貞觀政要忠義を論ずる(論忠義第十四)
玄武門の変後、旧東宮兵を赦す
-
隠太子建成の側近であった馮立は、建成の死に「生きて恩を受け死んで難を逃げるべきではない」と兵を率いて玄武門で奮戦し将軍敬君弘らを殺したが、後に自ら出頭し、太宗の詰問に涙して忠節を述べた。太宗はこれを許し、後に突厥来襲時に功を立てさせた。斉王元吉の部下謝叔方も奮戦した末に自ら出頭し、太宗は「義士なり」として赦し官を授けた。
-
(唐仲友の評より)馮立・謝叔方は「一心で百君に事える」忠義勇敢の士と評する。
編者按(戈直)
- 二人の言動を子路の「食禄を受けて難を避けない」の教えに通じるとし、太宗が二人を旌表したのは興王の道に適うと評す。
貞観元年:姚思廉の忠節
-
太宗は隋滅亡の際、姚思廉が兵刃を恐れず代王侑を守り抜いた大節を「古人にも劣らない」と称え、絹三百段を贈った。義兵が長安を陥れた際、思廉は代王府の侍臣が皆逃げ散る中一人残り、兵士を「唐公は義兵を起こし王室を匡すためだ、無礼は許されない」と一喝して退けたという。
-
(張九成・唐仲友の評より)忠義の壮烈さと寡欲によって節義が立つことを称える。
貞観二年:魏徴・王珪、隠太子の葬送を願い出る
- 建成・元吉の改葬に際し、尚書右丞魏徴と黄門侍郎王珪は「かつて東宮に仕えた旧臣として葬送に列したい」と上表し、太宗はこれを義として許した。
編者按(戈直)
- 朱子の「管仲に功はあっても罪はないため孔子はその功のみを称えたが、王珪・魏徴には先に罪があり後に功があるので、功で罪を覆い隠すべきではない」との論評を紹介する。
貞観五年:隋の忠臣を語る
-
太宗が隋の忠臣を問うと、王珪は太常丞元善達(煬帝に還都を諫めて死んだ)、虎賁郎中独孤盛(宇文化及の反乱に一人抗戦して死んだ)を挙げた。太宗も屈突通(河東を守り抜き、後に唐に降ってなお「臣人の節を尽くせず恥辱だ」と泣いた武将)を「忠臣なり」と称え、王世充討伐の際「二児が洛陽にいても私情で義を害さない」と語った屈突通を「烈士の徇節」と評した。屈突通は唐でも忠節を尽くし、太宗は大業年間に直諫で誅殺された者の子孫を捜し出すよう命じた。
-
(唐仲友の評より)屈突通が唐に仕えたことをもって節義に反すると見るべきではなく、力戦して力尽きた末の降伏であり十分に隋への報いを果たしたと評す。
編者按(戈直)
- 姚思廉(軍国の重事に関わらぬ講読の官であったため死を選ばなかった)と屈突通(軍権を握る重臣でありながら唐に降った)の立場の違いを比較し、太宗の忠義称揚は思廉には適切だが屈突通にはやや評価が甘いのではないかと論じる。
貞観六年:陳叔達の直言を称える
-
太宗は陳叔達に「武徳年間、高祖に直言して朕の功績を擁護してくれたことに報いたい」と語ると、叔達は「隋の父子相誅殺の轍を踏ませたくなかっただけだ」と答え、太宗は「公は朕一人のためでなく社稷のために言ったのだと知っている」と応じた。
-
(胡寅の評より)陳叔達に私交の意図はなく公論であったとしつつ、太宗が武徳年間の直言を持ち出して臣下を後日の見返りに誘うような言い方をしたことを君道に悖ると批判する。
貞観八年:李桐客の疑いを晴らす
- 桂州都督李桐客の没後、遺族が真珠を売ったことに太宗が「清廉と評判だった人物なのに」と激怒したが、魏徴は「証拠なき疑いで賞罰すれば、屈突通・張道源のような清廉の臣まで疑われる」と諫め、太宗は自らの早計を認め咎めを撤回した。
編者按(戈直)
- 皋陶の「罰は嗣に及ばず、賞は世に延ぶ」との言を引き、魏徴の諫めがなければ太宗の君徳の疵になったと評す。
貞観七年(八年):黜陟使に魏徴を用いない理由
- 太宗が畿内道の黜陟使(地方官の考課使)を選ぶ際、李靖は「魏徴でなければ務まらない」と推したが、太宗は「魏徴は朕の是非得失を正す役目であり、片時も離すわけにいかない」として李靖自身を充てた。
