十国春秋卷二十五 南唐十一 張泌

要約

張泌は元宗・後主の父子に仕えた句容県尉で、建隆二年七月、国事の日に非なることを憤り、後主に数千言に及ぶ上書をした。唐の帝統が中ごろ塞がり、烈祖がこれを継承発展させたものの大業は成らず、元宗もまた在位が短かったことを述べ、唐の祚を継ぐのは後主をおいて他にないと励ました。そのうえで、漢の文帝が高祖の後を承け、子弟や将相の力を借りつつ即位後は戒慎謙譲・自ら節約に努め、賢良を挙げ諫言を容れて刑罰をほとんど用いぬ治を成した故事を詳しく説き、今の南唐は大兵の後で国用が窮乏し民力も疲弊しているのに文帝ほどの佐がいないと指摘し、危うさを訴えた。

君道を行うこと、臣の職分を明確にすること、賞罰を明らかにすること、名器を慎んで権威の濫用を防ぐこと、忠良を選ぶこと、賦役を均しくすること、諫諍を納れること、讒佞を遠ざけること、倹約に努めること、旧好を固めることなど十箇条の急務を挙げ、『詩経』『書経』『易経』を引いて安きに居りては危うきを慮るべきだと諭した。後主は書を見て大いに悦び、優詔を下して丁重に応えたが、結局その言を用いることはできず、南唐はついに滅亡に至った。

現代語訳全文

後主への上書

  • 張泌は元宗・後主の父子に事え、官は句容県尉であった。建隆二年(961年CE)七月、国事の日に非なることを憤り、後主に上書し、ほぼ数千言に及んだ。その概略に言う。
  • 我が大唐が天下を有つに至ったのは、功を高祖より造り、太宗において重ねて熙(さかん)とし、聖子神孫が三百年を歴て、丕祚(大いなる帝位)は中ごろ否(塞)がりました。烈祖はこれを紹興(継承発展)されましたが、大勲は未だ集(成就)せず、我が大行(先帝元宗)がこれを嗣がれ、その徳は休明(美しく明らか)でありながら降年(在位の年数)は永くありませんでした。唐の祚を襲うのは陛下でなくて誰でありましょうか。
  • 臣が聞くところ、昔、漢の文帝は高祖の後を承け、天下一家となってすでに三十年、徳教が物に被うこと久しくありました。しかもまた子弟を封建し将相を委任して用い、朱虚侯・東牟侯の力、陳平・周勃の謀、宋昌の忠、諸侯の助けを合わせ、中子(庶出の子)でありながら入って立ちました。正と謂うべきでしょう。即位するに及んでは、戒慎謙譲し、政事に服勤し、自ら節約を行い、治平を思い、賢良を挙げ、鰥寡を賑わし、収帑相坐の法(罪人の家族への連座の法)を除き、誹謗妖言の令を去り、得難い貨を貴ばず、無益の費えを作りませんでした。その己を屈して人を愛することはこのようでした。晁錯・賈誼・賈山・馮唐の徒はなお上書し進諫する言葉は必ず激切で、痛哭流涕するに至るものでしたが、それは「初め有らざるは靡(な)く、克く終わり有ること鮮し」ことを懼れたからです。しかし文帝は優容してこれに逆らわず、聖徳は充塞し、ほとんど刑措(刑罰を用いない)に至りました。
  • 今、陛下は数年の大兵の後に当たり、隣封(隣国)は利を襲う日にあり、国用は匱竭し、民力は疲労し、野には劉章・劉興居のような人が無く、朝には絳侯(周勃)・曲逆(陳平)のような佐が無く、危ういと言うべきでしょう。仮に漢の文帝の才をもってしても、今日の勢いに処すれば、どうして寒心し志を消すだけで済むでしょうか。
  • 臣が思うに、国家の今日の急務は、一に簡大(大要)を挙げて君道を行うこと、二に繁小を略して臣職を責めること、三に賞罰を明らかにして勧善懲悪を彰らかにすること、四に名器を慎んで作威擅権を杜ぐこと、五に言行を詢ねて忠良を択ぶこと、六に賦役を均しくして黎庶を恤むこと、七に諫諍を納れて正直を容れること、八に毀誉を究めて讒佞を遠ざけること、九に用を節して克倹を行うこと、十に己に克って旧好を固めることにあります。また先代の治乱を審らかにし、前載(過去の記録)の襃貶を考え、纎芥(わずか)の悪も必ず去り、毫釐(わずか)の善も必ず為すべきです。密(時宜)に取与の機を察し、寛猛の政を済(調和)し、経学の士を進め掊克(搾取)の吏を退け、邇言(身近な言葉)を察して視聴を広げ、下問を好んで閉塞を開き、無用の物を斥け不急の務めを罷めるべきです。これで治まらないというなら、臣は信じません。
  • 『詩経』に言う、「之を敬い之を敬え、天は維(こ)れ顕なり」と。『書経』に言う、「虞(うれい)無きを儆戒し、法度を失うこと罔(な)かれ」と。『易経』に言う、「其れ亡びん其れ亡びんとして、苞桑(茂った桑の根)に繋る」と。これは、人に君たる者は必ず天の明威を懼れ、古の令典に遵い、事を作すには始めを謀り、安きに居りては危うきを慮るべきことを言うものです。
  • 臣が観ますに、今日、下民が陛下の治を致されることを期待するのは、百穀が膏雨を仰ぐようなものです。願わくば陛下、努めてこれを行われ、文帝をして漢に専ら美をほしいままにさせることのないようにされますよう。臣は死罪死罪、謹んで言上いたします。
  • 後主は書を見て大いに悦び、優詔を下して慰答したが、しかし結局その言を用いることはできず、ついに亡国に至った。