陶雅
- 陶雅は合肥の人である。生まれつき太祖と同郷であった。太祖はこれを用いて将とし、舒州の盗賊呉逈・李本らを討伐平定した。雅に舒州刺史の職を代行させたが、まもなく許勍に襲われ、廬州に逃げ帰った。
- その後、九華で趙乾之を撃ってこれを破り、池州制置使に任じられ、団練使に改められた。雅は池州を治めるにあたり恵政を敷き、寛厚で民の心を得た。
- 景福年間の初め、田頵が歙州を攻めて久しく陥落しなかったが、歙州の人々は互いに手を取り合って城下に立て籠もり、「陶雅を刺史に得られれば、命令に従いましょう」と言った。太祖はそこで雅を歙州刺史に任命し、歙州の人々はこれを受け入れた。雅は礼を尽くして前刺史の裴樞に会い、これを送って朝廷に帰らせた。
- しばらくして、検校司空・潯陽公を加えられた。高祖の時、観察使に遷った。ちょうど李遇が徐温と不仲であったため誅殺されると、雅はこれを懼れ、劉威とともに広陵に赴いて腹心を打ち明けた。温は手厚くこれを慰め、歙州に帰らせ、累って都団練使を加えた。雅は歙州を治めること二十年に及んで卒した。子の敬昭は兵を率いて饒州・信州を襲撃して功があり、官は(欠)に至った。
- 雅は物静かで寡黙であり、用兵に長けていた。天祐年間中、西南招討使に任じられ、陳詢を睦州で援けた。ある夜、軍中が夜襲を受けて驚き、士卒の多くが塁を越えて逃げ去った。裨将の韓球が駆けつけてこれを告げたが、雅は安らかに横たわって動かず、しばらくすると自然に鎮まり、逃げた者は皆戻ってきた。まもなく浙の兵を大いに破り、王球・銭鎰を捕らえて帰った。世の人々は皆その臨機応変の謀略に服した。