十国春秋十國春秋卷八 吳八 列傳(馮弘鐸・朱瑾・李承嗣・彭彦章/李儼・趙匡凝・鍾匡時・雷彦恭・譚全播)
馮弘鐸 ── 張雄との挙兵
- 馮弘鐸は泗州漣水の人。騎射に巧みで、物腰は穏やかで儒者のようであった。同郷の張雄とともに武寧軍の偏将だったが、ともに節度使の時溥に疑われた。
- 禍を恐れた二人は兵三百を合わせて長江を渡り、白下に塁を築き、蘇州を取って拠った。次第に人を集め、戦艦千余・兵五万に達し、みずから天成軍と号した。
- 鎮海節度使の周宝が敗れて常州へ逃れると、高駢の将・徐約の兵が精鋭だと聞き、これを誘って周宝を撃たせ、蘇州を与えた。張雄と弘鐸は軍勢を海上に隠し、別将の趙暉に上元を拠らせて舟と兵器を与えた。周宝の兵は散じて多くが趙暉に降り、その衆は数万に達した。
- 張雄は上元を西州とし、台城を府にしようとして、旌旗も衣服も王者になぞらえた。
楊行密への帰順
- 太祖(楊行密)が揚州を囲んだとき、畢師鐸は財宝を厚く贈って張雄を誘い、連和した。雄は軍を率いて海路を進み東塘に駐屯した。当時揚州にいた秦彦は僕射の告身を雄に、尚書の告身を弘鐸に授けたが、結局戦わずに兵を解いて帰った。
- 趙暉がしばしば長江の水路を掠奪したので、雄は暉を撃ち殺してその衆を穴埋めにし、自ら上元に駐屯した。大順初(890年)、唐は上元を昇州とし、詔して雄を刺史とした。まもなく没した。雄は部下をよく統御したので人々に慕われ、廟が建てられた。
- 景福二年(893年)、弘鐸が代わって刺史となった。乾寧二年(895年)、州を挙げて太祖に付き、久しくして武寧軍節度使に表授された。
- 弘鐸は表向き好誼を結んでいたが、兵と艦が充実しているのを恃んで潤州を取ろうと謀り、食客の尚公廼を遣わして太祖に説かせた。太祖は容れなかった。
- おりしも大将の田頵が宣州で工人を集めて艦を造り、密かに弘鐸を狙っていた。弘鐸は宣州と揚州の間にあって内心ますます不安になった。さらに州にはたびたび怪異が起こり、大風が家屋を吹き飛ばし巨木が舞い上がったので、州人は「州の主が代わるぞ」と騒いだ。
- そこで弘鐸は軍を率いて南下し田頵を襲ったが、頵は曷山で迎え撃ち、弘鐸は大敗した。残兵を集めて海上へ逃れようとした。
- 太祖は弘鐸が再起するのを恐れ、人を遣わして東塘で迎え労わせ、「勝敗は兵家の常だ。今なお衆は強く、一戦の失敗くらいでなぜ海島へ身を捨てるのか。我が府は狭いが君を容れるには足り、将吏それぞれに居場所を得させよう。揚州が欲しいのなら、公に譲ってもよい」と伝えさせた。弘鐸の全軍は声を上げて泣いた。
- 太祖は十数人を従え、飛艫を漕がせ、常服で武器も持たずにその軍中に入り、手を取って慰め励まし、弘鐸を連れて帰り、淮南節度副使に表した。弘鐸は以後二度と叛かなかった。
朱瑾 ── 出自と兖州奪取
- 朱瑾は宋州下邑の人。唐の天平節度使・朱宣の従弟である。若くして朱宣に従って鄆州に住み、軍校に補された。豪放で大志があった。
- 兖州節度使の斉克譲がその人柄を愛して娘を嫁がせた。瑾は親迎に赴くにあたり壮士を選んで輿担ぎとし、輿の中に兵を伏せた。夜に兖州へ入ると伏兵を発して克譲を捕らえ、みずから留後を称した。唐の僖宗はそのまま瑾を泰寧軍節度使に任じた。
朱全忠との長い攻防
