北史卷九十二 恩幸

編纂の趣意

  • 令色巧言・矯情飾貌で寵幸を求めるのは苟進の常道だが、褻狎から生じた恩寵が寵権を専らにするに至れば、夏桀・殷紂が両代を滅ぼし、石顕・張讓が前後の京を傾けたのと同じ害をなす。魏では太和初めの王睿、孝昌末の鄭儼、宗愛の弑逆と王殺し、劉騰の廃后・戮相がその甚だしい例であり、その他にも売官・宮闈汚辱の徒が多かった。斉末はさらに甚だしく、書契以来未曾有の醜態を呈した。銭刀に心を寄せる者が台鼎の任に就き、菽麦の区別もつかぬ者が機衡の重を担い、西域の醜胡・亀茲の雑伎までが王に封ぜられ開府し、朝政を左右した。神武帝・文襄帝の代は概ね貞幹の臣を用いたが郭秀のような小人もあり、天保五年(554年)以降は通州刺史梁伯和・陸芃兒らの左右駆使の徒が政に関与しないため本伝には入れていない。大寧年間以降、奸佞が繁殖し斉の基業を覆した。
  • 『魏書』には恩幸伝・閹官伝、『斉書』には佞幸伝があり、ここではこれらを合わせ「恩幸篇」とする。旧書で鄭儼が恩幸伝にあったのは家伝に移し、その他はここに編集する。宦者の徒は特に亡斉の一因であるが醜聞が多く詳細は省き姓名のみを略記し、帝家の奴や胡人楽工で寵幸を得た者も付す。

王睿

  • 字は洛誠、自ら太原晋陽の人と称する。六世祖王横は張軌の参軍、晋の乱で武威姑臧に移り住んだ。父の王橋、字は法生、天文卜筮に通じ涼州平定後に入京、貧しく術で身を立て侍御中散に至った。王睿は父の業を継ぎ姿貌も優れ、景穆帝(太子)に見出され、興安初年(452年)太卜中散から令・領太史に昇った。承明元年(476年)文明太后の臨朝で寵を得、給事中を超遷、散騎常侍・侍中・吏部尚書、太原公の爵を賜った。内は機密に参与し外は政事に及び、朝士に恐れられた。太和二年(478年)、獣が檻を逃れ孝文帝の御座に迫った際、独り戟を執って防ぎ寵愛を深めた。三年(479年)八議に列し、四年(480年)尚書令・中山王に進み官属二十二人を置いた。沙門法秀の謀反事件では連座者の減刑を進言し千余人を救った。
  • 太后から夜ごと珍玩繒彩を賜り、田園・奴婢・牛馬も豊かに与えられた。病篤くなると孝文帝・太后が親しく見舞い、没後は衛大将軍・太宰・并州牧・諡宣王を追贈され、盛大な葬儀(哀詩百余人、廟の建立、高允撰の賛、新曲『中山王』の制作)が行われた。娘は李沖の甥に、次女は李恢の子に嫁ぎ、太后が自ら送迎するほどの厚遇を受けた。太原に本貫を移したため一族の封爵も并州の郡県に多く冠された。父橋・母賈氏にも追贈があった。

王襲・王椿――王睿の子と孫(附伝)

  • 子の王襲、字は元孫。王睿の死後、尚書令・領吏部曹を継いだが王爵は例により公に降格、太后崩後は次第に疎まれ并州刺史に出た。輿駕の巡幸時に称美の銘が路傍に立てられたことが問題視され降号された。豫州刺史を追贈され諡は質。
  • 弟の王椿、字は元寿。正始年間(504-508年)太原太守となるも事件で免官。僮僕千余人を養い園宅は華麗、巧思に優れ後世の法となる制作を多く残した。爾朱榮の汾胡(汾州の胡人反乱)慰撫に功があり真定県子に封ぜられ、瀛州刺史時代には風雹の変に上疏して政事を論じた。厳格な政治で恐れられ、天平末年(537年頃)に致仕、趙郡の西鯉魚祠山に隠棲して没し、尚書左僕射・太尉公・冀州刺史・諡文恭を追贈され、斉神武帝自ら葬送した。妻の巨鹿魏氏は明達で節操があり爾朱榮の妻からも敬われ、南和県君に封じられた。子がなく兄の孫叔明を後嗣とした。

