十国春秋卷五 列傳 李神福

要約

李神福は洺州の人で、上党軍籍の出であったが淮海防衛の任からそのまま太祖に投じ親校となった。舒州が群盗に攻められた際、旗幟を多く用いて廬州の大軍が来援したかのように見せかけて賊を退散させ、都指揮使に至った。大順年間、孫儒が溧水まで迫ると、偽って弱さを見せて油断させ、夜襲で捕虜・斬首千を数える大勝を収めた。景福年間、孫儒がなお十倍の兵で迫ると、劉威とともに険要に拠って堅塁清野し、糧道を断って敵を疲弊させる持久策を献じ、太祖の銅官撤退案を退けさせた。

杜洪討伐では、城中の荻の山を望み見て、部将秦臯に川向こうで松明を掲げさせ梁の援軍来着と誤認させて焼き討ちを成功させるなど計略に長けた。荆南の成汭ら三方からの援軍が到着すると、連携のなさを見抜いて君山で迎撃し風上から火を放って大破、成汭は水に投じて死んだ。田頵が宣州で叛くと、妻子を人質に取られながらも使者を斬って大義を貫き、水戦で偽退却の計を用いて頵の軍を撃破、頵は自らも敗死に追い込まれた。功により寧国軍節度使に推されたが江西未平定を理由に固辞、再び鄂州攻めに赴いたが病を得て広陵に帰り没した。かねて頵の謀反を見抜いて太祖に警告していたことでも知られる。

