方は後主に仕えて水部員外郎、吉王従謙が招いて掌書記とした。従謙が宋に朝した時、太祖は知制誥の盧多遜に館で従謙をもてなさせた。多遜は碁を打ちながら元方を顧みて「江南は結局どうなのだ」と問うた。元方は襟を正して「江南は大朝に仕えて十余年、君臣の礼を尽くしております。他のことは存じません」と答えた。多遜は碁盤を押しやり恥じ入って「江南に人なしと言うまい」と謝した。
  • 帰国して建州通判となった。盧絳が歙州に拠って檄を建州に送ると、元方はただちにその使者を斬った。絳が平定された後、宋の太祖は元方の所業を聞いて大いに喜び、殿中侍御史に抜擢し、知泉州として在官のまま卒した。

史論

  • 陳覚ら六人はみな宋斉邱の党である。中外に蟠踞して交互に権柄を握り、ついに正しい人々と仇敵となり、兵乱と禍が絶えなかった。かつて唐では牛・李の両党が国是を揺るがしたが、小さな江南が遠略に努めず、なおその轍を踏んだ。国はそれとともに亡んだ。ああ、悲しいことではないか。

鍾謨の出自と対周交渉

  • 鍾謨、字は仲益、先祖は会稽の人で閩の崇安に移った。のち金陵に仮寓した。博学で文を綴ることができ、元宗の朝で翰林学士、戸部侍郎に進んだ。
  • 保大年間、周師が南侵して淮右が危急となると、元宗は謨と李徳明を軍前に遣わして表を奉り、御服・金銀器・茶薬および牛酒を献じて軍を犒い、兵を息めて修好するよう請うた。周の世宗は許さず、次いで濠・寿など六州を献じて和を求めたが、これも納れられなかった。謨は徳明を帰らせて表を取らせ、淮甸十四州の地を尽く献じて附庸となると申し出、世宗はようやく許した。徳明が帰って白すと朝議は売国とし、元宗は怒って徳明を斬り、以後、割地の議は絶えた。謨は周に留められて帰れなかった。

周での厚遇と帰国後の専横

  • 孫晟が誅された時、謨も召しの中にいたが、まもなく耀州司馬に貶せられた。のち元宗が地を割いて臣を称し、謨と徳明が当初議したとおりになると、世宗は謨を汴に召して衞尉少卿を授け、黄金五百両を賜り、元宗への使者として趣旨を伝えさせ、四度も往復した。
  • 謨は矜り高ぶり、周の世宗が自分の言を聴くから江左は安泰だと思い、元宗もその力を頼んだので、内心は憾みつつ待遇は厚く、礼部侍郎とした。謨は宋斉邱・陳覚・李徴古の乱政の罪を極言し、三人はこれによって皆失脚した。また徳明の冤を雪ぐよう請い、贈官と諡が与えられた。
  • 翌年、周に入貢して世宗の前で詩を賦し「帰り去りて老いたる陪臣たらん」の句があり、元宗は聞いて憎んだ。世宗はかつて「江南は近ごろ守備を修めているか」と問い、謨は「大国に恭順している以上、どうしてそんなことをいたしましょう」と答えた。世宗は「そうではない。朕と汝の国は大義がすでに定まり、他事の憂いはない。しかし後世のことは分からぬ。朕の代のうちに城隍を修め要害を治め、子孫のために計るがよい」と言った。謨が帰って伝えると、金陵の城壁を修繕させ、謨に尚書省の事を判させたので、三省の事で謨が関わらぬものはなくなった。当時、文献太子が庶政に参与しており、謨は食客の閻式を司議郎に薦め、百司の関啓は必ず彼を経るようになり、勢いは赫々として人々は切歯した。

