十国春秋卷八 列傳 朱瑾
要約
朱瑾は宋州下邑の人で天平節度使朱宣の従父弟。兖州節度使斉克譲の娘婿となった後、輿の中に伏兵を隠す計で克譲を捕らえ、自ら留後を称して唐から泰寧軍節度使に任じられた。朱全忠との十数年に及ぶ抗争では、偽りの降伏で兄朱瓊を誘い出して斬るなど激しい駆け引きを重ねたが、ついに兖州も陥落し、河東の援軍李承嗣・史儼とともに太祖のもとへ奔った。太祖は高郵で迎えて玉帯を解いて贈り厚遇し、行軍副使・平盧軍節度使として重用、清口の戦いでは龐師古を大破する功を立てた。妻は朱全忠に捕らえられのちに尼となった。
太祖没後、徐温・知訓父子が専権を振るうと、瑾は知訓が自分の愛妾を姦通したことを深く恨み、高祖に徐氏誅殺を進言しても容れられぬまま、泗州へ左遷される憂き目にも遭った。ついに謀を巡らせ、送別の宴と称して知訓を自邸に招き、妻に拝礼させたところを笏で撃ち倒し伏兵で殺害、その首を携えて高祖に「呉のために患を除いた」と告げたが、高祖は恐れて顔を覆い「舅自らなさったこと、私の関知するところではない」と逃げ去った。府門を閉ざされ垣を越えようとして足を折った瑾は、「万人のために害を除き、この身をもって死ぬ」と叫び自刎した。徐知誥は乱を鎮めて一族を誅したが、朱瑾の名声は重く、墓の土が瘧の妙薬になるとの噂も広まった。
現代語訳全文
河東・淮南を転戦した勇将
- 朱瑾は宋州下邑の人で、唐の天平節度使朱宣の従父弟である。
- 朱瑾は若くして朱宣に従い鄆州に居り、軍校に補せられた。倜儻として大志を抱いていた。
- 兖州節度使の斉克譲はその人となりを愛し、娘を娶らせた。朱瑾は親迎に赴くにあたり、壮士を選んで輿舁ぎとし、輿の中に伏兵を隠した。夜、兖州に至って兵を発し、ついに斉克譲を捕らえて自ら留後を称した。唐の僖宗はすぐに朱瑾を泰寧軍節度使に拝した。
- 朱瑾は朱宣とともにすでに秦宗権を汴州で破っていたが、朱全忠は朱瑾が宣武軍の兵卒を誘って連れ帰ったことを責め、朱珍を遣わして朱瑾を攻めさせ曹州を取り、さらに濮州を攻めた。一方、朱全忠は自ら朱宣を鄆州に攻めた。
- 朱瑾兄弟は往来してたがいに救援し、十余年におよび大小数十戦、朱全忠としばしば勝敗を分けた。
- 朱全忠は朱宣の将賀瓌・何懐宝、および朱瑾の兄朱瓊を得ると、朱瓊らを兖州城下に連れて来て朱瑾に告げた。「お前の兄は敗れた。今、朱瓊らはすでに降った。早く自ら帰順するにこしたことはない」と。
- 朱瑾は偽って「承知した」と言い、牙将の胡規を遣わして書と幣を持たせ軍門に至らせ、降伏を願い出た。朱全忠は喜び、自ら延寿門に赴いて朱瑾と語った。朱瑾は「願わくは朱瓊を来させ、符印を送らせてほしい」と言い、朱全忠はこれを信じて客将の劉捍に朱瓊を送らせた。
- 朱瑾は壮士の董懐進を橋下に伏せ、単騎で朱瓊を迎え、手を振って劉捍に「朱瓊だけを来させてください」と語った。朱瓊が前に進むと、董懐進が突き出てこれを捕らえた。そこで門を閉じて朱瓊の先の降伏を責め、これを斬ってその首を城外に擲った。
- 朱全忠は攻め落とせないと見て、兵を留めて包囲しつつ引き揚げた。朱瑾は城に籠って自守したが、朱宣もまた鄆州で敗れた。そこで河東に援軍を乞い、河東の将李承嗣・史儼が騎兵五千を率いてこれを救った。
- 朱全忠はすでに朱宣を破って引き返し、急いで兖州に迫った。朱瑾の城中では食が尽き、李承嗣らとともに豊沛の間で食を掠奪していたが、汴の兵が急に至り、朱瑾の将康懐貞らは城を挙げて降った。
- 朱瑾は麾下の兵を率いて沂州に走ったが、沂州刺史の尹処賓が受け入れず、次いで海州に走った。汴の兵が急追したため、ついに李承嗣・史儼とともに太祖のもとへ奔った。淮南の人々はこれを壮とし、その幼名を呼んで「朱愍哥」と称した。
