武徳九年:渭水便橋で突厥頡利可汗を単騎で退ける
- 突厥の頡利・突利二可汗が二十万の兵で渭水便橋の北まで迫り、使者執失思力を遣わして「二可汗の兵百万が至った」と誇示させた。太宗は「我は突厥と和親していたのに約を破って侵入し強盛を誇るとは」と思力を叱り、蕭瑀らの「礼をもって帰す」との進言を退けて思力を拘留した。太宗は自ら単騎で渭水の対岸に進み出て頡利と言葉を交わし、続いて六軍が到着すると軍容の盛んさと思力拘留の事実を知った頡利は大いに恐れ、盟を結んで退いた。
編者按(戈直)
- 唐が興った当初から突厥に侮られ二十万騎が渭水まで迫った事態を「肆なり」と評しつつ、太宗が単騎で威を示し、一矢も交えずに国を安んじ夷狄を退けたことを「不戦にして人を屈す」偉業と讃え、「英武」の名にふさわしいとする。
貞観初:嶺南の馮盎の反乱を武力によらず鎮める
- 嶺南の高州酋帥馮盎が兵を恃んで反乱したとの奏があり、太宗は藺謩に数十州の兵を発して討たせようとしたが、魏徴は「中国はまだ疲弊から回復しておらず、嶺南は瘴癘の地で遠征は続け難い。馮盎に反意があれば近隣州県を掠めるはずだが、数年兵を出していないのは反乱の実態がまだ形をなしていない証だ。使者を送って諭せば労せず自ら朝廷に至るはずだ」と諫めた。太宗はこれに従い、使者を派遣したところ嶺南は平定され、魏徴に絹五百疋を賜った。
編者按(戈直・唐氏仲友)
- (唐氏仲友の評より)讒言によって危うく忠良を害するところだったとし、魏徴の見識がなければ危うかったとする。太宗が兵を用いずに嶺南を安んじたことは十万の師に勝ると評す。
- (愚按)漢文帝の時、周勃の謀反を訴える者があったが薄太后が「周勃は既に兵権を握っていた時に反しなかったのに今さら反するはずがない」と諭し赦免させた故事と、魏徴の馮盎論が同じ理に基づくと指摘し、人情を察する明を評価する。
貞観四年:林邑への出兵要請を退ける
- 林邑国からの上表の言葉が不遜だとして有司が討伐を求めたが、太宗は「兵は凶器であり已むを得ずして用いるもの。苻堅は兵の強さを恃んで晋を討とうとして滅び、隋主も高麗遠征に固執して匹夫の手に死んだ。頡利も侵略を重ねて自ら滅んだ。林邑は山川険阻で瘴癘も多く、討っても得るものは少ない」として討伐しなかった。
編者按(戈直)
- 突厥を平定した直後に再び師を煩わせなかった太宗の判断を評価し、苻堅・隋主・頡利の例を鑑としたことを「鑑みるべきを知る」としつつ、晩年には遼水で兵を興して止まらなかったことを惜しむ。
貞観五年:康国の帰属申し出を辞退する
- 康国(漢の康居国)が突厥に敗れて南遷し、太宗に帰属を願い出たが、太宗は「昔の帝王は土地を広げて身後の虚名を求めたが民を苦しめるだけで益がなかった。康国が帰属すれば急難の際に救援せねばならず、万里の兵行は民を労するだけで、虚名のために民を損なうことは望まない」として帰属を受け入れなかった。
編者按(戈直・唐氏仲友・范氏祖禹)
- (范氏祖禹の評より)太宗が遠方懐柔の弊を知っていた点を評価しつつ、兵で得た地は郡県として領有しており、民を疲弊させる点では変わらないとも指摘し、康国を受け入れなかった点は後世の法となし得ると評す。
- (唐氏仲友の評より)古の荒服への対応そのものであり、他の夷狄にも同様に及ぼせばよかったのにそこまで徹底できなかったことを惜しむ。
