編纂の趣意
- 婦人の徳は温柔にあるが、節を立て名を垂れるのは貞烈による。温柔は仁の本、貞烈は義の資であり、両者相俟って仁義が成る。『詩書』の記す風俗、丹青の図像、竹帛の記録は、みな約を守り正に居り、身を殺して仁を成した者たちである。魯の義姑・梁の高行・衛霊公の妾・夏侯文寧の女らのように、信を抱いて真に会し、忠を踏んで義を践んだ者は存亡・盛衰に心を変えず、佳名は没後も朽ちない。逆に王公大人の妃で淫僻に流れ、衣食住の贅を尽くしながら史書に載らず草木と共に朽ちる者も多く、これは深く恥ずべきことである。
- 『魏書』『隋書』にはそれぞれ列女伝があるが、『斉書』『周書』にはない。ここでは武功孫道温妻趙氏・河北孫神妻陳氏を新たに加え、魏・隋二伝に付して「列女篇」とする。
崔覧妻封氏
- 魏の中書侍郎清河崔覧の妻封氏は勃海の人、散騎常侍封愷の女。才識があり聡辯強記で多くの故事に通じ、李敷・公孫文叔ら貴顕の者も近世の典故を知らぬ時は彼女に問うた。
封卓妻劉氏
- 勃海封卓の妻劉氏は彭城の人。結婚一夜で夫の封卓は京師で官に就いたが事件で処刑された。劉氏は家で夢見て夫の死を知り哀泣、間もなく凶報が届くと憤嘆して死んだ。時人は蘇武の妻秦嘉妻に比した。中書令高允はその義を惜しみ八首の詩を作って悼んだ。
魏溥妻房氏
- 钜鹿魏溥の妻房氏は慕容垂の貴郷太守常山房湛の女。年十六で夫魏溥が病死する際、幼子と老母を託され、大斂の時に自ら左耳を切り棺に投じて「鬼神知るあらば泉壌にて相まみえん」と誓い、姑を驚かせた。子の緝が生後十旬で夫を失い、以後終身音曲を絶ち宴席にも出ず、六十五歳で没するまで厳格に子を訓導した。子の緝は後に済陰太守となり、高閭がその碑文を撰した。
胡長命妻張氏
- 楽部郎胡長命の妻張氏は、姑の王氏に仕えて謹厚だった。太安年間の禁酒令下、老いて病の姑のために私かに酒を醸し告発された際、姑が自ら罪を負おうとしたが、張氏は「姑は釀を知らぬ、私が主家事として行った」と申し出、平原王陸麗の上奏により文成帝が義として赦した。
孫氏男玉
- 平原鄃県の女子孫氏男玉は、夫が零陵県人に殺されたため仇を自ら討とうとし、弟に止められると「女は夫を天とする、自ら復讐せずして誰の手を借りるか」と杖で仇を撲殺した。有司は死罪を上奏したが、献文帝は「節を重んじ身を軽んじた」として特に恕した。
房愛親妻崔氏
- 清河房愛親の妻崔氏は同郡崔元孫の女。厳明で高節があり書伝に通じ、子の景伯・景光に『九経』を自ら教授し当世の名士とした。景伯が清河太守の時、貝丘の不孝者を教化するため、母崔氏が自らその母を家に迎えて共に暮らし、二十余日で不孝者が悔悟した逸話が伝わる。
涇州貞女兒氏
- 涇州の貞女兒氏は彭老生に嫁ぐ約束を交わしていたが挙式前に老生が無理に迫り、拒んで殺された。臨終に「魂霊あらば必ず報いよう」と告げたという。太和七年(483年)、詔で「貞女」の号を賜り墓を旌表するよう命じられた。
姚氏婦楊氏
- 姚氏の婦楊氏は宦官苻承祖の姨(叔母)。承祖が文明太后に寵愛され栄達しても一人利を求めず、衣服も奴婢も受け取らず、破れ衣を着て労役をこなし、贈られた衣も密かに埋めるなど徹底して質素を貫き「痴姨」と呼ばれた。承祖失脚の際、姉妹の中で唯一その質素な暮らしぶりゆえに罪を免れた。
張洪祁妻劉氏