編者按(戈直)
- 岑文本の「李靖の才は諸葛亮に及ぶが魏徴には及ばない」との評を紹介しつつ、李靖の才は太宗の足りるところを増すだけだが、魏徴の諫めは太宗の足りないところを補うものであり、貞観の世に李靖なしは可でも魏徴なしは不可だと総括する。
貞観九年:蕭瑀への「疾風勁草」の詩
-
太宗は蕭瑀に「武徳六年以後、高祖が太子廃立を考えた際、朕は兄弟に容れられず功高くして賞されぬ恐れがあったが、蕭瑀は利にも刑にも動じない真の社稷の臣であった」と語り、「疾風に勁草を知り、板蕩に誠臣を識る」の詩を賜った。
-
(范祖禹の評より)二心のない蕭瑀を見抜いた太宗の知臣の明を称える。
- (唐仲友の評より)蕭瑀の毀誉褒貶の激しい経歴と、太宗の詩がその時々の政治的意図を含んでいたことを指摘する。
貞観十一年:楊震の墓に祭文を捧げる
- 太宗は漢の忠臣楊震の墓に立ち寄り、讒言で自害に追い込まれた楊震のために祭文を捧げた。房玄齢は「数百年後に聖明の世に遇い、天子自ら祭られることは死してなお生きるに等しい」と述べた。
編者按(戈直)
- 異代の忠臣の墓を親祭する太宗の姿勢に、忠貞の臣への敬意の深さを見ると評す。
貞観十一年:豫譲の故事に寄せて忠義の稀少を嘆く
- 太宗は「衛の懿公が狄に殺され肉を食われた際、臣下弘演が自らの肝を割いて主君の肝を体内に納めた故事のような忠臣は、もはや見出しがたい」と語ると、魏徴は豫譲が「国士として遇されれば国士として報いる」と語った故事を引き、「君の礼遇次第で忠臣は現れる」と答えた。
編者按(戈直)
- 孔子の「君使臣以礼、臣事君以忠」と孟子の「君之視臣如手足」の言を引き、上に立つ者の感化が下の奮起を促すとしつつ、臣たる者は君の礼遇の有無にかかわらず尽心すべきだとも注記する。
貞観十二年:堯君素を追贈する
- 太宗は隋の鷹撃郎将堯君素が河東を守り抜き、屈突通の勧降にも応じず「大義は死なざるを得ない」と述べて忠節を貫いた末に殺害された経緯を詔で称え、蒲州刺史を追贈し、子孫を捜し出すよう命じた。
編者按(戈直)
- 漢の高祖が季布を赦した故事と対比し、季布は一時の敗軍の将にすぎないが、堯君素は孤城を四年守り抜いた忠義と才略を兼ね備えた稀有の存在であったと高く評価する。
貞観十二年:梁陳の忠臣の子孫を登用する
- 太宗が梁・陳の忠臣について問うと、岑文本は、隋軍が陳に侵攻した際、尚書僕射袁憲が独り主君の側を離れず、王世充の受禅に際しては袁憲の子承家が病と称して署名を拒んだ忠烈の家系を挙げ、太宗は承家の弟承序を晋王友兼侍読に召した。
編者按(戈直)
- 太宗が時代の隔たった梁陳の忠臣の子孫まで登用しようとした意を評価し、岑文本の公正さがなければ埋もれたままだったろうとする。
貞観十五年:周隋の名臣の子孫の罪を宥す
- 太宗は詔して、周・隋の名臣や忠節の子孫で貞観年間に罪を得て配流された者を調べて奏聞させ、多くを寛宥した。
編者按(戈直)
- 比干の霊を祭り楊震の墓を封じ堯君素を追贈し、さらに前朝の忠臣の子孫にまで恩恵を及ぼした太宗の好賢の姿勢を称え、貞観の盛世を支えた所以と総括する。
貞観十九年:高麗遠征中、安市城主の堅守を称える
- 太宗は高麗の安市城を攻めたが陥落させられず、江夏王李道宗が土山を築いて攻めても落とせなかった。撤兵に際し、太宗は「安市城主が臣節を守り堅守したこと」を称え、絹三百匹を賜り「主君に仕える者への勧奨」とした。
編者按(戈直)
- 太宗ほどの英武をもってしても異国の一城を制しきれなかった晩年の遠征を振り返り、敵将の堅守を称えて士気を鼓舞した意図は美しいが、そもそも武を黷(けが)さぬに越したことはなかったと評す。