- 瑾は朱宣とともに汴州で秦宗権を破った。朱全忠は瑾が宣武軍の兵卒を誘って連れ帰ったと責め、朱珍を遣わして瑾を攻めて曹州を取り、また濮州を攻め、全忠自身は鄆で朱宣を攻めた。
- 瑾兄弟は互いに往来して救い合い、十余年にわたり大小数十戦、全忠としばしば勝敗を分けた。
- 全忠は朱宣の将・賀瓌と何懐宝、および瑾の兄・瓊を捕らえ、瓊らを兖州の城下に連れてきて「兄は敗れ、瓊らはすでに降った。早く自ら帰順せよ」と瑾に告げた。
- 瑾は偽って承諾し、牙将の胡規に書と幣を持たせて軍門に降を請わせた。全忠は喜んで自ら延寿門まで出て瑾と語った。瑾が「瓊を寄越してくれれば符印を渡す」と言うと、全忠は信じて客将の劉捍に瓊を送らせた。
- 瑾は壮士の董懐進を橋の下に伏せ、単騎で瓊を迎え、手を振って劉捍に「瓊だけ来させてくれ」と言った。瓊が進み出ると懐進が躍り出て捕らえ、そのまま門を閉ざして、先に降ったことを責めて斬り、その首を城外に投げた。
- 全忠は落とせぬと見て兵を残して囲ませたまま去った。瑾は城に籠って守った。
淮南への亡命
- 朱宣も鄆州で敗れたので、瑾は河東に援軍を乞うた。河東の将・李承嗣と史儼が騎兵五千で救援に来た。
- 全忠は朱宣を破って戻ると急ぎ兖州へ迫った。城中の食糧が尽き、瑾は承嗣らとともに豊・沛のあたりへ食糧を求めて出たが、その隙に汴兵が突入し、瑾の将・康懐貞らが城ごと降った。
- 瑾は麾下の兵を率いて沂州へ走ったが、沂州刺史の尹処賓は受け入れず、次いで海州へ走った。汴兵が急追したので、承嗣・史儼とともに太祖のもとへ奔った。
- 淮南の人はその勇を称え、その幼名から「朱愍哥」と呼んだ。太祖は瑾の来投を喜び、高郵まで迎えに出て玉帯を解いて贈り、瑾を武寧軍節度使に表して行軍副使とした。瑾の妻は結局全忠の手に落ち、のち尼となった。
- 当時、呉の兵は淮人が多く、淮人は弱くて戦に堪えなかったが、瑾の精騎を得て軍勢はにわかに振るった。
- その年、汴将の葛従周と龐師古が寿州を攻めた。太祖は瑾を用いて清口でその軍を大破し、師古を斬った。累次の上表により瑾は行営副都統・平盧軍節度使・同中書門下平章事となった。
徐知訓誅殺と最期
- 太祖が薨じ、烈祖(楊渥)・高祖(楊隆演)が相次いで立ったがいずれも年少で、徐温とその子・知訓が政を専らにした。二人は瑾を恐れて除こうとし、瑾もまた常に知訓を殺そうと謀っていた。
- 瑾は毎月一日に愛妾を知訓のもとへ挨拶に遣わしていたが、知訓は無理に関係を結んだ。妾が帰って訴えると瑾は憤慨し、しばしば高祖に徐氏を誅して国の患いを除くよう勧めたが、高祖にはできなかった。
- やがて知訓は瑾の位が自分の上にあるのを憎み、泗州に静淮軍を建てて瑾を節度使として出した。瑾はますます恨み、赴任前に知訓を呼んで夜の酒宴を催した。
- 翌日、知訓が礼に来ると、瑾はまた酒を設け、自ら盃を捧げ、寵妓に歌わせて酒を勧め、愛馬を献じて寿を祝った。知訓が喜んだところで瑾は堂に上げ、妻を呼び出して拝させた。知訓が答拝しようとした瞬間、瑾は笏で打ち倒し、伏兵が戸口から躍り出て殺した。
- 瑾はあらかじめ二頭の悍馬を庭に繋いでおき、知訓が入ると馬を放って蹴り合わせ鳴かせたので、外の者はこの異変に気づかなかった。
