十国春秋卷十 列傳 陳彦謙

軍国の細務を委ねられる

  • 陳彦謙は常州の人である。人となり智略に富み、煩劇(複雑な事務)を処理することを善くした。高祖の時、潤州司馬の官にあり、徐温に甚だ親信された。
  • 徐温が昇州を巡視した際、その繁盛を常々喜んでいたので、陳彦謙は徐温に鎮海軍の治所をここに移すよう勧めた。徐温はその説に従い、陳彦謙を鎮海節度判官とした。
  • 徐温は軍国の事についてはただその大綱を挙げるのみで、細務はことごとく陳彦謙に委ねてこれを主らせた。江淮はこれによって治まったと称された。
  • 武義元年、徐温が呉越の兵と無錫で戦ったとき、徐温は熱病にかかり軍を治めることができなかった。陳彦謙は中軍の旗鼓を左に遷し、徐温に似た容貌の者を取って甲冑を着せ軍事を号令させ、徐温は少し休息を得ることができた。その機に臨んで変を制すること、みなこの類であった。
  • ほどなく楚州団練使を兼ねたが、病が篤くなったとき、徐知誥はその遺言と後継の事を恐れ、医薬・金帛を道に相継がせてその心を結ぼうとした。陳彦謙は密かに徐温に書を留め、ついに徐温の実子を嗣とするよう勧めた。当時の人はみなその義あることを多とした。
  • これより先、金陵の工事が成ると、陳彦謙は費用の帳簿を徐温に上げようとしたが、徐温は「私はすでに公に任せたのに、どうしてこのようなことで煩わせるのか」と言い、ついに再び会計しなかった。徐温は始終心腹を推してこれを用い、陳彦謙もまたこれによって徐温に報いた。

史論

  • 論じて言う。厳可求は謀を善くしてしばしば的中させ、機を運らすことは測りがたく、算を握ることはあたかも神のようであった。その智に人に過ぎるものがあったといえよう。駱知祥は心を銭穀に精しくし、一心に補佐して治め、厳可求と並び称されたのはまことに宜なるかな。陳彦謙は庶務を扶け尽くし、終始その志を渝(かわ)らせなかった。これもまた東海(呉国)の功臣というべきである。