失脚と最期

  • まもなく周の世宗が崩じ、謨は頼るものを失って呆然とし、元宗の待遇も次第に薄くなった。左軍都虞候の張巒は謨と親しく、来るたびに人払いして語り合い夜半に及ぶこともあり、また巒に帳下の兵で都城を巡らせるよう請うた。
  • 給事中の唐鎬は謨と隙があり、謨と巒が結んでいる状を掴み、密かに「謨は両国を往来し周人を笠に着て朝廷を脅している。今また兵を握る者と密かに結び、都下の巡邏を請うた。その心は測り難い」と言上した。謨はこれをかすかに聞き知り、何か手土産をと考えていたところ、文献太子が薨じた。後主が嫡弟として立つべきところ、謨はかつて元宗の愛子従善とともに周に使いして親しかったので、「後主は器が軽く志が放縦で人君の度量がない」と上言し、従善の才を盛んに称えて立太子の意を示した。元宗はすでに意を決していたうえ、これで意に逆らったので、張巒と結んだ罪を暴かれ、国子司業に貶せられ、さらに著作佐郎に落として饒州に安置され、中使と侍衞軍十人を遣ってその日のうちに出発を促された。
  • 謨はその時、風眩を病んでおり、道中で詩十章を賦し、語はきわめて悽惨だった。宣州副使にさらに改貶された。建隆元年(960年)正月、宋が周から禅を受け、元宗はこれを聞いて使者を遣って所在地で死を賜った。謨が望拝して「臣は国に背いておりません」と言うと、使者は「詔に問う。かつて孫晟とともに周に使いして、晟は死んだのに卿だけが官を得、ついに生きて帰れたのはなぜか」と言った。謨は再び拝して「臣は命を承りました」と言い、縊られた。張巒も連坐して誅された。
  • 謨は古碑を好み、中原に使いした折には道端の碑碣を見るたび馬を止めて見た。かつて大きな碑が半ば水に没しているのを見つけると、喜んで衣を解き、手で撫でて黙読し記憶した。後日、水が涸れてから記録した本と照合しても一字も違わなかった。その豪放さはこの通りだった。謨には娘があり、家の禍に感じて嫁がず、孔子・老子の書に博通しとくに講説をよくし、のち洞真宮の女道士となって守一と名乗った。

李徳明

  • 李徳明は家世が分からない。落魄していたが大節を負い、応対に敏かった。はじめ兵部員外郎となり、鍾謨と同時に仕えて親しかった。元宗はきわめて重んじ愛したが、徳明も謨も生来浮薄で自らを衒い、変わり身が早く険しかったので、朝士は目をそばめて「鍾李」と呼んだ。軍帥の王建封が徳明・謨らを詆って殺されると、二人はいよいよ放縦になり傍若無人だった。徳明はかつて別殿で奏事した折、元宗の御筆を取って事を記したので、元宗は堪えかねて「卿も他日、自分の筆を持って来られるようになるだろう」と言ったが、徳明は平然としていた。保大年間、工部侍郎・文理院学士に遷った。
  • 周の世宗の南侵にあたり、元宗ははじめ泗州牙将の王承朗に書を持たせて徐州に至らせ、周を兄として仕え毎年財貨を輸して軍費を助けたいと請うたが、世宗は答えなかった。そこで徳明を謨の副として軍前に遣わし、御服・金銀器・繒錦および牛酒を献じて軍を犒い、臣を称して正朔を奉りたいと請わせた。
  • 世宗は二人が弁舌に長け遊説して和を図ろうとしていると知り、大いに兵衞を陳ね戈戟を並べて引見し、厳しい顔で言った。「お前の主はもと唐室の後裔なのだから礼義を知るはずで、他国とは違うだろう。朕とは一水を隔てるだけなのに、一度も使者を通わさず、ただ海を渡って契丹と通じている。これが何の礼か。しかもお前たちは朕を説いて兵を罷めさせようというのか。朕は六国の愚かな君主ではない。口舌で動かせるものか。帰って主に言え、早く来て朕に見え再拝して謝せば事は済む。さもなくば朕は金陵城を見物し、府庫を借りて軍を労おう。お前の君臣は後悔せぬか」と。徳明と謨は震えて何も言えず、ただ「わが君は天威を畏れ、濠・寿・泗・楚・光・海の六州を献じ、さらに金帛百万を輸したいと申しております」と答えた。
  • 世宗は江北の地を尽く得るつもりで止まらなかった。徳明は兵勢が日ごとに加わり国事が支えきれぬと見て、謨と議を定め、帰国して本国の表を取り、江北の地を尽く周に割譲して江を境とすることを請い、世宗ははじめて許して徳明と王崇質を帰した。崇質は孫晟に続いて周に使いした者である。
  • 周は書を送って江南の君臣を諭したが、言葉に嘲りと侮りが多く、国中はすでに堪えかねていた。そこへ徳明が周主の威徳を盛んに称え、必ず割地すべきだと請い、崇質は宋斉邱にそそのかされて徳明と異なる言をした。陳覚らは元宗を激怒させて言った。「徳明は命を銜んで使いしながら国威を伸ばすことも隣好を斡旋することもできず、かえって敵に内情を漏らして国の弱さを宣伝し、屏蔽を尽く棄て要害を坐して捐てよと請うている。売国である」と。徳明は狭量で、衆に排斥されたと知って袖をまくり「周師は必ず勝つ」と大言した。元宗は激怒し、詔して徳明を都の市で斬り、妻子を外郡に流した。のち謨が北から帰って徳明の冤を糺し、誣告した者の罪を問うよう請い、斉邱らが皆誅殺されるに至って、徳明に光禄卿を贈り、諡を忠とした。