十国春秋卷二十四 南唐十 林仁肇

要約

林仁肇は建陽の出身で、身に虎の文身を持つ剛毅な人物であり、閩に仕えて猛将「林虎子」と称された。閩の滅亡後は帰属先を失ったが、周の淮南侵攻に際して潘承祐に推薦され、寿州救援や濠州水柵攻撃で戦功を挙げた。正陽の浮橋を焼こうとした戦いでは一時敗れながらも独り殿軍を務め、周将張永徳の追撃を弓で撃ち落とし続け、その武勇を「敵に人物あり」と惜しまれて見逃された。講和が成ると節度使を歴任した。

開宝年間、宋が李重進の乱を平定した隙に乗じ、仁肇は数万の兵を借りて淮南を奪還する策を後主に献じ、事が成らなければ自ら叛いたことにして一族を滅ぼしてもよいという覚悟まで示したが、後主は妄言だと驚いて退けた。仁肇は士卒と衣食を同じくして厚い人望を集めたが、皇甫継勲や朱令贇と不和であったため、宋に通じて江西に自立を図っていると讒言された。宋の太祖は仁肇の名望を恐れ、その肖像を密かに盗ませて南唐からの投降を装う反間の計を仕掛けた。後主はこれを信じて密かに仁肇を毒殺させ、もとより持病のあった仁肇はまもなく死去した。かねて仁肇に厚く目をかけていた陳喬はその死を聞いて深く嘆息した。史論は林仁肇を閩の旧将のなかでもっとも不遇な忠臣とし、皇甫暉と並べて評している。

現代語訳全文

出自と閩での経歴

  • 林仁肇は建陽の人である。剛毅で力があり、身長は六尺余、容貌は堂々として偉岸としていた。身に虎の形を文身し、閩に事えて裨将となり、陳鉄と斉名し、軍中では「林虎子」と呼ばれた。閩が亡んだ後は未だ帰属する所が無かった。

淮南攻防での戦功

  • 折しも周が淮南を攻めたとき、潘承祐がこれを推薦して将として抜擢した。偏師を率いて寿州を援け、城南の大寨を攻めて功があった。また濠州の水柵を破り、淮南屯営応援使に擢用された。
  • 当時周人は正陽の浮橋がちょうど完成し、援軍の道を扼していた。仁肇は敢死の士千人を率い、舟に薪芻(たきぎと草)を積んで風に乗じて火を放って橋を焼いた。周の駙馬都尉張永德が来て争ったが、折しも風が翻って火が施せなくなり、勢いはやや退いた。永德は鼓を鳴らして乗じ、南軍はついに敗れた。仁肇は独り騎馬でしんがりを務めた。永德はもと猿臂で射に巧みであり、弓を引いてこれを射たが、矢が仁肇のところに至るたびに撃ち落とされた。永徳は大いに驚いて言った、「敵に人物がいる、迫るべきではない」と。これを放って帰らせた。
  • 割地が講和として許された時、元宗はこれを鎮海軍節度使とし、まもなく武昌に移鎮した。

献策と讒言による死

  • 開宝の時、李重進が揚州で兵を挙げ、宋がこれを討ち平らげたが、淮南諸郡の守りはそれぞれ千人を超えなかった。仁肇は密かに後主に言った、「宋は淮南諸州の戍守が単弱で、連年出兵して西蜀を滅ぼし荆・朗を平らげ、今また嶺表を取り、往返数千里で師旅は疲弊している。これは兵家にとって乗ずべき勢いがあると言える。臣に兵数万を借していただければ、寿春を出て淝水を渡り正陽を据え、旧を思う民と累年の粟によって、再び淮甸を取ることは丸を転がすようなものである。臣が兵を起こす日には、なお北朝に馳せ聞かせて、臣が兵を拠って密かに叛いたと言わせ、事が成れば国に帰り、そうでなければ臣の族を滅ぼすことを願い、陛下に二心が無いことを明らかにしたい」と。後主は驚いて言った、「妄言するな、宗社は絶たれてしまう」と。
  • まもなく仁肇を南都留守・南昌尹とした。仁肇はもとより行伍から身を起こし、将帥を任じても常に士卒と食を均しくし服を同じくしたので、多く士心を得た。また皇甫継勲・朱令贇らと和せず、そのため仁肇を陥れる者があった。宋朝に援を求めて自ら江西に王たろうとしていると讒言されたのである。
  • しかし宋の太祖は仁肇の名望を忌み、その侍者に賂を送って密かに仁肇の像を盗み出し、別室に懸けさせた。当時南楚国公従善は汴に質(人質)となっていたが、従善を引いてこれを観させて言った、「仁肇はまさに降ろうとしている。まずこれを持って信とするのだ」と。また空の館を指して「まさにこれを仁肇に賜おう」と言った。
  • 後主はこれを聞いてそれが敵の反間の計であることを知らず、密かに人を使って仁肇を毒殺させた。仁肇は少い時から風疾に罹っており、口に過(異常)があった。医工は言った、「病は肺に得ており、覆いが正しくない」と。毒に遇うと口の穢れがたちまち減じ、翌日卒した。
  • 初め仁肇は陳喬に知られ、雅にこれを器重して言った、「仁肇に外を将らせ、喬が内で機務を掌るならば、国土が蹙(縮小)していても未だ図りにくいことはない」と。仁肇が死ぬに至って、喬は言った、「事勢がこのようであるのに忠臣を殺すとは、私はどこで死ねばよいか分からない」と、嗟嘆すること数日に及んだ。

史論

論じて言う。孟堅・陳誨・林仁肇はいずれも閩の旧将である。先後して南唐に帰し、軍中で力を効した。これはいわゆる「楚材晉用」ということではないか。しかし誨は功名によって顕れ、堅は血戦によって死に、仁肇は心を傾けて国のために謀ったにもかかわらず反って間諜の計に用いられて死んだ。そもそも幸不幸というものがあるのだろう。皇甫暉は乱卒の身より刺史の位に至り、身を抜いて南に奔ったが、滁州の敗戦において義として生を求めず、ほとんど晩節を全うした者と言えよう。