王仲興

  • 趙郡南欒の人。父天徳は微賤から殿中尚書に至った。仲興は端謹で早くから左右に仕え越騎校尉に累進、孝文帝の馬圏での病から崩御まで侍護に努めた。宣武帝の親政後、趙脩と並び寵任され光禄大夫・領武衛将軍。咸陽王禧の出奔時には先に金墉城へ安慰に派遣され、上党郡開国公に封ぜられた。兄可久が仲興の威を借り徐州で司馬李長壽を殴傷させた事件で北海王詳に糾弾され、宣武帝は仲興の封邑を削った。並州刺史で没した。宣武帝時代には他に上谷の寇猛が武衛将軍として寵を得たが、燕州大中正に補されるなど士庶の区別を乱したまま州刺史を追贈されて没した。

趙脩

  • 字は景業、趙郡房子の人。父謐は陽武令。修は東宮で白衣左右として仕え膂力に富んだが暗愚で書疏に疎かった。宣武帝の親政で急速に昇進、その母にまで帝が親しく面会するほど寵愛された。北海王詳・広陽王嘉も逼られるほどの豪飲、郊廟の随行や禁内への騎乗など特別扱いを受けた。咸陽王禧誅殺後の財貨も多く分配され、父の葬儀には百官が弔祭し財用はすべて公費で賄われた。邸宅も広大に増築され隣人の土地を強奪的に併合した。
  • 出自の卑しさから奢傲が物議を醸し、王顕らの密告(葬儀時の淫乱不軌、玉印の隠匿事件への関与)により高肇・甄琛らが罪を構成、詔で鞭百(実質三百)の上、敦煌へ流罪となった。護送中に絶命した。死後、於勁がその遺族を庇護したが、他の旧交の朝士はみな距離を置いた。

茹皓

  • 字は禽奇、旧呉の人。父謙之は宋の巴陵王に従い後に淮陽上黨に寓居。県の金曹吏から南徐州刺史沈陵に見出され洛陽入りし孝文帝の白衣左右となった。宣武帝の寵を得たが趙脩に妬まれ濮陽太守に転出、趙脩失脚後も難を逃れた。清簡な太守として評判を保ち、左中郎将・領直閣として復帰、雁門を本貫と称し肆州大中正に任じられた。華林苑の造園(築山・奇石・竹木の移植)を主導し帝を喜ばせた。
  • 権勢が高まり北海王詳以下が憚るほどとなった。高肇の従妹を娶り、弟には安豊王延明の妹を娶らせるなど姻戚関係を広げた。高肇の讒言で北海王詳との共謀を疑われ、直閣劉胄・常季賢・陳掃静と共に南台で処刑された。妻は椒(毒)を食し夫に殉じた。
  • 劉胄、字は元孫、後に直閣将軍。常季賢は主馬から寵を得て司薬丞。陳掃静・徐義恭は共に彭城の旧営人で、掃静は茹皓と共に死んだが、義恭は元叉に媚びて左光禄大夫に至った。

趙邕

  • 字は令和、南陽の人と自称。司空李沖の家に出入りし諸子と交わり殿中監に至った。父趙怡は太常少卿・荊州刺史。宣武帝の郊廟随行では趙脩と共に「二趙」と称された。幽州刺史時代、范陽盧氏との強引な婚姻をめぐり相手の叔父を拷問死させ処刑されかけたが赦により免れた。孝昌初年(525年)に没した。

侯剛

  • 字は乾之、河南洛陽の人。料理の技で膳を進め嘗食典御に至り、宣武帝から「剛」の名を賜った。宣武帝崩後、崔光と共に明帝を東宮から迎え衛尉卿・武陽県侯。霊太后に游肇の再登用を進言するなど政治にも関与した。江陽王継・長孫承業が娘を子に嫁がせるほど権勢があったが、試射羽林を掠殺した罪で御史中尉元匡に弾劾され封邑三百戸を削られた。元叉執政期には侍中・左衛将軍として再び重用され、軍旅の費用に自らの俸禄を充てるなど尽力した。孝昌元年(525年)領軍、後に元叉の朋党として冀州刺史に左遷、家で没し永安中に司徒公を追贈された。

