十国春秋卷八 列傳 李承嗣
要約
李承嗣は鴈門の人で、もとは河東の驍将であった。汴の兵に逼られた朱瑾を救援すべく史儼とともに騎兵を率いて南下し、瑾とともに太祖のもとへ奔って淮南行軍副使に署せられた。汴の将葛従周が寿州に、龐師古が清口に迫って淮南が大いに恐れたとき、太祖が寿州へ先に向かおうとするのを「まず清口を撃つべきだ、龐師古が敗れれば葛従周は自ら走る」と説き、果たしてその通りとなって清口の大勝を導いた。太祖は宴を開いて銭一万緡を賞し、表を奏して鎮海軍節度使を領させた。天復二年、太祖が汴を攻めるため出征した際には淮南の軍府の事を権知し、その安定に尽くした。
高祖の代には行軍副使から出て楚州刺史に転じた。太祖・史儼とともに邸宅・姫妾まで厚く賜与され、二人は太祖父子のために力を尽くしてしばしば功を立てたが、ついに故郷河東へ帰ることなく淮南で没した。史儼も官を重ねて滁州刺史に至った。李承嗣が親しくしていた淮南副使陸洎との間には、冥府「陽明府」への任官を予告する夢や、後年二人が隣り合って埋葬されるという不思議な因縁が語られ、その予言はことごとく的中したという。子の禪の代にも白い蝙蝠が現れ妻の死を予兆したという異変の逸話が伝わる。
現代語訳全文
淮南に帰した河東の驍将
- 李承嗣は鴈門の人で、もとは河東の驍将であった。汴の兵に逼られ、史儼とともに朱瑾に従って南へ太祖のもとへ奔り、淮南行軍副使に署せられた。
- このとき汴の将葛従周は寿州に屯し、龐師古は清口に営して淮を侵していたため、淮の人々は大いに恐れた。太祖はまず寿州に趣こうとしたが、李承嗣は「まず清口に向かうにしくはない。龐師古が敗れれば葛従周は自ら走るであろう。これが敵を制する上策である」と言い、ほどなく果たしてその見立て通りになった。
- 太祖は酒宴を高く設け、李承嗣に銭一万緡を賞し、表を奏して鎮海軍節度使を領させた。
- 天復二年、太祖は兵を率いて汴を攻めたが、李承嗣に淮南の軍府の事を権知させ、境内が乱れなかったのは李承嗣の力によるものであった。
- 高祖の時に淮南行軍副使に改め、軍府の事に参預させ、ついで出でて楚州刺史となった。
- 太祖は李承嗣と史儼を甚だ厚遇し、邸宅・姫妾もみなそのすぐれたものを選んで賜った。そのため二人は太祖父子のために力を尽くし、しばしば功を立てたが、ついに相前後して死に、二度と(河東へは)帰らなかった。史儼は官を重ねて滁州刺史に至った。
- 李承嗣はつねに淮南副使の陸洎と親しかった。天祐二年九月、李承嗣が陸洎のもとを訪れると、陸洎は語って言った。「昨夜、騎兵に召されて夢で一つの大きな役所に至りました。『陽明府』というところです。門に入り階下に進むと、一人の紫衣の者が笏を秉って書を取り出し、宣して言うには、『陸洎は三世にわたって人として慈孝であった。陽明府侍郎判九州都監事に任ずべし。来年秋九月十七日に着任せよ』と。そのまま騎兵に送られて帰りました」と。
- 翌年九月、李承嗣がまた陸洎のもとを訪れて「君はまもなく着任するはずだが、変わりないか」と言うと、陸洎は「府中の準備はすでに整っており、明朝に出発することになっています」と答えた。
- 李承嗣は「私は日頃から君を長者として重んじてきたが、いま言うことはいささか妄言に近いのではないか」と言うと、陸洎は「ただ君と私には縁がある。いつか必ず隣り合って葬られるでしょう」と言った。李承嗣は黙って立ち去った。
- ほどなく陸洎は卒し、茱萸湾に葬られた。数年後、李承嗣もまた陸洎の墓の北に葬られ、その言葉ははたして験(しるし)となった。
禪(李承嗣の子)――異変の記録
- 禪は李承嗣の末子である。穏やかで物事に通じ、父の風があった。広陵の宣平里に住んでいたある日、昼寝をしていると庭前に白い蝙蝠が庭をめぐって飛んでいた。家の童僕たちが箒でこれを打とうとしたが当たらず、しばらくして戸外に出てふいに見えなくなった。
- この年、禪の妻が卒し、柩車が出入りした道はまさにその蝙蝠が飛び来たった場所であった。人々はみなこれを異とした。