生涯
- 歐陽廣は吉州吉水の人である。保大中、湖湘に薄游(遊学)していた時、辺鎬が湖南を下し、さらに桂州を取ろうとしていた。広はその必ず敗れることを策し、闕に詣でて上書して言った、「臣は近ごろ潭州に遊び、伏して見ますに、節度使辺鎬はもとより将材ではなく、たまたま聖代に逢って任使を加えられただけです。措置は乖剌(食い違い)で大いに人心を失い、奉節の兵士が夜に乗じて大声を上げ共に譙門を焼き、夜が明けると遁散するに至りました。そうでなければほとんど大変を致していたことでしょう。これは仁が下を恵むに足りないのです。朗陵は近く肘腋(すぐそば)にあるのに、かつて虞(用心)を為さず、桂林を図って奔走を取ろうとしています。これは智が遠くを謀るに足りないのです。監軍使昌延恭とは相協和せず、動けばたちまち疑阻します。これは義が衆を和するに足りないのです。堂々たる幕府は空しく才賢がありません。これは礼が士を得るに足りないのです。軍中の号令は朝に出て暮に更わります。これは信が人を使うに足りないのです。この五つに一つも長ずるところが無ければ、これを前古に考えるに、いまだ敗れなかったことはありません。どうか帥を選んで師を済い境土を全うされますよう」と。
- 書は入れられたが省みられなかった。湖南を失うに及んで、元宗は広の言を思い、官を授けるよう命じた。執政は広を召して試すことを請うたが、広は「これは人主が賢を尊び士を待つ意ではない」と言って試験に就くことを肯じなかった。そこで本県の令を授けられた。後もまた顕れなかった。