現代語訳全文

淮南の名将

  • 李神福は洺州の人で、上党軍籍に属していた。唐の高駢が諸道行営都統を兼ねたとき、神福は州将に従って淮海を戍っていたが、それがきっかけで太祖に投じ、親校となった。従って廬州に至った。
  • ちょうど群盗が舒州を攻め、勢いが盛んであった。神福は多く旗幟を携え、間道から舒州に入ることを願い出た。しばらくして、舒州の兵は廬州の旗幟を立てて出撃し、地形に沿って布陣したふりをすると、賊は恐れて皆退散した。功を積んで都指揮使に至った。
  • 大順年間中、孫儒が淮蔡の兵を全て挙げて川を渡り、軍が溧水に至ると、太祖は神福にこれを防がせた。神福は偽って退いて弱さを見せ、儒の軍は本当に怯えていると思い、備えをしなかった。神福は精兵を率いて夜襲をかけ、捕虜・斬首は千を数えた。
  • その後、和州・滁州を攻め、康暀を降し安景思を敗走させ、神福の功が最も多かった。
  • 景福年間の初め、儒の兵がまた盛んになり、兵を率いて宣州に迫った。太祖は諸将に「儒の兵は我らの十倍もある。私は銅官に退いて守ろうと思うが、どうか」と言った。神福は劉威とともに答えて言った、「儒は根こそぎ遠くからやって来ているので、その利は速戦にあります。険要の地に駐屯し、塁壁を堅くして清野(田野の物資を除去する)し、その軍を疲れさせるべきです。時に軽騎を出してその糧食輸送を奪い、その捕虜・略奪品を奪えば、彼らは前進しても戦えず、退いても資糧が無くなり、座して捕らえることができます」。
  • まもなく蔡儔の乱が起こり、神福はこれを討伐して功があり、舒州刺史に遷った。その後さらに臨安で戦い、浙将の顧全武を捕らえた。
  • 神福が臨安の攻略が難しく、にわかには抜けないと考えたのは、彭城王銭鏐がその帰路を断つことを慮ったからで、そこで人を遣わして鏐の先祖の墓を守らせて鏐に媚び、また大いに旗や太鼓を張って偽の陣営を作って敵の心を疑わせ、結局和議を受けて帰還した。
  • 昇州刺史に転じ、間もなく鄂岳行営招討使に任じられて杜洪を撃った。兵が鄂州の城に至ると、神福は城中に荻(アシ)が積み重なっているのを望み見て、監軍の尹建峰を顧みて「今夜、公のためにこれを焼こう」と言ったが、建峰は生返事をして信じなかった。
  • 当時、洪はちょうど梁王朱全忠に救いを求めていた。神福は部将の秦臯を遣わして灄口に至らせ、木のこずえに松明を掲げさせた。洪は汴(梁)の兵が既に到着したと思い、荻を焼いてこれに呼応した。その謀略の巧みさはこの類が多かった。
  • しばらくして、荊南の成汭および馬殷・雷彦威の兵が相次いで到着し洪を救おうとした。神福はそれが到着したと聞くと、軽舟に乗ってこれを偵察し、諸将に言った、「彼らの戦艦は多いといっても、互いに連携していない。急いでこれを撃てば、汭は必ず捕らえられるだろう」。翌日、君山で迎え撃ち、大いにこれを破った。風に乗じて火を放つと、汭は水に投じて死んだ。全軍が引き上げた。この一戦は、洪はまだ滅ぼされてはいなかったが、諸鎮の気勢が挫かれ、兵の威声はこれによって大いに振るった。
  • ちょうど田頵が宣州で叛いたので、太祖は密かに神福を召して頵を討たせた。神福は洪がその先鋒を邀撃することを恐れ、荊南を攻める命を奉じていると触れ回り、兵を整え舟楫を用意し、日暮れになると川を東に下り、はじめて将士に頵を討伐する命令を告げた。
  • 神福の妻子はもともと金陵にあったが、頵は昇州を襲撃してその妻子を捕らえ、神福を招こうとして使者を遣わし、「公が機を見て(我らに帰順すれば)、公と土地を分かって王としよう。さもなければ妻子は皆殺しにする」と言わせた。神福は言った、「私は卒伍の身から呉王に従って事を起こし、今は上将となっている。義として妻子のために志を変えることはできぬ。頵には老母がいながらそれを顧みずに反乱を起こし、三綱すら知らぬ者だ。何を語り合う価値があろうか」。その使者を斬って自ら決別の意を示した。軍士たちはこれを聞いて皆感じ入り奮い立った。
  • 頵は将の王壇・汪建に水軍を率いさせて迎え撃たせ、吉陽磯まで進むと、壇・建は神福の子の承鼎を捕らえて彼に示した。神福は左右を叱咤して自分の子を射させ、その後諸将に語った、「彼は多く我らは少ない。奇策をもって勝ちを取るべきだ」。
  • 夕暮れに及んで合戦し、神福は偽って敗れたふりをして舟を引き流れを遡って上った。壇・建がこれを追うと、神福はまた戻って流れに従い下手からこれを撃った。当時、壇・建の楼船には大いに火炬(たいまつ)が並べられていた。神福は軍中に命じて火炬を望み見たらすぐさま攻撃させたところ、壇・建の軍は皆火を消して自ら旗幟を隠したが、それが我が軍と入り混じった。我が兵は風に乗じて火を掲げ、その艦を焼き払った。壇・建は大敗し、死んだ士卒は非常に多かった。
  • 頵は壇らが敗れたと聞くと、自ら水軍を率いて来て戦った。神福は言った、「賊は城を捨てて来た。これは天が滅ぼすということだ」。川に臨んで塁壁を堅くして戦わず、使者を太祖のもとに遣わして歩兵を発してその帰路を断つよう請うた。太祖は別に台濛を遣わして頵を撃たせ、頵は敗死した。
  • そこで神福を寧国軍節度使に任命したが、神福は江西がまだ平定されていないことを理由に固辞して拝命しなかった。翌年、また招討使に任じられ、兵を率いて鄂州を攻めたが陥落させられず、ちょうど病が発症したため広陵に帰り、まもなく卒した。
  • かつて頵が密かに異志を蓄えていたとき、神福はしばしば太祖に「頵は必ず反するでしょう、早くこれに手を打つべきです」と進言したが、太祖は「頵には大功があり、反する兆候もまだ露見していない。これを殺せば人々が自ら危ぶむであろう」と言った。後に果たしてその言葉の通りになり、人々は神福に先見の明があったと多く評した。