十国春秋卷二十四 南唐十 李平
要約
李平は本名を楊訥といい、若くして嵩山の道士となり、汝陰の舒元(後の朱元)と学問を共にした。ともに蒲中に遊んで河中節度使李守貞の食客となり、守貞が漢に叛くと密かに金陵へ援軍を乞う使者となったが、境を出たばかりで守貞は死に復命の道を失った。元宗の厚遇を受けてそのまま南唐に留まり、自ら李平と名乗って仕えた。呉越の常州侵攻の際は将たることを固辞して衛尉少卿に遷り、蕲州の刺史ともなった。朱元の叛乱後は使者の誤解から一時手枷をかけられ都に送られたが、元宗に慰撫され永安軍節度使・衛尉卿を歴任した。
道士出身の神仙・鬼神の説を好み、老荘を好む潘佑と親交を結んで互いを推挙し合い、佑の亡父がすでに仙官となり佑自身も仙籍に名があるなどと語って深く信を得た。後主の時、井田法の復活や牛籍の作成、民に桑を植えさせる課税など復古的な政策を上書して一時は喜ばれ実施されたが、段階を踏まぬ性急な施策で人々に不便とされ後主も後悔して中途で廃止した。佑が多くの公卿を非難する一方で李平のみを大用すべきと薦めたため群議の反感を買い、佑が直諫で罪を得ると共に淫祀鬼神の罪に問われて大理の獄に繋がれ、獄中で縊死した。妻子は虔州に流されたが翌年家が赦されて廩給を給された。
現代語訳全文
出自と河中の使命
- 李平は本名を楊訥と言う。少年時代、嵩山の道士となり、汝陰の布衣(無官の人)舒元とともに数年学問を共にし、業を成した。ともに蒲中に遊び、河中節度使李守貞の食客となった。守貞が漢に叛くと、両人に表を懐に密行させて金陵に援軍を乞わせた。元宗は数万の兵を出してこれを声援としたが、境を出たばかりで守貞は死に、両人は復命する所が無くなった。
- 元宗が厚くこれをもてなしたので、そのまま留まって元宗に事えた。訥は初めて自ら李平と称し、元もまた姓を朱に易えた。両人ともに尚書郎とされた。
軍務と刺史時代
- 呉越が常州に侵攻した時、平は自ら武略があると言い、そこで将としたが固辞した。衛尉少卿に遷され、偏師を領して江北を巡らせた。周の兵が蕲州を取ったが有(保持)することができず、また棄てて帰った。そこで平を刺史とした。
- 朱元が叛くと、元宗は平が本来朱元とともに来たことから、その自ら安んじられないことを慮って都に召還したが、使者が意を誤解し、平を械(手枷)につけて帰った。元宗は大いに驚いてこれを慰勉し、永安軍節度使に拝した。召して衛尉卿とした。
潘佑との交わりと井田法建策・末路
- 初め潘佑は老荘を好んだが、平は道士であった時に神仙修養の説を習っており、行動は怪しく妄なことが多く、常に仙人・神鬼と通接すると言っていた。佑はこれによって平と交遊しかつ好交した。平はまた次第に佑の父処常が今すでに仙官となっており、佑自身もまた名が仙籍にあると言った。家に静室を置き、人はこれを窺うことができなかった。
- 後主の時、佑がすでに用いられていたが、平もまた上書して井田法の復活を請い、豪民で貧戸の田を買った者には強制してこれを還させた。また周礼にもとづいて民籍を造り、さらに牛籍を造り、民に桑を植えることを課した。後主はもと古を好み農を務めたので、その言を甚く喜び、司農寺を判せしめた。平は成功を急ぎ、施設(政策実施)には漸(段階)が無く、人々はこれを不便とした。後主もまた中途で後悔してこれを罷めた。
- しかし佑は一時の公卿をあまねく詆り、平だけを大用に足ると薦め、判司会府とすることを請うたので、羣議はますます平を不服とした。折しも佑が直諫によって罪を得たので、平とともに淫祀鬼神の事に坐せられ、平は大理の獄に繋がれ、獄中で縊死した。妻子は虔州に徙され、翌年その家が宥されて廩給を給された。