徐紇

  • 字は武伯、楽安博昌の人。文才で知られ中書舎人となるも趙脩に諂って連座、枹罕へ流された。徒役中も志を屈せず、逃亡兵五人を捕らえた功で赦され復職。清河王懌に重用されたが、元叉が懌を殺すと雁門太守を経て叉に媚び、霊太后の反政後は鄭儼に取り入り給事黄門侍郎として中書・門下を総攬した。機敏で多忙な政務を難なくこなしたが浮動で権勢を慕い、鄭儼と並び「徐鄭」と称されるほどの権勢を得た。爾朱榮の粛清を恐れ矯詔で兗州へ逃亡、羊侃を誘って反乱を起こしたが敗れ梁へ亡命した。文筆十巻が一部世に伝わる。

宗愛

  • 出自不詳、罪により宦官となり中常侍に至った。正平元年(451年)太武帝から秦郡公に封ぜられた。景穆帝(太子)の監国下で厳格な取締りに遭い恨みを抱き、東宮の侍臣を讒言で処刑させ景穆帝を憂死させた。太武帝崩御は宗愛の謀殺によるもので、皇后令を矯めて蘭延・和疋らを殺し秦王翰も殺害、吳王余を擁立し大司馬・大将軍・太師・馮翊王となった。専権を憂えた余が奪権を図ると、宗愛は小黄門賈周らに命じ余を暗殺した。文成帝の即位で誅殺され三族が滅ぼされた。

仇洛齊

  • 中山の人、本姓は侯氏。外祖父仇款は石季龍・慕容暐に仕えた。甥の魯元が太武帝に寵愛され、外戚の招聘に唯一自ら応じて閹人として入朝、給事黄門侍郎に至った。雑戸制度の弊害を上奏し郡県一元化に整理、平涼征討の功で散騎常侍・零陵公、侍中・冀州刺史・内都大官を歴任し諡は康。太武帝時代には他に段霸が謹敏で知られ中常侍・殿中尚書・定州刺史に至った。

王琚

  • 高平の人、自ら太原の出と称する。宮刑の後、小心に節を守り礼部尚書・広平公。孝文帝に信任され冀州刺史・広平王・高平王を歴任、孝文帝・文明太后の親幸を受けた。老いて散騎常侍のまま養老し、洛陽遷都にも老体で従い九十歳で没し冀州刺史・諡靖公を追贈された。

趙默

  • 字は文静、初名は海、涼州隷戸の出。涼州平定後に宮刑を受け改名、選部尚書・侍中・河内公に至った。献文帝の禅位問題で唯一「死をもって皇太子を奉戴する」と答え孝文帝の即位を支えた。李䐶との選官人事をめぐる対立で一時降格されたが、後に李䐶の失脚を助け尚書左僕射に復帰、定州刺史・王爵を得て司空を追贈され諡は康。

孫小

  • 字は茂翹、咸陽石安の人。父瓚は赫連屈丐に殺され小は宮刑を受けた。太武帝に聡識智略で仕え、并州・冀州刺史を歴任、清廉で知られたが養子への酷薄さもあった。

張宗之

  • 字は益宗、河南鞏の人。父孟舒は晋将劉裕に仕えたが叛乱に連座、宗之は捕らえられ腐刑を受けた。忠厚謹慎で侍御中散から儀曹・庫部尚書、彭城公を歴任、冀州刺史で没し懐州刺史・諡敬を追贈された。妻に迎えた蕭氏(宋の思話の姪)は婦人儀礼に精通し太和年間の六宮服制定に参与した。

劇鵬

  • 高陽の人。経史に通じ吏事に明るく、閽閹を恥じない性格で孝文帝の洛陽遷都後も宮官を務めた。幽皇后の薛菩薩への惑溺を諫めたが聞かれず発憤して没した。

張祐

  • 字は安福、安定石唐の人。父成は太武帝末に誅された。祐は腐刑を受け文明太后の代に王睿と並ぶ寵を得て隴東公・尚書左僕射・新平王に至り、孝文帝・文明太后が自ら邸に赴き宴会するほどの厚遇を受けた。二十余年無過失で仕え、王質ら十七人と共に不死の金券を賜った。没後は司空・諡恭を追贈され葬儀に孝文帝自ら近郊まで送った。養子の顕明(後名慶)は江陽王継の娘婿となり爵を継いだが降格された。

