十国春秋卷七 列傳 李德誠

要約

李徳誠は広陵の人(一説に西華の人)で、若くして宣州節度使趙鍠に給使として仕えた。太祖の攻撃で鍠が敗れ側近が皆散り去る中、徳誠だけは韓球とともに最後まで従い、疫病で自ら赴けなかった説得の使いを球に代わらせたところ球が斬られ、徳誠は同日病が癒えたという不思議な逸話も伝わる。この義に感じた太祖は宗女を娶らせて重用し、江南馬歩軍使に任じた。安仁義の潤州包囲戦では、諸将が城上の仁義をこぞって罵る中ひとり礼を失わず、これに感じた仁義が「並外れた人相を持つ、いつか必ず貴くなるだろう」と称え、自ら弓矢を投げ捨てて降伏する一因となった。

その後、潤州・江州の刺史、撫州節度使を歴任し、呉建国後は平南大将軍・中書令、百勝軍節度使、太和年間には鎮南軍節度使を重ねた。南唐が禅譲を受けると、佐命の臣として百官の先頭に立って勧進し、太師・南平王、さらに趙王に封ぜられた。特段の大功があったわけではなかったが、時勢の巡り合わせと謙恭沈厚な人柄によって高位・富貴・長寿を得た稀有な例とされ、南唐でも金陵参内の折には内夫人が道で出迎えるなど破格の厚遇を受けた。昇元四年(940年)、七十八歳で没し、諡は忠懿。子二十八人があり、建勲は宰相、建封は将となった。

現代語訳全文

李德誠

  • 李徳誠は広陵の人である(一説には西華の人という)。若くして宣州節度使趙鍠に仕えて給使となった。太祖が宣州を攻め、鍠が既に敗れると、側近は皆散り去ったが、ただ徳誠だけは韓球とともに従って去らなかった。
  • 城中では再び裨将の周進思を推し立てて太祖に抵抗した。鍠は徳誠に城に入って進思を説得して降らせようとしたが、まさに行こうとしたときに疫病にかかり体が弱って行くことができなかったので、代わって球に命じた。球が進思のもとに至ると、進思はこれを斬ってその首を城外に投げた。徳誠はこの日すぐに病が癒えたので、人々は皆これを不思議に思った。
  • 鍠が死ぬと、太祖はその人物を義とし、宗女を娶らせた。常に征討に従って功を積み、江南馬歩軍使となった。諸将とともに安仁義を潤州で包囲した際、諸将は仁義が城に臨んで督戦するのを見るたびに必ずこれを罵倒したが、徳誠だけはそうしなかった。城が陥落すると、仁義は弓矢を手にして城上に座っていたが、突然徳誠が来たのを見ると、「お前は私に会っても礼を失わなかった。しかも並外れた人相を持っている。いつか必ず大いに貴くなるだろう。私はこれをお前の功としよう」と言い、そのまま弓矢を投げ捨てて捕らえられるに任せた。
  • 太祖はすぐさま徳誠を潤州刺史に任じた。まもなく江州に移り、その後撫州節度使に転じた。武義元年(919年)、平南大将軍・中書令を加えられた。しばらくして百勝軍節度使に改められ、太和年間中にはまた鎮南軍節度使となった。南唐が禅譲を受けると、太師を拝命し南平王に封ぜられ、進んで趙王に封ぜられた。
  • 徳誠は楊氏に仕えることが最も長く、南唐に至っては佐命の臣として百官を率いて先頭に立ち勧進した。もとより大功労は無かったが、ただ時勢の巡り合わせによって高位・富貴・長寿に至ったことは、世に稀に見るものであった。しかし人となりは謙恭沈厚で終始一貫していた。洪州から金陵に参内する際、南唐先主は内夫人を遣わして道でこれを迎え労わせ、百官は都門で列をなして拝謁し、参内して対面する日には朝堂に席を設けて待った。昇元四年(940年)に卒した。享年七十八。南唐先主は五日間廃朝し、諡は忠懿といった。子二十八人があり、建勲は宰相となり、建封は将となった。妻の楊氏は滕国君に封ぜられ、当世の栄誉とされた。
  • はじめ、南唐の信王景達は先に徳誠の娘を娶っていたが、先主が旧姓(李)に復すると、有司は同姓婚は礼に反するとした。先主は制して、「南平王は国の元老であり、婚姻を離すことはできない。信王妃は氏を改めてよい」とした。南平(徳誠)にとってもまた異例の恩典であったという。