十国春秋十國春秋卷二十二 南唐八 王崇文・何敬洙・柴克宏・邊鎬ほか列伝

王崇文

  • 王崇文、字は光福。呉の功臣・王綰の子。人となりは重厚で儒雅、経史に広く通じた。門地により義祖の婿となった。
  • 歙州・吉州の二州刺史として出た。廬陵の民は気を尚び訴訟を好み、先に手を引くことを臆病とみなして治めがたい土地とされていたが、崇文は一律に法で処し少しも手加減しなかったので、訴訟は衰えた。
  • 百勝軍節度使に遷る。建州が平定された当初、崇文を永安軍節度使とすると、赴任した先はどこでも民が安んじて乱を忘れた。
  • 福州の役では大将であったが、罪は陳覺らにあるとして、元宗は崇文を不問に付した。しばらくして廬州に鎮を移し、入って神武侍御統軍となり、ふたたび鄂州に出鎮したが、治績ははじめと同様だった。
  • 崇文は建国以来二十年のあいだ、外では藩鎮を歴任し、内では禁兵を統べ、将相を兼ねる位にあって終始富貴であった。しかし平生は裾の広い衣に太い帯という装いで、士大夫と語らい宴を張り、風度は洒脱で、当時の人に親しまれ重んじられた。
  • 武昌に臨んだとき、鞠場で騎士を閲兵していると、傍らの古屋数十間が崩壊し、音が数里に響いた。人々は何事か分からず動揺したが、崇文は指揮を続けて式を終え、常の態度を崩さず、結局その件を問い質すこともなかった。
  • 後主が即位すると上疏して朝政を歴々と論じた。ある者が「公は名位すでに高く、勲旧の家柄です。言を尽くせば怨みを買うのは古人でさえ免れなかったこと。まして新君が即位したばかりで嫌疑が生じやすい。少し黙されるがよい」と諫めたが、崇文はやめなかった。後主もまた書を賜って褒め答え、中書令を加えたが、それを拝する前に卒した。

王彦儔

  • 王彦儔は蔡州上蔡の人。若くして州の軍校となった。
  • 後唐の同光末年(926年)、諸郡が乱れると、彦儔もまた禍に乗じて功名を立てようと考えた。同僚六人が来て「天下は騒然としている。有能な者が富貴を得る。我々は人に後れてはならぬ」と謀ったので、彦儔は承知し、「今夜は私が府中に宿直する。諸君は兵を持って来い。私も鎧を着て内応する」と偽って告げた。
  • 夜、六人が約束どおり現れると、彦儔は剣を伏せてことごとく斬り、その首を持って帳の門を叩き、刺史に「姦盗が事を起こしましたが、幸い誅伏しました。公は速やかに号令して衆心を安んじられますよう」と呼びかけた。刺史が驚き喜んで出て来ると、彦儔はこれも斬り、罪を六人に着せて自ら州事を領した。
  • 唐の兵が討伐に来ると、彦儔は守り切れないと計り、妻子を村里に匿し、父母を奉じて南へ奔った。烈祖が呉を輔政していたので都押牙となり、和州刺史を歴任してはじめて密使を遣わし妻子を迎え帰らせた。
  • 彦儔は政績があり、よく境内を撫めて考課の最上位を得、入って天威統軍を拝した。自ら兇乱から身を起こしたことを思って、以後はつとめて小心謹恪に努めた。烈祖はこれを嘉し、しばしば堂に上ってその父を拝した。
  • 元宗の時に康化軍節度使に抜擢された。当時、給事中の常夢錫が直諫によって判官に左遷されてきたが、彦儔は朝廷にいるときと変わらぬ礼を尽くして遇したので、人士はこれを称えた。数年後、鎮で卒した。

