貞観四年〜十三年:突厥降者の安置をめぐる論争
- 李靖が頡利を破り突厥の部落が多数帰順すると、太宗は安辺の策を議させた。中書令温彦博は「河南(黄河以南、旧漢の五原塞の地)に部落ごと処し、旧俗を保ったまま撫育すべきだ。空虚な地を実らせ、猜疑なきことを示す含育の道である」と主張し、太宗はこれを容れた。
- 秘書監魏徴は「突厥はかつてない大敗を喫し、長年中国を寇して怨みを負っている。降者十万近くを河南に置けば、肘腋の間に心腹の疾を抱えることになる。むしろ河北の旧土に還すべきだ」と強く反対し、晋代に江統が胡人を関中に置くことを諫めて『徙戎論』を著したが武帝が用いず、後に永嘉の乱を招いた故事を引いて戒めた。
- 温彦博は「聖人の道は万物を包容するもの。突厥を教化し禁衛に任じれば懐徳して叛かない。光武帝が南単于を内郡に置いて漢代を通じて叛乱がなかった例もある」と反論し、太宗は結局温彦博の策を採り、河南・河北に順・祐・化・長の四州都督府を置いて突厥を安置した。長安に住む者も近く万家に及び、突厥の将軍・中郎将が朝廷に列した。
- 給事中杜楚客は「北狄は人面獣心、河南に近接させれば必ず患いとなる」と諫めたが、太宗は懐柔を優先しこれを容れなかった。涼州都督李大亮も「近きを安んじてこそ遠きを綏んずることができる。中国百姓こそ根本であり、招慰の使者を出し続けるのは徒労だ」と上疏したが、太宗はこれも用いなかった。
- 貞観十三年、突厥可汗の弟阿史那結社率が夜、御営を襲おうとした事件が発覚し誅殺されると、太宗はようやく突厥を疑うようになり、その部衆を内地から河北の故地に戻し、李思摩を可汗に立てて統べさせた。太宗は「中国百姓こそ天下の根本であり、四夷はその枝葉に過ぎない。根本を煩わせて枝葉を厚くしては久安を求められない」と述べ、当初魏徴の言に従わなかったことを事実上悔いた。
編者按(戈直・胡氏寅・唐氏仲友)
- (胡氏寅の評より)太宗が魏徴の善言を用いず温彦博の策を採ったことに対し、温彦博の策が太宗自身の内心の欲するところに阿ったのではないかと疑い、結社率の変を招いたことを厳しく批判する。また侯君集の謀反に連座して魏徴の婚姻縁組を切った太宗の態度と、温彦博の策が破綻した後もなお彼を咎めなかった態度との落差を指摘する。
- (唐氏仲友の評より)荀子の「徳をもって人を兼ねる者は王、富をもって人を兼ねる者は貧す」を引き、魏徴の策(河北の故地に還す)を用いていれば辺境に憂いも国費もなかったはずだと惜しむ。降者の処置は、内地に置けば後患となり、故地に還して藩国として服させるのが長策だと結論する。
- (愚按)春秋時代に秦晋が戎を伊川に遷し、後に伊雒の戎が王城に迫った故事を引き、江統の『徙戎論』を鑑とすべきだったとする。魏徴の忠言がしばしば太宗の心を動かしたにもかかわらず、この件だけ温彦博の議に従ったことを不審とし、突厥酋長が禁衛に列し長安に近く万家住むに至った状況を伊雒の戎の再来になぞらえ、後年の安禄山の乱の遠因になったのではないかと指摘する。
貞観十四年〜十六年:高昌を州県とすることの是非
- 侯君集が高昌を平定した後、太宗はその地を州県にしようとしたが、魏徴は「その民を撫し王子を立てて藩国とするのが伐罪弔民の道であり、州県として直轄すれば毎年千余人の鎮守を要し、往還の死者も多く、十年後には隴右が空虚になる。得るところより失うところが大きい」と反対した。太宗は従わず、高昌の地に西州を置き安西都護府とし、毎年千余人を遣って防衛させた。
- 黄門侍郎褚遂良も「古の哲后は中華を先にし夷狄を後にした。周宣王も獫狁を追い払うにとどめた。始皇帝が長城を築いて塞外を防いだのと違い、遠く高昌を直轄すれば河西の民が輸送に疲弊し、逃亡や死亡が相次ぐ。既に服した以上、旧に依り高昌の子弟を択んで王に立て藩国として存続させるべきだ」と上疏したが、これも容れられなかった。
- 貞観十六年、西突厥が西州に侵寇すると、太宗は「魏徴・褚遂良の勧めに従い麴文泰の子弟を高昌王に立てていればよかった」と悔い、漢高祖が婁敬の諫めを容れず平城に囲まれた後に婁敬を封じた故事、袁紹が田豊を誅殺した故事を引き、この二事を自らの戒めとしていたと述べた。
編者按(戈直・范氏祖禹・胡氏寅・真氏徳秀)
- (范氏祖禹の評より)太宗ほどの智でも魏徴の言の理を知らぬはずはなく、大を好み遠きを喜ぶ心が忠言を退けたと論じ、地を広げるより徳を広げ、兵を強めるより民を強めるべきだとの先王の道を説く。
- (胡氏寅の評より)高昌王の死をもって罪人は既に死んだとし、その子を立てて恩信で懐柔するのが不戦にして服させる道であり、州県化して郡県の民とするのは仁者のなすことではないと批判する。
- (真氏徳秀の評より)魏徴・褚遂良の諫めをいずれも用いず、事後に悔いを繰り返した太宗の姿を挙げつつ、過ちを知って悔いる姿勢自体が唐の興隆を支えたとも評す。
- (愚按)漢代以来の西域経営の歴史を振り返り、太宗の高昌平定と都護府設置が後の玄宗代の西域盛時につながった一方、天宝以後は西域の地がことごとく戦場と化したことを指摘し、「徳を広げることは地を広げることに勝る」との古訓を重んじるべきだったと結論する。