生涯
- 喬匡舜、字は亜元、高郵の人である。弱冠にして文章を作ることができ、典贍(学識豊かで文章が充実している)と称された。烈祖が呉を輔佐していた時、秘書省正字に用いられた。開国に及んで、宋斉邱が招いて幕中に置くこと十余年、大理評事・屯田員外郎を歴任した。斉邱は人が自分に諛うことを喜んだが、匡舜は特に真率(正直)であったので、その文芸を賞したとはいえ、いまだかつて薦拔することはなかった。烈祖だけがこれを知っており、常に公卿に親民(民を治める職)に足る者を挙げるよう詔した際、斉邱がまさに匡舜を挙げるだろうと思っていたが、奏上には結局及ばなかった。烈祖は喟然として常夢錫に言った、「私は斉邱が匡舜を捨てるとは思わなかった」と。夢錫は韓熙載とともにもとより斉邱を憎んでおり、常に語り合って「宋公が亜元を知りながら誤った、まことに怪しむべきことだ」と言った。
- しばらくして斉邱が洪州に出鎮すると、初めて表して節度掌書記とした。保大中、召されて駕部郎中・知制誥・中書舎人となった。周が淮南を侵した時、諸将は功が無く、元宗は自ら六軍を率いてこれを拒もうと議したが、匡舜は切諫した。元宗は怒り、国計を沮み人心を動かしたことに坐して撫州に流した。しかし結局自ら親征することはできなかった。
- 後主が嗣位すると、再び起用されて司農少卿となり、殿中監修国史・給事中兼献納使を歴任し、知貢挙となって楽史ら五人を及第させたが、多くは名塲(科挙の場)に滞っていた者たちであり、時に人を得たと称された。しかし少年軽薄の子はこれを嘲って「陳橘皮牓」と呼んだ。刑部侍郎に遷り、老病のため骸骨を乞うた。後主はその貧しさを憐れみ、終身俸を給した。開宝五年(972年CE)に卒した。享年七十五。諡して貞と言った。