- 瑾はその首を提げて高祖のもとへ駆けつけ、「今日、呉のために患いを除きました」と言った。高祖は恐れて衣で顔を覆い、「舅上のご随意に。この件は私の関知するところではない」と言って、そのまま奥へ入ってしまった。
- 瑾は憤って「小僧では大事は成らぬ」と言い、知訓の首を柱に叩きつけ、剣を提げて出た。府門はすでに閉ざされており、垣を越えようとして足を折った。逃げ道が絶えたと悟り、「私は万人のために害を除いたのに、我が身一つがそのために死ぬのか」と大声で叫び、自刎した。
- 潤州にいた徐知誥は乱を聞いて兵を広陵へ進め、瑾の一族を誅した。瑾の妻・陶氏は刑に臨んで泣いた。その妾が「なぜ泣くのですか。今すぐ公にお会いできるのに」と言うと、陶氏は涙を収め、喜んで刑に就いた。聞く者は哀れんだ。陶氏はもと潯陽公・陶雅の娘である。
死後の顛末
- 瑾は江淮に名が重く、人々に畏れられていた。その死後、屍は広陵の北門にさらされたが、路人がひそかに共同で埋葬した。
- 当時、民に瘧を病む者が多く、みなその墳上の土を取って水に溶いて飲み、「病が治る」と言った。土は取るたび新たに補われ、次第に高い墳となった。
- 徐温らはこれを憎み、屍を掘り出して雷公塘に投じた。のち徐温が病んで、夢に瑾が弓を引いて自分を射るのを見た。徐温は恐れ、その骨を網ですくって塘のほとりに葬り、その上に祠を立てた。
- これより先、瑾は疽を患い、医者が診て顔色を曇らせたことがあった。瑾は「ともかく治療せよ。私は病で死ぬ者ではない」と言い、果たしてその通りになった。没年五十二。
李承嗣
- 李承嗣は雁門の人。もと河東の驍将で、汴兵に追われて史儼とともに朱瑾に従い南へ奔った。太祖は淮南行軍副使に任じた。
- 当時、汴将の葛従周は寿州に駐屯し、龐師古は清口に営して淮を侵し、淮の人々は大いに恐れた。太祖はまず寿州へ向かおうとしたが、承嗣は「先に清口へ向かうのがよい。師古が敗れれば従周は自ずと退く。これが敵を制する上策だ」と言った。果たしてその通りになり、太祖は酒宴を開いて承嗣に銭一万緡を賞し、鎮海軍節度使を領させると表した。
- 天復二年(902年)、太祖が兵を率いて汴を攻めたとき、承嗣は淮南軍府事を代行し、境内に騒ぎがなかったのは承嗣の力であった。
- 高祖のとき淮南行軍副使に改められて軍府の事に参与し、のち楚州刺史として出た。
- 太祖は承嗣と史儼をたいそう厚遇し、屋敷も姫妾もとくに優れたものを選んで与えた。そのため二人は太祖父子のために力を尽くし、たびたび功を立て、ついに先後して呉で没し、北へ帰ることはなかった。史儼は累進して滁州刺史となった。
陸洎の夢と符合
- 承嗣は淮南副使の陸洎と親しかった。天祐二年(905年)九月、承嗣が洎を訪ねると、洎は夢の話をした。
- ── 騎兵に召されて大きな役所に至ると「陽明府」とあり、門を入って階下に進むと、紫衣の者が笏を持って書を取り宣して言うには、「洎は三代にわたり人として慈孝であった。陽明府侍郎・判九州都監事とする。来年の季秋(九月)十七日に着任せよ」。そして騎兵に送り返させた、というものだった。