- 太祖は朱瑾が来たと聞いて大いに喜び、高郵にこれを迎えて玉帯を解いて贈った。表を奏して朱瑾に武寧軍節度使を領させ、行軍副使とした。しかし朱瑾の妻はついに朱全忠に得られ、のちに尼となった。
- このころ我が軍は淮人が多く、淮人は軽薄で戦に堪えなかったが、朱瑾の精強な騎兵を得て軍勢はますます振るった。
- この年、汴の将葛従周・龐師古が寿州を攻めたが、太祖は朱瑾を用いてその兵を清口で大破し、龐師古を斬った。たびたび表を奏して朱瑾を行営副都統・平盧軍節度使・同中書門下平章事とした。
- 太祖が薨じ、烈祖および高祖が相継いで立ったがいずれも年少であった。徐温とその子知訓が政を専らにし、朱瑾を畏れて除こうとした。
- 朱瑾もまたつねに徐知訓の殺害を謀り、しばしば月の初めに愛妾を遣わして徐知訓の様子を伺わせていたが、徐知訓はこれを強いて姦通した。妾は帰ってこれを訴え、朱瑾は大いに憤った。
- しばしば高祖に徐氏を誅して国の患を除くよう勧めたが、高祖はそれができなかった。ほどなく徐知訓は朱瑾の地位が自分の上にあることを憎み、泗州に静淮軍を建てて朱瑾を出して節度使とした。朱瑾はますますこれを恨んだ。
- 出発しようとする際、徐知訓は朱瑾を招いて夜通し酒を飲んだ。翌日、徐知訓が朱瑾のもとを訪れて謝すと、朱瑾はまた酒宴を設け、みずから杯を捧げて寵妓に歌をうたわせて酒を勧め、かつ愛馬を献じて祝いとした。
- 徐知訓は喜び、朱瑾は彼を堂上に招き入れ、妻を呼び出して拝させた。徐知訓がまさに答拝しようとしたとき、朱瑾は笏でこれを撃ち倒し、伏兵が戸口から突き出てこれを殺した。
- 先に朱瑾は二頭の悪馬を庭中に繋いでおき、徐知訓が入るとその馬を放って互いに蹴らせ鳴かせたので、外の人はその変事に気づかなかった。
- 朱瑾は徐知訓の首を携えて馳せ、高祖に示して「今日、呉のために患を除きました」と言った。高祖は恐れて衣で顔を覆い、「舅よ、自らなさったことです。この事は私の関知するところではありません」と言い、急いで立って内に入った。
- 朱瑾は憤然として「婢子(女子供のような者)とは大事を成すに足りぬ」と言い、徐知訓の首で柱を撃ち、剣を提げて出ようとしたが、府門はすでに閉ざされていた。そこで垣を越えようとしてその足を折った。
- 朱瑾は行く道が窮まったのを顧みて大声で「私は万人のために害を去り、この一身をもって死ぬのだ」と叫び、ついに自刎した。
- 徐知誥は潤州にあって乱を聞き、兵を率いて広陵に趣き、朱瑾の一族を滅ぼした。朱瑾の妻の陶氏は刑に臨んで泣いた。その妾が「何を泣くことがありましょう。今すぐ行けば公にお会いできます」と言うと、陶氏は涙を収めて欣然として刑に就いた。聞く者はこれを哀れんだ。陶氏はもと潯陽公陶雅の娘である。
- 朱瑾は名声が重く、江淮の人々はこれを畏れた。その死に際し、遺体は広陵の北門に晒され、路人がひそかにこれを埋めた。
- 当時、民の多くが瘧(おこり)を病んでおり、みなその墳墓の上の土を取って水で服すると病はたちまち癒えたといい、土を掘っては新しい土に替えるうち、しだいに高い墳となった。
- 徐温らはこれを憎み、その屍を掘り起こして雷公塘に投げ込んだ。のち徐温は病にかかり、朱瑾が弓を引いてこれを射る夢を見た。徐温は恐れてその骨を網ですくい、塘のかたわらに葬り、その上に祠を立てた。
- 先に朱瑾はつねに疽を患い、医工がこれを診て顔色を変えたが、朱瑾は「ただ治療すればよい。私は病で死ぬ者ではない」と言い、はたしてその通りになった。享年五十二であった。