十国春秋卷七 列傳 王輿

要約

王輿(あるいは璵)は鎮東大将軍王綰の弟で、周本に従い危全諷討伐に参陣した際、本が指した要害の水柵攻略を自ら願い出て、「この柵こそ必ず争うべき地です」と見抜いた眼力を本に喜ばれ、軽舟でその前鋒を破って諸軍の勝利を導き、諸軍都虞侯に進んだ。睿帝の代、光州刺史として厚く信任されたが、甥の海州都指揮使伝拯が唐に叛いた際、内通の誘いを受けても使者を捕らえて上聞し忠節を示した。以後、控鶴都虞侯、左宣威統軍、鎮海節度留後・金吾衛大将軍を歴任した。

南唐が禅譲を受けると輿は睿帝(讓皇)に従って潤州に至り、その後鄂州に移鎮した。かねて不仲であった監軍甄廷堅が二心ありと誣告された際には、宮中からの使者が到着する前に密かにこれを廷堅に知らせ、直ちに闕に帰って弁明するよう機転を利かせて難を免れさせ、人々はその長者らしさを称えた。若い頃、潤州攻めで巨弩の矢が両耳を貫通しながらも命に別状なく老いても耳が聞こえなくなることはなかったといい、潁州攻めでは夢に見た流星の予兆どおり城壁からの投石を辛くも免れるなど、不思議な逸話が数多く伝わる。中主の時、同平章事を加えられ、保大二年(944年)、七十四歳で没した。

現代語訳全文

王輿

  • 王輿(あるいは璵に作る)は、鎮東大将軍綰の弟である。はじめ小校となり、周本に従って危全諷を攻めた。戦に臨んで、本は賊の水柵を見て諸将を配置し、傍らの山頭の小さな営を指して輿に、「お前は行って私のためにあれを取ってこい」と言った。輿は唯々として応じたがすぐには行かなかった。本が「お前はそこへ行くのを憚っているのか」と言うと、輿は「公は必ずしも輿を不武(武勇に欠ける)とはお考えでないでしょう。この柵を得ることを請います。捨てて彼の方(小さな営)へ向かってどうしましょうか」と言った。本は大いに喜んで、「お前もまたこれが必ず争うべき地だと分かっているのか」と言い、そこでこれを命じた。輿は軽舟に乗ってその前鋒を襲い破り、そのまま柵を排除して入り、諸軍が続いて進み、賊は大いに潰えた。功を積んで諸軍都虞侯に遷った。
  • 睿帝の時、大いに信任されたが、久しくして光州刺史として出された。これより先、兄綰の子伝拯が海州都指揮使であったが、叛いて唐に附いた。輿が光州にいると聞くと、使者を遣わして意を通じさせようとしたが、輿はその使者を捕らえて上聞した。これによって郡を罷めることを求め、控鶴都虞侯に進み、その後左宣威統軍となり、鎮海節度留後・金吾衛大将軍を歴任した。
  • 南唐が禅譲を受けると、輿は睿帝に従って潤州に至り、鄂州に移鎮した。もとより監軍の甄廷堅と不仲であったが、ちょうど廷堅が二心を抱いているとの誣告を受け、南唐先主は使者を遣わして廷堅を械(かせ)して官吏に引き渡そうとした。まだ到着しないうちに、輿はこれを察知して密かに廷堅に告げ、そこで謀って「今、ただ即日闕に帰って罪を待つべきです。中使(宮中からの使者)と会ってはなりません」と言った。廷堅は恐れおののき、他の謀を考える暇もなく、そのままその計に従って難を免れた。これより人々はその長者らしさを推した。中主の時、同平章事を加えられ、保大二年(944年)に卒した。享年七十四。
  • 輿は若い頃、従軍して潤州を攻めた際、巨弩に射られ、矢は右耳に当たって左耳から抜け、さらに傍らの一人に当たってその者はたちどころに死んだ。輿は支えられて営に戻り、百日あまり臥せったが、そのために特に害はなく、老いてもなお耳が聞こえなくなることはなかった。また潁州を攻めた際、夜に道士が現れて「流星が下ってくることがあれば、それを避けることができれば富貴になるだろう」と告げる夢を見た。営門に寄りかかって士卒を駆り立てて城に登らせたとき、城上から発射された機械仕掛けの石が営門に命中し、鎧の半分が粉々に砕けたが、輿は傷つかなかった。輿は「夢に見た流星とはこれのことだ」と言い、世の人々は皆これを不思議に思った。輿もまたこれによってかなり自負するところがあった。

史論

評して言う。周本・李徳誠は共に楊氏の勲臣で位は顕官に列したが、あるいは徐広が涙を流したような心を抱き、あるいは范雲が勧進したような術に倣った。その事跡は同じでないとはいえ、その志もまたやや異なるところがある。王安は器量をもって称され、王輿は温厚さをもって知られた。二姓に歴仕し、功績は輝かしいが、要するに南平王(李徳誠)と同日には語れないものである。