- 翌年九月、承嗣がまた洎を訪ねて「君はそろそろ着任の頃だが、変わりないか」と問うと、洎は「府ではすでに支度が整っており、明朝出立する」と答えた。承嗣が「私は日ごろ君を長者として重んじてきたが、それは妄言に近くはないか」と言うと、洎は「君と私は縁がある。いずれきっと隣り合うことになろう」と言った。承嗣は黙って去った。
- ほどなく洎は没して茱萸湾に葬られた。数年後、承嗣は洎の墓の北に葬られ、その言葉は的中した。
李禅(李承嗣の子)
- 禅は承嗣の末子。温和で洗練され、父の風格があった。
- 広陵の宣平里に住んでいたころ、ある日昼寝をしていると庭前に白い蝙蝠が現れて庭を巡り飛んだ。家僮たちが箒で打とうとしたが当たらず、しばらくして戸外に出るとふっと消えた。
- その年、禅の妻が没し、その霊柩車の出入りする道が、まさにあの蝙蝠が飛び回った所であった。人々は不思議がった。
彭彦章
- 彭彦章は廬陵の人。吉州刺史・彭玕の弟。
- 天祐初、彦章は袁州刺史となり、撫州の危全諷らと連合して洪州を攻めた。大将の周本が全諷を撃破し、勢いに乗って袁州を攻め、彦章を捕らえて帰った。高祖は百勝軍使に任じた。
- 武義元年(919年)、呉越の兵が東洲から侵入したので、彦章に裨将の陳汾とともに防がせた。浪山江で戦って彦章の軍は大敗し、陳汾は兵を擁したまま救わず、彦章は戦死した。
- 高祖は陳汾を誅して家産を没収し、その半分を彦章の家に賜り、妻子を終身扶養した。
李儼 ── 唐の使者として淮南に留まる
- 李儼は唐の宰相・張濬の末子。初名は休、一名は播。昭宗に仕えて校書郎から起家し、左金吾将軍を歴任した。
- 天復二年(902年)、今の姓名を賜って江淮宣諭使となり、御札を携えて巫峡から間道を潜行し、太祖を東面行営都統・中書令に拝し、爵を進めて呉王とし、朱全忠討伐を命じた。
- まもなく全忠が鳳翔を陥とし、さらに長水で張濬を殺したため、儼は広陵に留まって帰れなくなった。
- 広陵で太祖はたいそう儼を尊崇し、王人(天子の使者)の礼で遇した。着任当初、太祖は制敕院を建て、国に封拝があるたびまず儼に告げてから下した。太祖の死後も、諸将は儼のもとへ赴き、承制して烈祖を弘農郡王に任じた。
- 久しくして貧窮し寄る辺なく、海陵に寓居して朱瑾とかなり親しく交わった。徐知訓が殺されると、徐温は儼が共謀したと疑い、ついに殺された。国人はこれを冤罪とした。
趙匡凝 ── 襄陽の自立
- 趙匡凝、字は光儀、蔡州の人。父の德諲は秦宗権に仕えて申州刺史となった。宗権が叛くと、德諲は襄陽を攻め落とし、のち山南東道七州を挙げて朱全忠に降った。
- 全忠は德諲を行営副都統・河陽・保義・義昌三節度行軍司馬に表し、兵を合わせて蔡を攻めて破った。德諲の功は多かったが、まもなく没した。匡凝はそこで自立した。
- 当時、成汭が死んで雷彦恭が荊南を奪い取っていたが、匡凝は弟の匡明を遣わして彦恭を追い払った。全忠は匡凝を荊襄節度使に、匡明を荊南留後に表した。
- 当時、唐は衰え、藩鎮はもはや朝廷に仕えなかったが、ひとり匡凝兄弟だけは貢賦を絶やさなかった。
- 匡凝は容貌が堂々として、性は謹厳、身なりを整えるのを好み、学問を好んで数千巻の書を集め、政には威厳と恩恵があった。
全忠との決裂と淮南への亡命
- 汴人が兖州を攻めたとき、朱瑾は河東に救援を求め、河東の将・李承嗣と史儼が兵を率いて救ったが、瑾は敗れて承嗣らとともに南へ奔った。晋王李克用は書と幣を持たせて匡凝に道を借り、承嗣らを返すよう求めさせたが、晋王の使者は汴人に捕らえられ、全忠は激怒した。
