貞観初:周と秦、天下取得の巧拙を問う
- 太宗は「周武王は紂の乱を平らげて天下を得、秦始皇は周の衰えに乗じて六国を併呑した。天下を得た経緯は違わないのに、国祚の長短がこれほど懸絶するのはなぜか」と侍臣に問うた。蕭瑀は「紂の無道に八百諸侯が期せずして集まり武王に従ったのに対し、六国には罪がなく秦は智力によって諸侯を呑み込んだ。天下を得た事情は同じでも人情としては異なる」と答えた。太宗は「周は殷に勝ってから仁義に務め、秦は志を得てからも専ら詐力を行った。取り方が違うだけでなく守り方も違い、国祚の長短はそこにある」と論じた。
編者按(戈直)
- 房玄齢の「創業難し」、魏徴の「守成難し」の議論と対比し、蕭瑀の言は創業の事、太宗の言は守成の事に当たると整理する。君臣が古今を論じるのは自らを省み今後の治に活かすためであり、太宗が即位したばかりの時に秦の失敗と周の成功を鑑みようとしたこの発言は、身に切実に引き寄せて考えたものと評す。
貞観二年:倉庫を満たすより民を富ませることを説く
- 太宗は王珪に、隋文帝が開皇十四年の大旱に倉庫を惜しんで賑給せず民を飢えさせ、末年には天下の蓄積が五、六十年分に達したこと、煬帝がその富を恃んで奢侈無道に走り滅亡を招いたことを挙げた。「国を治める者は民を富ませることに務め、倉庫を満たすことを目的にしてはならない。凶年に備えられればそれで十分であり、後嗣が賢ければ天下を保てるが、不肖であれば蓄積の多さはかえって奢侈を助長し、危亡の因となる」と述べた。
編者按(戈直)
- 三年耕して一年分の食を余す蓄積は民のためのものであるとし、蓄積が豊かになると侈心が生じ、かえって民を害するに至ると説く。太宗の「凶年に備えられればそれ以上の蓄積は無用」との言を古人の制国用の意にかなうものと評価する。
貞観五年:突厥啓民可汗の恩知らずを戒めとする
- 太宗は、亡国して隋に来奔した突厥の啓民可汗を隋文帝が援助して国を再興させたにもかかわらず、その子孫は強大になると恩を忘れ、煬帝を雁門で包囲し、後には頡利の代に至って自ら破られ滅んだ例を挙げ、「天道は善に福し淫に禍する。背恩忘義の帰結だ」と述べた。群臣も同意した。
編者按(戈直)
- 三代が夷狄に対し「来る者は拒まず去る者は追わず」であったのに対し、後世は懐柔を図ってかえって患いを招いたと説く。漢の宣帝が呼韓邪単于を立てて後の北辺の擾乱を招き、隋文帝が啓民可汗を援助して煬帝の雁門の囲みを招いたのも、三代のやり方を手本としなかったためであり、戒めとすべきだと評す。
貞観九年:突厥の内乱に亡国の兆しを見る
- 突厥内で大雪により人馬が多く死に、中国人までが山に入って賊となっているとの報告に対し、太宗は「古の君主を見るに、仁義を行い賢良を任じれば治まり、暴虐で小人を任じれば敗れる。頡利の信任する者にはろくな人材がおらず、百姓を顧みず思うままに振る舞っている。人事の面から見ても長くは持つまい」と述べた。魏徴は、戦国時代に魏の李克が「呉が真っ先に亡ぶ」と予言した故事(数戦数勝すれば主は驕り民は疲れ、亡びざるを得ない)を引き、頡利も隋末の混乱に乗じて数戦数勝を重ねてきた点で同じ道を辿ると述べ、太宗も深く同意した。
編者按(戈直)
- 太宗が突厥滅亡の徴を天災にではなく人事(忠良を用いず百姓を顧みないこと)に求めた見識を評価する。ただし魏徴の「呉の亡」の指摘は太宗自身の起兵以来の「数戦数勝」の歩みにも当てはまるものであり、後年太宗が老いてなお高麗遠征を起こしたことは李克の論に近く、太宗自身も「魏徴が生きていれば自分にこの遠征をさせなかっただろう」と語ったことと符合すると指摘する。
貞観九年:北斉・北周末代の君主の優劣を論じる
- 太宗は魏徴に、北斉後主が府庫の蓄えを使い尽くし関市にまで課税して民を苦しめた末に滅んだことと、自ら天元皇帝と称した北周宣帝の滅亡とを比べ、優劣を問うた。魏徴は「両者とも国を滅ぼした点は同じだが、行いは異なる。斉主は柔弱で政治が乱れ綱紀を失って滅び、天元は兇暴で強く威福を独占し、亡国の責めはすべて自身にある。これで論じれば斉主の方が劣る」と答えた。
編者按(戈直)
- 太宗が開基の明君でありながら亡国の凡庸な君主を鑑としたことを「鑑みるべきを知る」と評価する。ただし周敦頤の剛悪・柔悪の説を引き、天元の兇暴を剛悪、斉主の柔弱を柔悪とすれば、剛柔は異なっても亡国という結果は同じであり、単純に優劣で論じきれるものではないとも付言する。