- (愚按)漢の光武帝が西域の内属を天下未定を理由に許さなかった例と並べ、太宗が虚名のために民を損なうことを拒んだ判断を「開基の明王」にふさわしいと評す。
貞観十四年:高昌平定における侯君集の慎重な用兵
- 侯君集が高昌を討った際、高昌王麴文泰が病死し国人が動揺していると聞いた副将らは「二千の軽騎で奇襲すれば一挙に平らげられる」と進言したが、侯君集は「天子が高昌の驕慢を天誅するために我を遣わした以上、墟墓に乗じて奇襲するのは問罪の師ではない」として服喪を待ってから正々堂々進軍し、高昌を平定した。
編者按(戈直・唐氏仲友)
- (唐氏仲友の評より)高昌が西域の要衝にあるため太宗が討伐したと説く。
- (愚按)高昌平定によって唐の版図が東西九千五百里・南北一万九百余里に達し、唐の最盛期を成したとし、太宗の代の懐柔の道は漢武帝の遠征の功に勝るとも劣らないと評す。
貞観十六年:薛延陀への対処と和親策
- 薛延陀が北方で強盛になったことを憂えた太宗は「十万の兵で撃つか、婚姻によって縁を結ぶか」の二策を臣下に問い、房玄齢は戦乱直後で国力が回復していないことを理由に和親策を支持し、太宗はこれに従って新興公主を薛延陀に嫁がせた。
編者按(戈直・胡氏寅)
- (胡氏寅の評より)天子の娘を夷狄に嫁がせるのは不釣り合いであり、徳を修めて政刑を明らかにすれば自ら服従してくるはずで、和親は本来の策ではないと批判する。
- (愚按)漢高祖・唐高祖以来の和親の先例を挙げつつ、房玄齢ほどの賢相が兵戦を恐れて安易に和親を勧めたことを惜しみ、本来は徳教によって夷狄を治めるべきだったと論じる。
貞観十七年:蓋蘇文の弑逆と契丹・靺鞨による牽制
- 高麗の蓋蘇文が主君を弑して国政を奪ったことに太宗は憤ったが、すぐには兵を動かさず「契丹・靺鞨に高麗を攪乱させてはどうか」と房玄齢に問い、房玄齢は「陛下は兵力に余裕がありながら攻めないのは兵を止める武の徳だ。漢武帝の匈奴遠征、隋主の遼東遠征は民を貧しくし国を敗らせた例だ」と諫め、太宗もこれを是とした(通鑑によれば実際に諫めたのは長孫無忌ともいう)。
貞観十八年:褚遂良の高麗遠征反対
- 高麗莫離支の逆虐を討とうとする太宗に、褚遂良は「陛下の武略は隋末の乱を平らげ北狄・西蕃を制した実績があるが、高麗遠征がもし勝てなければ威信を損ない、再び兵を発することになれば安危は測り難い」と諫め、太宗も一旦はこれをもっともとした。しかし太宗は結局出征の意志を変えず、群臣の諫めも聞き入れなかった。
編者按(戈直・范氏祖禹・朱氏黼・唐氏仲友)
- (范氏祖禹の評より)高麗は突厥ほど強大でも高昌ほど近くもなく、他の三国同様に偏師を遣わせば足りたのに、太宗があえて親征にこだわったことを疑問視する。
- (朱氏黼の評より)隋煬帝の高麗遠征の失敗を目の当たりにしながら、太宗が自らの戦勝を恃んでその轍を踏んだことを惜しむ。
- (唐氏仲友の評より)魏徴亡き後、諫臣は褚遂良のみとなり、李勣ら武臣が辺功を主張したことで諫めが通らなかったと嘆く。
- (愚按)貞観十七年に太宗自身が「遠人服さざれば文徳を修めて来せしむべし」と語っていたにもかかわらず、間もなく高麗親征に踏み切ったことの矛盾を指摘し、房玄齢・長孫無忌・褚遂良らの諫めがことごとく容れられなかったことを惜しむ。李勣が褚遂良の諫めを阻んだことを厳しく批判する。