抱嶷

  • 字は道徳、安定石唐の人。先祖は郐氏、董卓の乱で改姓したと伝わる。隴東の張乾王の乱に連座し宮刑を受けた。中常侍・安定公に至り、諸奏議は正直で通った。父睹生を太中大夫に迎え孝文帝から手厚い餞別を受け、没後は秦州刺史・諡靖を追贈された。大長秋卿を経て涇州刺史となり南征にも従った。天性酷薄で弟侄にも恩恵を与えなかった。
  • 従弟の抱老壽・養子の馮次興(太師馮熙の子)が後嗣を争い、最終的に馮熙の子が継いだが老壽も後に爵を得た。老壽は酒色に溺れ御史中尉王顕に淫行を弾劾され免官、廷尉送りとなった。老壽・石栄の一族はそれぞれ碑銘を建てるほどの権勢を誇ったが、石栄の子長宣は侯景の乱に連座し伏誅した。

王遇

  • 字は慶時、本名は他惡、馮翊李潤鎮の羌族出身、鉗耳氏を改姓し宣武帝時代に王姓を賜った。宮刑を受け吏部尚書・宕昌公。幽皇后の廃立に諫言し一時免官されたが宣武帝初年に光禄大夫として復爵。工巧に優れ北都方山・霊泉の造営、文明太后陵廟、洛京の馬射壇殿、文昭太后墓園などを監督した。栄利を求める性向もあり趙脩の邸宅造営に加担し民を苦しめた。没後、北海王とその太妃が悲しんで見送り、雍州刺史を追贈された。

苻承祖

  • 略陽氐人。宦官となり文明太后の寵愛を受け略陽公に封ぜられ吏部尚書・侍中に至った。太后から不死の詔を約されたが、贓罪で死刑相当となった際、孝文帝がこれを許し禁錮に減じ、月余りで死んだ。

王質

  • 字は紹奴、高陽易の人。幼くして宮刑を受け、書学に通じ秘書中散・永昌子から選部尚書に至った。瀛州刺史時代は威酷な政で恐れられたが、孝文帝の信任篤く、馮太后崩御・馮后廃立・陸叡や穆泰の謀反事件など重大局面で璽書を託されるほどだった。大長秋卿で没した。

李堅

  • 字は次寿、高陽易の人。文成帝時代に宮刑を受け、謹慎な仕えぶりで王遇・王質には及ばぬものの重用された。太僕卿から瀛州刺史となり本州の栄誉は王質に並んだ。光禄大夫で没し相州刺史を追贈された。太和末年には秦松・白整も長秋卿を歴任した。

劉騰

  • 字は青龍、平原城の人、南兗州譙郡に移住。幼時に受刑し小黄門から中黄門に至った。孝文帝の県瓠での問いに幽皇后の秘事を語り信任を得た。霊太后臨朝下、於忠との連携の功で崇訓太僕・侍中・長楽県公。手が書を解さぬほど無学だったが人の意を読む策謀に長け、内外の細事を取り仕切り洛北の永橋・太上公・太上君や城東三寺の造営を主導した。
  • 吏部人事への恨みから元叉と共謀し清河王懌を殺害、霊太后を宣光殿に幽閉して宮門を昼夜閉ざし、明帝との面会も断ち、賈粲に密偵させた。元叉と「内外」を分担して四年にわたり生殺与奪の権を握り、百官が朝参前にまず邸に伺候するほどの権勢を誇った。財貨の収奪、鎮民の搾取、婦女器物の強奪も甚だしかった。占師の不吉な占いを無視し予言通り三、四月の交に没し、太尉・冀州刺史を追贈され盛大に葬られた。霊太后の反政後、爵位剥奪・墓の暴露・財産没収の上、亡命した養子も追捕され殺された。

賈粲

  • 字は季宣、酒泉の人。太和年間に宮刑を受け、元叉・劉騰らと結んで光禄勲卿に至り明帝の側近として動静を監視した。奚康生の元叉暗殺未遂の際、霊太后を欺いて宣光殿に閉じ込めた策謀の主導者。武威の縁者を要職に就けるなど威福を振るったが、霊太后の反政後、済州刺史に左遷され間もなく誅殺された。