何敬洙

  • 何敬洙は廣陵の人。体つきは小柄で見栄えがしなかったが、身軽で力があった。
  • 幼くして乱に遭い、呉の楚州刺史・李簡に拾われて側近くに仕えた。李簡は残忍な性格で、下男に小さな過ちがあってもたいてい死罪にした。
  • 敬洙が仲間と階の下で相撲をとっていたとき、李簡秘蔵の硯を持って通る者があった。冗談に「誰かこれを割る度胸があるか」と言うと、酒に酔っていた敬洙は色を作して「死生は命による」と言い、一投げで割ってしまった。
  • 翌朝、李簡は執務を終えて硯が壊れたと聞き、担当者を問い詰めて事実を知ると、ただちに捕らえさせた。誰もが死罪と思ったが、李簡の妻はかねて敬洙を非凡と見ていたので、堂の奥に匿した。十日ほどして李簡は「もう逃げたのだろう」と考え、不問に付した。
  • あるとき烏が李簡を追って喧しく鳴き、避けても付きまとうので、李簡は大いに怒って「何敬洙がここにいないのが恨めしい」と言った。敬洙は射に巧みで百発百中だったので思い出したのである。言い終わらぬうちに敬洙が朱の弾き弓と鉄丸を携えて前に拝し、立ち上がりざま一発で烏を仕留めた。李簡は大喜びして、硯を壊した件はそれきり咎めなかった。
  • 董紹顔という相術の巧みな者が、李簡の求めで諸子を見て「みな良いが、公に及ぶ者はいない」と言い、ただ敬洙を指して「これは奇相だ。おそらく公を超える」と言った。李簡はいよいよ敬洙を愛し、長じて軍校に用いた。
  • 李簡の死後は烈祖に仕えて裨将となり、天威軍都虞侯に進んだ。建州の役では行営招討歩軍都指揮使となった。査文徽が進撃しようとしたとき、敬洙は「閩の地は僻遠で、大軍を労するに足りない」と強く主張したが、査文徽に説き諭されてやむなく従った。
  • 建州が平定されると敬洙の功が諸将中の第一だったが、功を王建封に譲って惜しむ色がなかった。楚州團練使を拝した。
  • 敬洙は、かつて李簡に仕えたのがこの州であったことから、いっそう自ら励んだ。しばしば微行して里巷を歩き民の苦しみを察し、条例を定めるときはあらかじめ手筈を整えたので、民は労を知らなかった。庁舎で客と談笑しているときでも、訴え出る民があればすぐ引き入れ、自ら曲直を判じたので、みな納得して帰った。
  • 保大八年(950年)、楚の馬希萼が帰服して援軍を乞うと、元宗は敬洙に救援を命じ、武昌軍節度使に遷した。
  • 後周が淮南に侵攻すると、武安節度使の王逵に麾下の州兵を率いて江南の境内に入らせた。王逵は後周の詔を奉じて進みながら、部将の潘叔嗣を先鋒として鄂州の長山寨を取らせ、三千人を殺した。
  • 元宗は敬洙に清野して城に籠もるよう命じたが、敬洙は詔に背いて城を出て地をならし戦場とし、「敵が来れば私は兵民とともにここで死ぬ。大丈夫たる者、びくびくと門を閉ざして守るだけでいられようか」と言った。ちょうど潘叔嗣が長山から兵を返して朗州を襲ったので、王逵は狼狽して去った。人々はその決断を重んじ、鎮國将軍・中書令を加えられた。
  • 後主の即位後、脚の病により官を解くことを願い、右衞上将軍を授けられ、芮國公に封じられて致仕した。全俸を給され、門には戟を並べる栄誉を受けた。
  • 乾德二年二月(964年)に卒す、享年七十七。後主は三日間朝を廃し、樞密使・中書侍郎の朱鞏に節を持たせて、鄂州大都督・左衞上将軍を冊贈し、諡を威烈とした。