貞観十九年:尉遅敬徳の親征反対と道宗の戦功
- 太宗の高麗親征に際し尉遅敬徳は「車駕が自ら遼東に行けば留守の京師・州府が手薄になる。隋煬帝の親征の際に楊玄感が乱を起こした例もある。良将に委ねれば十分だ」と諫めたが、太宗は従わなかった。江夏王道宗は李勣とともに前鋒となり、盖牟城を落とした後の遭遇戦で「敵は遠来で疲弊しており、今撃てば勝てる」と主張して数百騎で敵陣に突入し、李勣と合撃して大破した。道宗は負傷し、太宗自ら針灸を施し御膳を賜った。
編者按(戈直・范氏祖禹)
- (范氏祖禹の評より)太宗の高麗遠征は国力を恃むだけでなく、若き日からの戦勝の記憶に駆られた「用兵を好む」性向によるものとし、天子の尊さで遠夷との一戦の勝敗を誇るのは器の小ささだと批判する。
- (愚按)漢の耿弇が光武帝を敵陣に迎え撃った故事と道宗の働きを並べ、臣子の義を尽くしたものと評す。
貞観二十二年正月:太宗「帝範」を著し用兵の道を説く
- 太宗は皇太子に与えた『帝範』十二篇の中で「兵甲は国家の凶器であり、好戦は民を凋ませ、忘戦は民を危うくする。全く廃してもならず常用してもならない」と説き、句践が蛙に敬礼して奮起し覇業を成した例、徐偃王が武備を怠って国を失った例を引いて武備の要を論じた。
編者按(戈直)
- 周公が『周礼』で軍制を詳細に定めた例を引き、兵は聖人が廃したものでもないとし、太宗の「全廃も常用もすべきでない」との言を万世に通じる道理だと評す。
貞観二十二年:房玄齢、臨終に高麗再征を諫める
- 房玄齢は病床にあって「陛下の威徳は既に古来の帝王を超え、突厥・鉄勒・高昌・吐谷渾を平らげ、高麗も既にその都を抜いて前代の恥をすすいだ。それにもかかわらず、恨みを晴らすため・新羅を救うためという小さな理由で兵を再興しようとするのは、得るところが小さく失うところが大きい」と上表し、老子の「知足不辱、知止不殆」を引いて用兵の中止を諫めた。太宗はその言を嘉したが従わなかった。
編者按(戈直・唐氏仲友・朱氏黼)
- (唐氏仲友の評より)易の既済・未済の卦を引き、武功が成った後になお戒めを説いた房玄齢の上表を評価する。
- (朱氏黼の評より)房玄齢が長年太宗の側近にありながら面と向かって諫めたことがなく、死に際してようやく上表したことを指摘し、太宗の晩年の様子を推し量れるとする。
- (愚按)房玄齢の上表が親征の当初でなく再挙の直前、しかも自身の臨終間際になされたことを惜しみ、太宗が「憂えてくれるのは分かるが」と述べつつなお従わなかったことを、後に病のため皇太子に聴政させることになった経緯と重ねて評す。
貞観二十二年:徐惠(充容)の上疏
- 女官の徐恵(充容)は、二十年余りの太平を経てなお功徳を誇らず封禅の儀も行わない太宗の謙徳を讃えつつ、「業が大きい者は驕りやすく、始めを善くする者は終わりを全うし難い」として、東の遼海の軍、西の崑丘の役による士馬の疲弊、力役の煩雑さ、土木の工事の重なりを憂え、珍玩・侈麗を戒めて倹約の政を求める上疏を行った。太宗はこれを甚だ善しとし、厚く賜物をした。
編者按(戈直)
- 婦人の身でありながら老練な学者にも劣らぬ諫言を行った徐恵を、太宗の内外の名臣・皇后に伍する存在として讃える。