貞觀政要貢納と賦税(貢賦第三十三)

貞観二年:地方が名声を求めて境外の物を貢に求める風潮を戒める

  • 太宗は朝集使に「土地に任せて貢を作るのは古の典に定められ、その地の産物を庭実に充てるべきものだ。近頃聞くところでは、都督・刺史が名声を得ようとし、自州の産物を『善からず』と嫌って境外まで物を求め、互いに真似し合ってこれが風俗になっている。甚だ煩わしいことだ。この風を改め、二度と行わせてはならない」と述べた。

編者按(戈直)

  • 『書』禹貢篇が「貢」を篇名としたのは水土が平らげられた治績を示すためであり、「土に任せて貢を作る」とは、その土地にあるものすべてを貢ぐという意味ではなく、宗廟・朝廷に不可欠な服食器用の常のものに限られるとする。唐の刺史が境を越えて物を求め互いに倣い合ったのは国に定制がなく度を越えたためであり、太宗がこれを深く懲らしめ改めさせたことを、王者が先になすべき務めだと評す。

貞観中:林邑国が献じた白鸚鵡を返す

  • 林邑国が白鸚鵡を献じた。性は聡明で応答に長け、しばしば苦寒(寒さに苦しむ)の言葉を発したため、太宗はこれを憐れみ、使者に付して林邑へ帰した(『資治通鑑』によれば貞観五年十一月、五色鸚鵡が献じられた際、魏徴が「受けるべきでない」と諫めたため、太宗は喜んでこれを帰したという)。

編者按(戈直)

  • 『書』に召公が武王を戒めた「犬馬はその土地の性でなければ畜わず、珍禽異獣は国に育てない」との語、また周の穆王が白狼白鹿を得て荒服(遠方の諸侯)が朝せなくなった故事を引き、太宗が林邑の白鸚鵡の献上を却けたことを、古の哲訓に遵い後世の失を鑑みたものと評す。

貞観十二年:西域諸国の朝貢を機に、秦皇・漢武を自らの戒めとする

  • 疎勒・朱俱波・甘棠(いずれも西域の国)が方物を貢いだ際、太宗は群臣に「もし中国が安寧でなければ、日南(安南の外の蛮国)や西域の朝貢がどうして至ろうか。私にどれほどの徳があってこれに堪えようか。これを見てかえって危懼の念を懐く。近代に天下を統一し辺方を平定した者は秦の始皇と漢の武帝のみだが、始皇は暴虐で子の代に亡び、武帝は驕奢で国祚がほとんど絶えかけた。私は三尺の剣をもって四海を定め、逺夷も服し億兆も安んじており、自らこの二人に劣らないと思うが、二人とも末路は身を保てなかった。だからこそ常に危亡を懼れ、公らの直言正諫に頼って自らを匡そうとしている。もし美を揚げ悪を隠し諂言ばかり進めるならば、国の危亡は立って待つほどのものになろう」と述べた(『資治通鑑』では貞観九年十二月の事とする)。

  • (唐仲友の評より)太宗が四夷の朝貢を機に秦皇・漢武を自ら戒めとし、輔弼の言を求めたことを、忠言を進めるべき好機と評しつつ、房玄齢らにこの機に杜漸(禍の芽を断つ)の言を進める者がなかったことを惜しむ。

編者按(戈直)

  • 『書』が、武王が商に克った後、西旅(西方の国)から献じられた獒犬を召公が慎徳の戒めとして「旅獒」を作り王を訓えた故事を引き、武王ほどの聖であってもこのように戒められたことを述べる。太宗が四夷の朝貢を機に秦皇・漢武を自ら戒めとし言を求めたことは、当時の大臣に召公のような戒めの書を著す者はいなかったにせよ、自ら危亡を懐き懈怠しなかった点で帝王の保治の道に叶うものだったと評す。

貞観十八年:高麗の莫離支泉蓋蘇文からの朝貢を、弑逆の使いとして退ける

  • 太宗が高麗征討を計画していた頃、高麗の莫離支(吏部・兵部尚書に相当する高麗の官)泉蓋蘇文(貞観十六年に高麗東部大人として王武を弑し、王弟の子の蔵を王に立てて自ら莫離支となった人物)が白金を献じてきた。黄門侍郎の褚遂良は「莫離支はその主を虐殺し、九夷(東方の九種族)にも容れられない者です。陛下が兵を興そうとするのは遼東の民のために主を辱められた恥を報いるためです。古は弑君の賊を討つ際、その賂を受けませんでした。昔、宋の督(華父)が魯の桓公に郜の鼎を贈った際、桓公はこれを大廟に受け入れましたが、大夫の臧哀伯は『徳を昭らかにし違を塞ぐべき君が徳を滅ぼし違を立て、賂の器を大廟に置けば百官もこれに倣う』と諫めました。武王が商に克って九鼎を雒邑に遷したことすら、伯夷のような義士に非難されたほどです。まして昭違の賂の器を大廟に置くなど論外です。莫離支の献上物を受けるべきではありません」と諫め、太宗はこれに従った(『資治通鑑』によれば、太宗は高麗の使者に「汝らは高武に仕え官爵を得ていながら、莫離支の弑逆に復讐できず、逆に大国を欺こうと遊説している。罪はこれより大きいものはない」と述べ、悉く大理に引き渡したという)。

  • (唐仲友の評より)「賊であることを名指ししてこそ服させられる」のが兵法であるとし、太宗が莫離支討伐の意を固めていたところに褚遂良の諫が符合したため、速やかに従ったのだと評す。

編者按(戈直)

  • 褚遂良が古今の例を引いて太宗に莫離支の献上を却けさせたことは善かったが、それによって太宗の兵を黷す忿りの心を消すには至らず、結局は遼水の征(高麗遠征)に至ったことを惜しむ。

貞観十九年(通鑑では二十年):高麗が献じた二人の美女を返す

  • 高麗王高蔵とその莫離支泉蓋蘇文(貌は雄偉で意気豪逸、常に五刀を佩び、貴人・武将にひれ伏させて自らその上を歩かせるなど、国人が甚だ苦しんだという専横ぶりであった)が、太宗に二人の美女を献じた。太宗は使者に「私はこの女たちが父母兄弟から離れて本国を離れることを憐れむ。もしその容色を愛でて心を傷つけるようなら、私はこれを取らない」と告げ、二人ともに本国へ返した。

編者按(戈直)

  • 『書』の「明王は徳を慎めば四夷みな賓し、遠近を問わず方物を献じる」との語を引き、そこに服食器用は挙げられても美女が貢とされた例はないとする。殷の紂が閎夭の美女の献を受けたことで西伯(周の文王)が興り、魯が斉人の女楽を受け入れたことで孔子が魯を去った故事を引き、古来、女子を間諜として敵国の耳目を惑わし心志を移す策謀は絶えなかったと指摘する。高麗の美女の献上もそうした計略の疑いがあり、まして興師討伐の時期であればなおさら慎むべきものであったとし、太宗が「その心を傷つけたくない」として返したことに、仁惻の情のみならずこうした深慮もあったのではないかとして、太宗を賢君と評する。