十国春秋卷二十一 列傳 張延翰

要約

張延翰、字は徳華、宋州睢陽の人である。もと唐末に陝州司馬であったが、北方の乱を予見し、従父の慎思に江淮への避難を進言してその許しを得た。呉に入って塩城令となり治績を挙げ、楚州行軍司馬に遷った。烈祖が江州を領した際には観察巡官として登用され、軍府の事務を通判した。

烈祖が禅を受けると侍御史判台事として入り、驕り横暴な左街使張宣を弾劾して強豪の者を畏怖させ、礼部侍郎に進んだ。まだ科挙が設けられていなかったため、書を献じる士の優劣判定を一手に任され、精密で職務に称うと評された。孤独貧窮の者を推し進めて権勢に付かず、官吏はこれを畏れて不正な利益を貪ろうとする者がなかった。

元宗は輔政の頃から延翰の公正な議論と明晰な事務処理を高く評価し、「心を傾けてその言を聴いている」と語った。これによって六司の統轄がほぼ全てに及び、時の人望が集まって中書侍郎同平章事を拝したが、わずか五十余歳ながら人はなお登用が遅いと評した。ほどなく病が重くなり事を処理できなくなったが、烈祖はなお一意に任せようと辞退を許さず、良薬を賜ること道に相望むほど厚遇した。年五十七で卒し、太傅を贈られた。著者は史論で、開国の旧臣たちの中でも延翰を「六司を統理し卓然と功を挙げながら、宰相の任を尽くせぬまま終わった」と惜しんでいる。

現代語訳全文

経歴

  • 張延翰、字は徳華、宋州睢陽の人である。もと唐の末に陝州司馬に任じられていた。従父の慎思が徐州留後を代行していたので、延翰は行ってこれを省み、北方がまさに乱れようとしていることを告げ、江淮に地を避けて宗祀を全うしたいと述べた。慎思はその言を是とし、慨然として遣わした。
  • 呉に入って塩城令となり治績があり、楚州行軍司馬に遷った。烈祖が平章事として江州を領すると、延翰を観察巡官として表し、軍府の事を通判させた。
  • 烈祖が禅を受けると、侍御史判台事として入った。張宣が左街使となって功績を恃み驕り横暴であったため、延翰は朝廷でこれを弾劾し、強豪の者たちも影を潜めた。禮部侍郎に進んだ。自らは疎遠な出自から起こって時に遇い知られたことを思い、その才を尽くすことができたのを感慨して自ら奮起した。
  • 当時はまだ貢挙(科挙)が設けられていなかったので、書を献じて事を論じる士があれば、その優劣を判定して選び用いていたが、烈祖はこれをすべて延翰に委ね、精密で職務に称うと評され、選事の事務を兼知した。孤独貧窮の者を推し進め、権勢に付かず、官吏はこれを神明のごとく畏れ、あえて不正な利益を貪ろうとする者はいなかった。
  • 元宗が輔政していた頃、人に語って言った。「張君の議論は公正で、事を処理するに条理があり、簿籍に至るまで明晰に分析されないものはない。私は心を傾けてその言を聴いている」と。これによって六司の統轄がほぼ全てに及び、時の人望はこれに集まり、中書侍郎同平章事を拝した。
  • その時、年はわずか五十余であったが、人はなお柄用(要職への登用)が遅いと言った。病にかかりますます侵され、もはや事を処理できなくなったが、烈祖はまさに一意にこれに任せようとして、その辞退を許さず、使いを遣わして労い、良薬を賜ること道に相望むほどであった。年五十七で卒し、太傅を贈られた。

史論

  • 彦能は永陵(烈祖)を険難の中に託し、廃されるべき者と興るべき者を見分けたのは、その識見において人に過ぎるものがある。簡言は幕府に参賛し、業は財賦を経画し、漢威は左右を守衛した。みな開国の旧臣である。居詠は淳謹の名があり、咎なく誉れもなく、延翰は六司を統理し、卓然として功績を挙げたが、晩く宰相の地位に登り、その用を尽くさぬままに終わった。惜しいことである。