楊範

  • 字は法僧、長楽広宗の人。文成帝時代に宮刑を受け王琚に養われた。霊太后臨朝下、中常侍・崇訓太僕・華州刺史となったが、父子で収賄が発覚し御史に糾弾され免官、後に復職して没した。

成軌

  • 字は洪義、上谷居庸の人。宮掖に仕え謹厚で知られ孝文帝の意を先読みして奏を進めた。南征に随行し延昌末年(515年頃)中常侍・嘗食典御に至り、孝昌二年(526年)始平県伯に封ぜられた。明帝の潘嬪の仮父を務め衛将軍で没し雍州刺史・諡孝恵を追贈された。

王溫

  • 字は桃湯、趙郡欒城の人。父冀は事件で誅殺され兄弟で宦者となった。宣武帝崩後、明帝を即位させる場に立ち会い、高陽王雍に警戒され巨鹿太守に左遷、霊太后臨朝下で中常侍・欒城伯に復帰した。建義初年(528年)、河陰の変で殺された。

孟欒

  • 字は龍児、出自不詳。霊太后臨朝下、左中郎将・給事中。病持ちで急死し、霊太后は深く悲しみ手厚い喪を賜った。

平季

  • 字は幼穆、燕国薊の人。宮刑を受け新興太守に至った。明帝崩後の荘帝擁立に爾朱榮らと参画し肆州刺史・中侍中を歴任、元城県侯に封ぜられ驃騎大将軍で没した。

封津

  • 字は醜漢、勃海蓚の人。父令徳の連座事件で受刑、給事宮掖から奉車都尉・中給事中に至り、霊太后の命で明帝の書を侍した。天平初年(534年)開府儀同三司・懐州刺史、元象初年(538年)中侍中・大長秋卿。没後、司徒・冀州刺史・諡孝恵を追贈された。

劉思逸

  • 平原の人。腐刑を受け中侍中に至ったが、武定年間(543-550年)に元瑾らと謀反し誅殺された。同時代の張景嵩・毛暢も明帝側近の閹寺として霊太后の意を伝える役を担い、元叉排除の陰謀に関与、後に元叉の妻の讒言で疑われ、暢は太守に左遷後殺され、景嵩は東魏孝静帝時代に事件で死んだ。

郭秀

  • 范陽涿の人。斉神武帝に仕え行台右丞・寿陽伯となり、張伯徳・祁仲彦・張華原らを取り立てた。病中に神武帝が見舞い七兵尚書に任じたが官牒到着前に没し、儀同三司・恒州刺史を追贈された。楊愔を嫉んで逃亡させた恨みから、その子孝義は郭秀の死後も終身斥けられた。

和士開

  • 字は彦通、清都臨漳の人、西域商胡の系で本姓は素和氏。父安は中書舎人、司空・尚書左僕射・冀州刺史・諡文貞公を追贈された。士開は聡慧で国子学生から長広王(後の武成帝)の寵を得、握槊や胡琵琶の芸で親密となり「殿下は天帝」「卿は世神」と称え合うほどだった。文宣帝に軽薄を疎まれ馬城に左遷されたが孝昭帝即位で召還された。
  • 武成帝即位後、給事黄門侍郎から侍中・尚書左僕射・尚書令・淮陽王を歴任、母の喪にも武成帝が厚く慰問し、日々召し出されるほどの寵愛を受けた。飲酒を諌める諫言や享楽を勧める言など、政務を委ねさせ堕落を助長した逸話が記され、武成帝臨終には伊尹・霍光に擬されるほど後事を託された。
  • 後主にも重用され胡太后とも密通、趙郡王睿・婁定遠・元文遙らの排除工作を計略で切り抜け淮陽王・尚書令に復帰した。琅邪王儼の誅殺計画で厙狄伏連らに殺され、太宰・司徒公・諡文定を追贈された。無学だが諂媚で富を集め、朝士の多くが仮子となるほど権勢を誇った。