柴克宏

  • 柴克宏は呉の功臣・柴再用の子。父の蔭により郎将となり、宣州巡検使に遷り、泗州刺史に改まった。罷めて帰り龍武軍都虞侯となった。
  • 克宏は施しを好んで家産を営まなかったので、家は常に窮乏していたが、性は豪放で、博打や酒に平然と耽っていた。
  • 当時、元宗は自ら唐の後裔をもって任じ、中原を取って旧業を回復しようとしており、群臣の多くは大言を吐いて主意に迎合した。だが克宏は偏裨の職にありながら、一言も軍旅について語らなかったので、人も彼を兵に通じているとは思わず、長らく昇進しなかった。
  • 久しくして撫州刺史として出た。淮南で戦端が開かれ、呉越が隙を窺って常州を侵すと、克宏は陣頭で死力を尽くしたいと願い出た。元宗はその志を嘉して右衞将軍を授け、右衞将軍・袁州刺史の陸孟俊とともに常州を救援させた。
  • 当時、精兵はすべて江北にあり、克宏が率いたのはわずか数千の疲弊した兵にすぎなかった。しかも樞密副使の李徴古が支給した武具はいずれも朽ち鈍っていた。克宏が「兵はすでに訓練不足だ。せめて器械が堅く鋭ければまだ使えるが、支給がこの体たらくとは何事か」と言うと、李徴古はもともとその人となりを軽んじていたので罵倒した。見る者はみな憤ったが、克宏は李徴古が狂生で比べるに足りぬと知っており、平然として少しも動じなかった。
  • 潤州に至っても李徴古は不快のままで、克宏を召還して神武衞統軍の朱匡業を代わらせるよう奏した。燕王弘冀ひとりが克宏こそ任に堪えると争い、ついに派遣された。
  • 克宏が常州に着いてもなお李徴古は使者を馳せて帰還を促した。克宏は剣に手をかけて立ち上がり、「私は期日を切って敵を破ろうとしている。お前は何者だ。きっと錢氏の間者だろう」と言い、斬るよう命じた。使者が「李樞密の命を受けて来た」と告げると、克宏は「軍の統率は私にある。李樞密が来ようとも斬る」と言い、そのまま使者を斬って衆に示した。
  • このとき常州には隋の将・陳杲仁の祠があり、夜、夢に杲仁が現れて「私が陰兵を率いて公を助けよう」と告げた。戦いになると二頭の黒い犉が呉越軍に突進し、呉越兵はそのたびに崩れた。克宏は兵を整えて追撃し、大破して捕虜と首級が甚だ多かった。保大以来、辺境の戦いが大きく起こって以来、敵を破った功で克宏に先んじる者はなかった。克宏は上奏して杲仁を武烈大帝に封じた。
  • 元宗は克宏を奉化軍節度使に任じた。さらに上疏して壽春への救援を願い出たが、泰興まで来たところで瘍を発し、数日で卒した。諡は威烈。
  • 克宏が宣州を治めたとき、着任当初は城壁も堀もみな埋もれ崩れていた。吏が「田頵・王茂章・李遇と相次いで叛いて以来、守備を整えようとする者がいませんでした」と言うと、克宏は笑って「時は移り事は変わっている。そんなことがあるものか」と言い、大いに修築した。のちに呉越の兵が来たとき、これによって城は全うされ、郡人は徳とした。

史論

  • 王崇文は度量が広く雅やかで儒将の風があった。王彦儔は謹み深く小心で、しかも左遷されてきた臣を厚く礼遇した。これはとりわけ人には難しいことである。何敬洙は下働きの身から上公の位に至ったが、腕まくりして硯を投げつけたときの気概は、すでに人を遠く超えていた。柴克宏は陣頭で功を挙げ、常州の役では母が「わが子は任に堪える」と上表したと伝えられる。その智はむしろ趙奢の妻の上を行くのではないか。

