十国春秋卷二十四 南唐十 陳誨
要約
陳誨、建安の人である。生まれつき身が軽く敏捷で勇力があり「陳鉄」と呼ばれた。閩に仕えて富沙王のために将となったが、保大初年の南唐の建州攻めで先鋒橋使王建封に捕らえられ、処刑台に伏していたところをたちまち脱身して逃れ、大将査文徽に帰順して戦棹指揮使となった。まもなく従った福州攻めで馮延魯の軍が大敗して諸営が潰えた際、誨だけが殿を務めて棄てられた金帛二十万を収めて帰り、剣州刺史となった。
再び福州を攻める際、文徽が功を貪って性急な進軍を急ぐのを誨は「閩人は信用しがたい、まず衆を整えるべきだ」と諫めたが聞き入れられず、文徽は敵の偽計にかかって捕らえられた。誨は必ず敗れると予測して兵を江岸に列して備え、水戦の巧みさから呉越の楼船を沈め、木で作った蛟龍の擬態で敵を潰走させて敵将馬先進を捕らえるなど、福州の両度の戦いで唯一戦功を挙げた名将として名を馳せ、永安軍節度使・侍中となった。
鎮にあること十余年、儒学の者を推挙して人材登用に努め、後主の初めに疾を理由に引退を求めると自ら邸を訪れて見舞われ、閩国公に封じられ忠烈と諡された。閩の乱で多くの士民が滅びる中、陳氏一族はますます栄えた。子の徳誠も文武を兼ね、寿春への援軍で堅い敵に当たっても鋭鋒を挫かれず、その軍は「百勝」と名付けられて栄誉を得た。
現代語訳全文
生い立ちと閩での経歴
- 陳誨は建安の人である。生まれて数月で足の脛が履くことができ、父はこれを異とし、小字を阿鉄とした。成長すると身軽で敏捷、勇力があり、当時の人は「陳鉄」と呼んだ。閩に事えて富沙王のために将となった。
- 保大初年、元宗は将を遣わして建州を攻め、その城を包囲した。誨はしばしば出て挑戦した。先鋒橋使の王建封が外郛を克ち、誨を捕らえてまさに斬ろうとし、すでに衣を解いて処刑台に伏していたが、たちまち脱身して馳せ去り、追う者数十百輩も及ぶことができなかった。自ら大将の査文徽に帰順すると、文徽は驚異してこれを戦棹指揮使に用い、旧部曲を領させた。
福州攻略の功
- まもなく従って福州を攻めたが、馮延魯が敗走し、諸営はすべて潰え、死者は万を数え、軍実・戎器を棄てたものは数えきれなかった。誨だけが殿(しんがり)を務め、棄てられた金帛二十万を収めて帰った。
- 文徽が建州を鎮すると、誨は剣州刺史となった。諜者が呉越の戍兵が福州を棄てて逃げ帰ったと告げた。文徽は暗く功に貪り、すぐに誨を率いてともに進んだ。誨は戦艦で閩江に入ったが、たまたま秋の雨で水が暴漲し、一夜で七百里を進んで城下に到った。呉越の水軍と遭遇し、江中で戦った。誨はもとより水練に巧みで、江に没入して呉越の楼船を鑿ってこれを沈めた。さらに木で蛟龍の形を作って江面に浮かばせ、呉越の兵は驚いて潰走した。そこで大声で叫んでこれを撃ち、その将の馬先進を擒にし、葉仁安を降した。
- 鄭彦華は初めて福州に変事が無かったことを知った。城中には誨の親故が多く、間使を遣わしてこれを招いた。文徽は歩騎を率いて福州に続いて到り、偽って文徽を迎えて城内に入るよう伝令した。誨はその聞いたところを告げて言った、「私は閩の産である、どうして閩人の情を推し量ることができないことがあろうか。閩人は謨信(閩の方言で、信の無いことを謨信という)であって、速く進むべきではない。まず寨を立てて衆を整え、招いた親故が来てその実情を得るのを待って、徐ろに図るべきだ」と。文徽は言った、「狐疑していれば変事を生じる、機に乗じて城を占拠するのが上策だ」と。兵を麾いてすぐに入った。
- 誨は必ず敗れると予測し、旗を立て鼓を鳴らして兵を江岸に列してこれを待った。文徽は入ると果たして捕えられた。誨は全軍を剣州に還し、先進を金陵に献じ、彦華らを釈放して将に用いた。福州の両度の交戦はいずれも大敗を塗地したが、誨は軍中で独り功があり、名将と号された。ついに永安軍節度使に遷った。侍中を兼ねた。
晩年
- 兵を訓じ穀を積み、隠然として大鎮となった。常に福州の兵を南台江で破り、軍の声望は大いに震い、これによって朝廷は南方を委任し、その軍を名づけて忠義とした。周の兵が淮南に入ると、誨は子の徳誠を遣わして鎮兵を率いて赴き難に赴かせた。
- 誨は鎮に在ること十余年、多く儒学の者を薦挙し将校を甄升したので、時の議論は誨を多しとした。後主の初め、疾を引いて罷職を求め、その弟の謙を留後とし、誨を召して都に還らせた。後主は自らその邸を訪れて見舞い慰労した。(闕)年七月に卒した。閩国公に封ぜられ、忠烈と諡された。閩の乱で士民はほとんど殱滅されたが、ただ誨の宗族はますます盛んになり、諸子は皆顕官に至って当世に栄えた。
子徳誠
- 徳誠は少くして学を好み、文武を兼ね能詩の名があった。周の兵が南侵した時、元宗は潘承祐を泉州・建州に遣わして驍勇の者を召募させた。承祐は上奏して「陳誨の子徳誠には才略があり用いるべきである」と言った。そこで徳誠に卒数千を率いて寿春へ赴かせた。
- 当時諸将の戦いは多く不利であったが、徳誠だけは出入りして堅い敵に当たり、いまだかつて鋭鋒を少しも挫かれることが無かった。班師の日には特にその軍に旌を掲げて「百勝」と名づけて栄誉とした。和州刺史に拝され政績があった。後に叔父の謙とともに建州の節旄を継領し、世に父の風があると称された。