安吐根

  • 安息胡人、涼州に居住した家系。蠕蠕(柔然)への使者として神武帝に情報を提供し信任され、涼州刺史・率義侯・儀同三司に至った。斉滅亡の年に没した。

穆提婆

  • 本姓は駱、漢陽の人。父超の謀叛連座で母陸令萱と共に掖庭に配され後主の乳母子として寵愛された。令萱の権謀により尚書左右僕射・領軍大将軍・城陽郡王に至り、和士開・穆昭儀と結んで斛律皇后廃立や穆昭儀立后を主導した。晋州陥落後は北周に投降したが謀反を企てて誅殺された。母の陸令萱は権勢を極めたが晋陽陥落時に自殺し一族は誅滅された。

高阿那肱

  • 善無の人。父市貴は神武帝の功臣。庫直から武衛将軍、儀同三司を経て後主の代に淮陰郡王・録尚書事に至った。無学だが讒言を弄さぬ性格で重用されたが、周軍の平陽侵攻を軽視して奏聞を怠り晋州陥落を招いた。天池校猟中の後主に「守りを固めよ」と進言するも聞かれず、後に済州で周軍に降伏、長安で大将軍・郡公となるも王謙の蜀での挙兵に加わり誅死した。

韓鳳

  • 字は長鸞、昌黎の人。父永興は開府・青州刺史。武成帝の東宮警護から後主に重用され、和士開誅殺事件の処理を主導し領軍大将軍・昌黎郡王に至った。高阿那肱・穆提婆と共に「三貴」と称され国政を専断、壽陽陥落の報にも「他家の物」と冷淡に対応するなど政務を顧みず、「漢狗(漢人)を切り刻んで馬に食わせたい」と放言するほど酷薄だった。周軍降伏後は隋に仕え隴州刺史で没した。

その他の宦官・佞幸

  • 神武帝の旧臣である韓寶業・盧勒叉・齊紹・秦子徵、武成帝時代の曹文摽・夏侯通・伊長游・魯恃伯・郭沙彌・鄧長顒らは宮中の駆使から次第に職を得た。特に鄧長顒は武平年間(570-576年)に宰相の政に干与した。陳德信も宰相の政に参与し開府封王を得た。潘師子・崔孝禮・劉萬通・胥光弁・劉通遠・王弘遠・王子立・王玄昌・高伯華・左君才・能純陀・宮鍾馗・趙野叉・徐世凝・苟子溢・斛子慎・宋元寶・康得汪ら後主朝の佞幸は奸佞で人を虐げ、開府・儀同・光禄大夫に至る者も多かった。波斯狗にまで儀同の位を与えるほどの濫賞ぶりで、神獣門外は宦官の休息所となり時人に「解卸曹」と呼ばれた。
  • 神武帝時代の倉頭陳山提・蓋豊樂、及び劉郁斤・趙道德・劉桃枝・梅勝郎・辛洛周・高舍洛・郭黑面・李銅鍉・王恩洛らも駆使から次第に貴盛となり、武平年間には開府封王に至った者もある。
  • 武平年間には胡人の子弟康阿馱・穆叔兒ら数十人が近侍に選ばれ、開府儀同に至る者もあった。曹僧奴・その子妙達は胡琵琶の技で開府封王、何海・その子何洪珍も開府封王となり洪珍は権勢を弄んで売官鬻獄を行った。何硃弱・史醜多ら舞踊・音楽に長じた者十数人も儀同開府に至った。音楽で大官に至った者として沈過兒(開府儀同)、王長通(十四五歳で通州刺史)が挙げられる。
  • 開府薛栄宗は鬼を使役すると自称し、周軍来襲時に「斛律明月に大軍を先発させた」と虚言を弄し、古塚を郭林宗の塚と偽られて幽鬼に会ったと妄言するなど、末期の朝廷にはこの種の妄誕が横行した。

史論

  • 古諺に「人の多幸は国の不幸」とあるように、寵私の害は古来忌まれてきた。大は国を傾け身を滅ぼし、小は賢を傷つけ政を害する例が多く、これを深く戒めるべきである。『詩経』の「殷鑒遠からず、近く夏后の世にあり」の句を引き、北魏以来の恩幸の弊はまさに後世の殷鑒であるとし、国家を治める者はこれを鑑としなければならないと結ぶ。