邊鎬

  • 邊鎬は昇州の人。生まれるとき、父は宋の永嘉太守・謝靈運が訪ねて来て父子となることを願う夢を見た。生まれた子は夢に見た姿に似ていたので、小字を「康樂」(謝靈運の封号)とした。
  • 長じて烈祖に仕えて通事舍人となり、聡明機敏で知られた。
  • 保大の初め(943年〜)、循州の賊・張遇賢が嶺を越えて虔州を襲った。節度使の賈浩は門を閉ざして城壁に登り、出撃しようとしなかった。張遇賢は白雲洞に拠り、衆は十余万に及んだ。元宗は洪州営屯都虞侯の嚴思に麾下を率いて討たせ、鎬を監軍とした。
  • 虔州の書生・白昌裕は沈着で謀があり、鎬は招いてともに計を定め、木を伐って道を開き白雲洞を襲った。賊衆は潰え、その裨将の李台が張遇賢を捕らえて降った。功を策せられ、洪州営屯諸軍都虞侯に遷った。
  • 保大二年(944年)、査文徽が樞密副使として出師し建州を攻めると、詔により鎬は行営招討・洪撫饒信歙等州諸指揮都虞侯として査文徽に従った。しかし衆はわずか数千にすぎず、戦に敗れて退いた。
  • 元宗はこれを聞いて何敬洙・祖全恩・姚鳳を援軍に遣わした。何敬洙と鎬はその要害を奪い、崇安から進んで赤嶺に至り、建州の兵と対峙して背水の陣を敷いた。査文徽が騎兵を迂回させて建兵の背後に出し、何敬洙・鎬と挟撃して大破し、ついに建州を取って王延政を降し、さらに鐔州を取った。事が終わると諸将はみな功を争ったが、鎬ひとり一言も発しなかった。
  • 保大七年(949年)、楚の馬氏の兄弟が争い、馬希萼は勝ったものの無道がはなはだしかった。元宗は楚の乱が深いと知り、鎬を信州刺史として屯営の兵を領させ、湖南安撫使を兼ねさせて袁州の萍郷に駐屯させ、事あらば便宜に任せて処置してよいとした。
  • 楚人が果たしてまた廃立を行うと、鎬は萍郷から軍を率いて潭州に入り、馬氏の一族および文武の将吏を金陵へ移した。当時、湖南は飢饉だったので、鎬は大いに倉を開いて賑わせ、楚人は大いに喜んだ。
  • もともと元宗は湖南を取ろうとして、多芸な鎬に偽って僧の姿をさせ、長沙に遊ばせ、鈸を鳴らして托鉢させ、虚実をすべて探らせていた。ここに至って将として用い、ついに湖南を平定した。鎬は武安軍節度使に進んだ。
  • そこへ南漢の潘崇徹が郴州を攻め、鎬は兵を出して争ったが敗れ、郴州を失った。
  • まもなく孫朗の乱が起こった。孫朗はもと奉節軍の軍校で、初め成師朗に従って帰順し、その部下が奉節軍とされていた。鎬に従って楚に入ったが、給与が楚の降兵より薄かったので、内々に怨みを語り合っていた。しかも糧料使の王紹顔が支給のたびに削り取っていたので、孫朗と兵卒たちは騒然として王紹顔を殺そうとした。王紹顔は倉の下に隠れて免れた。官属は王紹顔を斬って将士に謝すよう請うたが、鎬は聴かなかった。
  • 孫朗はそこで鎬と王紹顔を殺そうと謀り、夜、麾下を率いて府の門を焼こうとしたが、火がなかなか付かず、そのうち時を告げる者に気づかれて鎬に報告された。鎬は牙兵を出して戦い、急いで角笛を吹かせて敵を混乱させた。孫朗らは夜が明けると思い、関を破って朗州へ奔り、潭州の虚実をすべて劉言に告げた。
  • 劉言はもとより叛意を抱いていたので、孫朗を得て大いに喜び、王逵・周行逢を遣わして長沙を攻めさせた。当時、麾下の多くが劉言を忠順だと言っていたので、鎬は備えをしていなかった。劉言の兵がすでに益陽を抜いたと知って、狼狽して逃げ、ついに楚の地を失った。官を削られ饒州に流された。城を棄てた他の将はみな斬られた。湘中に「馬は去るに鞭を用いず」という謡があったが、ここに至って的中した。
  • 鎬は部下の統御に法がなかった。はじめ建州を平定したとき、兵が捕らえた者はもっぱら生かすことに努めたので、閩人はこれを徳とした。また行軍には常に仏具を携えたので、人は「邊羅漢」と呼んだ。湘潭を落としたときも市は店を閉じず、日々沙門に食を供して福を祈ったので、当時の人は「邊佛子」「邊菩薩」と称した。しかしその後は政令が多方から出て優柔不断となり、綱紀が崩れたので、「邊和尚」と呼ばれるようになった。
  • 保大十四年(956年)、後周の軍が侵入し、齊王景達が元帥として壽州の救援に出ると、鎬は大将として起用され、許文稹とともに従った。しかし朱元が叛いて去ると諸軍は潰え、鎬と許文稹は捕らえられた。後周の世宗は鎬を右千牛衞上将軍に任じた。淮南を割譲して盟を請うたとき帰国したが、元宗は用いなかった。のちに金陵で卒した。