- 当時、汴兵はすでに兖州を破っており、氏叔琮・康懐貞らを遣わして匡凝を攻めさせた。叔琮は泌・随の二州を取り、懐貞は鄧州を取った。匡凝は恐れて盟を請い、攻撃は止んだ。
- 全忠が昭宗を弑して唐に取って代わろうと謀ったとき、匡凝兄弟が従わないのを恐れて使者を送って告げた。匡凝は使者に向かって涙を流し、「唐の恩を深く受けている。みだりに他意を抱くことはできない」と答えた。
- 全忠は楊師厚を遣わして攻めさせ、自らは漢北に兵を置いて後詰めとした。匡凝は敗れ、小舟で太祖のもとへ奔った。師厚が進んで荊南を攻めると、匡明は蜀へ奔った。
- 匡凝が広陵に至ると、太祖は会って戯れに「君は鎮にあったころ、軽車重馬で毎年梁に貢いでいたのに、今敗れて私のところへ来るのか」と言った。匡凝は「私は代々唐の臣で、歳時の職貢はしましたが、賊に貢いだのではありません。今、賊に従わなかったがために力尽きて公に帰したのです。生かすも殺すも公次第です」と答えた。太祖は厚遇した。
- 太祖が薨じると、烈祖はやや礼を欠くようになった。烈祖が宴で青梅を食べていたとき、匡凝は烈祖を見て「あまり食べるな、小児の熱を発するぞ」と言った。諸将はこれを倨慢とし、匡凝は海陵に移され、のち徐温に殺された。匡明は蜀で没した。
鍾匡時
- 鍾匡時は洪州高安の人。父の鍾傳は鎮南軍節度使であった。
- 当時、危全諷・韓師徳らが諸州を分割して拠り、鍾傳はいずれも統べられなかったので兵で攻め、次第に従わせた。ただ撫州を守る危全諷だけは落とせず、自ら兵を率いてその城を攻めた。
- 城中で夜に火が起こり、諸将が急攻を請うたが、鍾傳は「君子は人の危難につけこまぬと聞く」と言い、地を掃き清めて天を祭り、城に向かって再拝して「全諷が降らないのは民の罪ではない。どうか火を止めたまえ」と祈った。全諷はこれを聞き、翌日ついに従い、娘を匡時に嫁がせたいと申し出た。
- 鍾傳は江西に三十余年あり、累進して太保・中書令、南平王に封ぜられた。天祐三年(906年)に没した。
- 匡時はみずから留後を称して唐に命を請うた。全諷は「鍾郎に節度使を三年やらせておこう。その後は私が自らやる」と言った。
- やがて鍾傳の養子・延規が匡時と後継を争って烈祖に兵を乞い、烈祖は秦裴らを遣わして匡時を攻めた。匡時は敗れて捕らえられ、広陵へ送られた。
- ほどなく全諷が江西で兵を起こし、鍾氏の旧領を回復しようと謀ったが、大将の周本に敗れ、江西はついに呉の版図に入った。
雷彦恭
- 雷彦恭は武貞節度使・雷満の子。満は朗州に拠り、沅水を引いて城の濠とし、その上に長橋を架けて攻めるに難い構えとし、また深い池を掘った。
- 府中を訪れる客があると池のほとりで宴を張り、池の水を指して「蛟龍や水怪はみなここに棲む。これは水府だ」と言い、酒がまわると座上の器を池に投げ入れ、裸になって飛び込んで器を取り、水上で遊び、しばらくして上がって衣を整え、また座について平然としていた。その無頼な略奪ぶりは天性のものであった。
- 天祐初、満が没し、彦恭が節度使を継いで太祖に付いたが、やはりしばしば略奪して荊湖の患いとなった。