王建封

  • 王建封は上元の人。若くして従軍し、任俠と驍勇で知られた。
  • 保大年間に建州を攻めたとき、建封は先鋒橋道使となり、建州の外郭を焼いて陥落させた。閩の王延政が降ると、何敬洙の功が諸将中の第一とされた。建封は憤って「私が火を放って先に登ったからこそ諸軍が入れたのだ。私の功が第一のはずだ」と言った。何敬洙はそこで功を建封に譲り、その旨を朝廷に報告した。恩賞の等級により信州刺史を拝したが、人はみな何敬洙を評価し建封を軽んじた。
  • まもなく陳覺・馮延魯・魏岑が福州を攻め、李弘義を包囲して呉越の援軍を破り、福州は援軍を絶たれて危うく陥落寸前となった。しかし陳覺・馮延魯・魏岑はそれぞれ功を自分のものにしようとして連携せず、偏裨も命に従おうとしなかったので、攻略できなかった。
  • 陳覺が上奏して建封の増援を請い、建封は五千人を率いて合流し、福州の版寨を破って東武門に入った。だが建封もまた諸将と功を争い、急に兵を収めて先に退いたので、李弘義がその隙に乗じ、軍はふたたび敗れて潰走して帰った。
  • 元宗は建封を深く恨んだが、ちょうど陳覺らの擅興(無断出兵)の罪を処理しているところで、まだ手が回らなかった。建封は内心不安だったので、元宗は天威軍都虞侯に召して親軍を委ねた。建封はこれで安堵し、恩をたのんで僭上と奢侈に走り、憚るところがなくなった。
  • 戸部員外郎の范冲敏は、魏岑・鍾謨・李德明が実権を握るのを憎み、建封をそそのかして上書させ、魏岑らを歴々と非難して正しい人物に替えるよう請わせた。元宗は激怒し、「建封は兵権を握りながら国政に干渉し、朝臣の進退を謀ろうとする。増長させてはならぬ」として池州に流し、到着前に殺した。范冲敏も市で処刑した。
  • 魏岑は長く范冲敏の亡霊を見て、道士に上章して天に訴えさせたが、数か月後に魏岑も死んだ。
  • 建封はもとより武人で文義を解さなかった。族子に「動植疏」を著した者があり、そのなかで鳩(鴿)のことを誤って「人日鳥」と書いていた。建封はこれを故事だと信じ込み、人日(正月七日)に宴を開くたび必ず真っ先に鳩を出したので、聞く者は密かに笑った。

劉崇俊

  • 劉崇俊、字は德修。楚州山陽の人。祖父の劉金、父の劉仁規と代々濠州を治め、崇俊がこれを継いだ。
  • 崇俊は父・仁規の政をことごとく改めたので、人はその恵みに懐いた。しかし数年のうちに次第に専横不法となり、無頼を多く抱えて淮を越えて略奪させ、美女や良馬を得ては自らの用に供した。
  • 元宗は濠州を定遠軍に昇格させて崇俊を節度使とし、その子の劉節を太寧公主に娶らせた。だが元宗もその人となりを憎んでいた。
  • 壽州の姚景が死ぬと、崇俊は権貴に厚く賄賂を贈って壽州の兼領を求めた。元宗はその意を解さぬふりをして壽州へ鎮を移すよう命じ、楚州刺史の劉彦貞を急ぎ濠州に入らせて交代させた。
  • 崇俊は自らの失策を悔い、かなり心を改めて法度に従ったが、まもなく病を得て卒した。享年四十。太尉を贈られ、諡は威。

劉彦貞

  • 劉彦貞は呉の功臣・劉信の第四子。父の任により大理評事となり、屯田員外郎に遷った。父の喪中に起復されて将軍となり、海州・楚州の刺史を歴任した。
  • 騎射に巧みで矢を外さず、軍中では「劉一箭」と呼ばれた。吏務もまた手腕をもって称された。定遠軍節度使に遷り、壽州に移った。
  • そこから貨殖に手を染めて私腹を肥やし、市中の商家には貧富を問わず一律に資金を貸し付けて利を取った。
  • 州には安豐塘があり万頃の田を潤していたので凶年がなかったが、彦貞は城壕を浚うと称して水を壕に落とし、民の田はみな涸れた。そのうえ賦税の督促を厳しくしたので、民はみな田を売って去った。彦貞はとりわけ肥沃な田を安値で買い取り、そのうえで塘の水をもとどおりに湛えた。年ごとの収入は計り知れなかった。
  • 当時、国政を握る者の多くが貪欲だったので、彦貞は広く賄賂を配って名声を釣った。そこで魏岑らは口を揃えて「一面の長城」と推した。
  • 在位が長くなり交代させられるのではと疑うと、辺境の急報を偽造して自分の地位を固めた。久しくして入って神武統軍となった。
  • 後周が淮南に侵攻すると、北面行營都部署を拝し、三万を率いて壽州を救援した。來遠鎮に至ったとき、兵車と旗指物は数百里に連なり、戦艦は尾を接して淮を蔽って遡った。後周の将・李穀は浮橋を断たれて腹背に敵を受けることを恐れ、営を焼いて正陽に退いて守った。
  • 彦貞は名将の子とはいえ富貴に育ち、もともと兵事に習熟していなかった。裨将の武彦暉・張延翰・成師朗もみな闘将ではあるが計略がなく、後周軍の退却を臆したものと見て、追えば大戦果を挙げられると考えた。戦士がまだ朝食も摂らぬうちに進撃を督した。
  • 後周の将・李重進が正陽の東を掠めているのに遭遇すると、彦貞は横に陣を布き、拒馬を並べ、鋭い刃を連ねて鉄の縄で繋ぎ、木を彫って猛獣が掴みかかる形を作り丹碧で飾って陣の前に立て「捷馬牌」と称した。また革袋に鉄蒺藜を詰めて地に撒いた。後周兵はこれを見て相手が怯えていると察し、一鼓で攻めかかった。彦貞の軍は大敗し、成師朗らはみな捕らえられ、彦貞は戦死した。
  • はじめ彦貞が進軍したとき、劉仁贍は「戦わずして退くのは必ず伏兵がある。わが軍が遭えば一人も残るまい」と言い、前軍の張全約も「交戦せずに敵が退くのは追ってはならない」と言った。彦貞は「お前たちに何が分かる。わが事を沮む者は斬る」と言った。果たして敗れ、ただ張全約だけが麾下を率いて壽州に奔った。
  • 淮南は千里の地を失ったが、その敗因は実に彦貞から始まった。国事に死んだとはいえ、論者は彼を認めない。交泰元年(958年)に中書令を贈られ、諡は壮とされたが、その遺児は録用されなかった。

朱匡業

  • 朱匡業は呉の奉國節度使・朱延壽の子。父の延壽は謀叛の罪で誅されたが、匡業はそのときまだ幼かった。
  • 長ずるにつれ酒を好み気ままに振る舞った。烈祖が呉を輔政していたとき軍校に抜擢され、功を積んで諸軍都虞侯に至った。昇元年間に歙州刺史として出て政績があり、建州留後に改まり、還朝して神衞統軍を授けられた。
  • 後周が淮南に侵攻して内外が震駭し、盗賊が隙に乗じてしきりに発したとき、匡業は内外巡検使となった。厳格で私心なく、法を犯した者を容赦しなかったので、四郊は粛然として、夜も戸を閉じずにすんだ。
  • 正陽で軍を失い朱元が叛いたとき、元宗は親征を議し、匡業と統軍の劉存中を召して方策を問うた。匡業はただ「運数が興れば天地もこれを助けるが、大事が去れば英雄といえどもどうにもならぬ」と答えた。劉存中も傍らからこれに同調した。旨に逆らったとして匡業は撫州團練使に貶され、劉存中は饒州に流された。
  • 後主が位を襲うと召されて神武統軍を拝し、中書令を加えられ、のち卒した。
  • 匡業の妻の鍾氏は胆略があり、匡業はひどく恐れていた。酔うと思うままに人を殺し、誰も止められなかったが、鍾氏が帳を掲げて一喝すると、たちまち恐れ入ってやめたという。
  • 子の崇俊は小柄で見栄えせず病弱だったが、騎射と突撃は神業のようであった。匡業に先立って死んだ。

史論

  • 邊鎬と王建封は当代の名将と称されながら、いずれも初めはよく終わりを全うできなかった。なぜであろうか。二人の劉氏(崇俊・彦貞)は相次いで濠州に鎮し、その事跡はほぼ同じである。彦貞が正陽で軍を潰したのは、まったく自ら招いたことである。朱匡業は愚直な直言によって咎めを受け、その才を尽くさぬまま終わったが、意を迎えて取り入る者とは異なっていたと言うべきである。