- やがて楚王馬殷が兵を発して彦恭を攻めたが、彦恭は濠を恃んで拒み、一年余り破れなかった。天祐五年(908年)夏、楚兵が朗州を陥とし、彦恭は小舟で呉へ奔った。高祖は淮南節度副使とした。楚人は彦恭の弟・彦雄ら十人を捕らえて梁へ送り、汴の市で斬った。澧州・朗州はそのまま楚に帰した。彦恭はのち広陵で没した。
譚全播 ── 盧光稠を推し立てる
- 譚全播は南康の人。同郷の盧光稠と親しかった。光稠は容貌こそ雄偉だが他に才はなく、全播は勇敢で識見と計略があったが、ひとり光稠の人物を高く買っていた。
- 唐末に南方で群盗が起こると、全播は光稠に「天下は騒然としている。これこそ我らの時だ。いたずらに貧賤に甘んじるべきではない」と言い、ともに兵を集めて盗となった。衆は全播を主に推したが、全播は「諸君はただの賊で終わるつもりか、それとも功を成したいのか。功を成すなら良き帥を得ねばならぬ。盧公こそ堂々たる、諸君の主にふさわしい人物だ」と言った。衆が上辺だけ承知すると、全播は怒って剣を抜き木を三度斬り、「我が令に従わぬ者はこの木のようになる」と言った。衆は恐れ、光稠を帥に立てた。
虔州・韶州・潮州の攻略
- 当時、王潮が嶺南を攻め陥としていた。全播は王潮を攻めて虔州・韶州の二州を取った。
- また光稠の弟・光睦を遣わして潮州を攻めさせた。光睦は勇を好み軽々しく進むので、全播は慎重にせよと戒めたが聞かず、必ず敗れると見て奇兵をその退路に伏せた。光睦は果たして敗走し、潮州の人が追撃したところで、全播は伏兵で迎え撃って大破し、潮州を取った。
- そのころ劉隠が南海で起こり、光睦を撃退し、数万の兵で韶州を攻めた。光稠は大いに恐れ、全播に「虔・韶はいずれも公が取ったもの。今日、公でなければ守れぬ」と言った。全播は「劉隠は与しやすいと承知している」と答え、精兵一万を選んで山谷に伏せ、表向きは城南に戦場を整え、劉隠に決戦の期日を告げた。老弱五千で挑戦させ、戦いの最中に偽って敗走すると、劉隠は急追し、伏兵が起こって劉隠は大敗した。
- 光稠が戦功を評定すると、全播はすべて諸将に譲った。光稠はますます賢者と認めた。
虔州の主となり呉に帰す
- 天祐六年(909年)、光稠は高祖に帰付し、あわせて虔・韶二州をもって梁にも命を請うた。梁の太祖は百勝軍を置いて光稠を防禦使兼五嶺開通使とし、また鎮南軍を建てて留後とした。
- まもなく光稠が病み、符印を全播に託そうとしたが、全播は受けず、光稠の死後はその子・延昌を立てて仕えた。
- 延昌が遊猟にふけると、その将・黎球が門を閉ざして延昌を拒み、延昌は殺された。球はさらに全播を殺そうと謀った。全播は恐れて病と称して出仕しなかった。
- やがて梁は黎球を防禦使に任じたが、球は急病で死に、その将・李彦図が自立した。全播はますます恐れ、重病と称して門を閉ざし人と絶った。彦図は疑って人に様子をうかがわせたが、全播は病が重いふりを装って難を免れた。
- 彦図が死ぬと、州人は連れ立って全播の邸を訪れ、門を叩いて就任を請うた。全播は起って梁に命を請い、防禦使を拝した。
- 全播は虔州を治めること七年、善政があった。高祖が劉信を遣わして虔州を破らせ、雩都で全播を捕らえて広陵へ連れ帰り、右威衛将軍・領百勝軍節度使とした。まもなく没した。年八十五。