- 滎陽京県の張洪祁の妻劉氏は十七歳で夫を失い、遺腹の子も三歳で没した。舅姑に孝養を尽くし、兄が再嫁を勧めても生涯これを拒んだ。
董景起妻張氏
- 陳留董景起の妻張氏は十六歳で夫を失い、哀傷して蔬食長斎、子もなく貞操を守り通し郷里で称えられた。
陽尼妻高氏
- 漁陽太守陽尼の妻高氏は勃海の人。学識と文才があり孝文帝の命で後宮に仕え、幽皇后の上表文はすべて彼女の筆によるものだった。
史映周妻耿氏
- 滎陽史映周の妻耿氏は同郡耿氏の女。十七歳で嫁ぎ、太和二十三年(499年)夫の死後、父母に再嫁を強いられることを恐れ、葬儀の後に哀哭して自ら命を絶った。詔により門閭が表彰された。
任城国太妃孟氏
- 任城国太妃孟氏は钜鹿の人、尚書任城王元澄の母。澄が揚州で出征中、賊将姜慶真が羅城を襲った際、長史韋纘が動揺する中、孟氏自ら兵を率いて城壁に登り文武を激励し城を守り抜いた。霊太后は碑を建てその功を旌表させた。
苟金龍妻劉氏
- 梓潼太守苟金龍の妻劉氏は平原の人、廷尉少卿劉叔宗の姉。夫が関城戍主として病臥する中、梁軍の包囲を百日以上耐え、戦具を修理し夜も守戦を指揮、副将高景の叛逆を斬って鎮圧、水源を断たれた際は天に祈って雨を得、布絹で城壁から水を汲む工夫をして守り抜いた。益州刺史傅豎眼の援軍到来で梁軍が退き、その功が朝廷に報告された。正光年間(520-525年)、子の慶珍に平昌県子の爵が賜られた。
貞孝女宗
- 趙郡柏人の李叔胤の女、范陽盧元礼の妻。父の死に幾度も号泣し瀕死になるほどの孝を尽くし、嫁いだ後も母と離れる悲しみで衰弱を繰り返した。母崔氏の訃報に六日間水も口にせず、姑の付き添いで八十日かけ范陽から都へ奔喪し、柩に取りすがって没した。詔で「貞孝女宗」の号を賜り、その里は孝徳里と改められた。
河東姚氏女
- 河東の姚氏の女、字は女勝。父を早く失い母に育てられ孝行深く、正光年間(520-525年)母の死に十五歳で哭泣し衰弱死した。太守崔游が墓碑を建て、曹娥に比してその里を上虞里と改めた。
滎陽刁思遵妻
- 滎陽刁思遵の妻魯氏は、結婚一月足らずで夫思遵が没した後、再嫁を強いる実家に対し死をもって拒み、老いた姑と共に司徒府へ自ら訴え出た。普泰初年(531年)、詔で本司に旌表させた。
孫道温妻趙氏
- 西魏武功県の孫道温の妻趙氏は安平の人。万俟醜奴の乱で岐州が包囲された際、城中の婦女に「今州城が陥ちようとしている、共に憂いを分かとう」と呼びかけ、共に土を運んで夜通し城壁を補強し、城を賊から守った。大統六年(540年)、夫に岐州刺史、趙氏に安平県君が追贈された。
孫神妻陳氏
- 河北の孫神の妻陳氏は同郡の人。夫が遠戍に配される際、甥を身代わりに出そうとしたが陳氏が「国のための遠征に身内を代わりに出せば誰が納得しよう」と諭し夫を行かせた。夫は間もなく戍地で没し、柩の帰還に陳氏は一哭して息絶えた。文帝は詔でその門を表彰した。
蘭陵公主
- 隋の蘭陵公主、字は阿五、文帝の第五女。美貌で温順、諸女中で最も愛された。初め王奉孝に嫁ぎ、その死後十八歳で柳述に再嫁、他の姉妹と異なり婦道を守り姑に仕えた。晋王広(後の煬帝)が自妹を柳述の弟に嫁がせたい意向を退けられた恨みから、柳述失脚後に離縁と再婚を強要されたが死をもって拒み、柳述への同行流罪を願い出た。憂憤のうちに三十二歳で没し、遺言で柳氏への合葬を求めたが、煬帝は怒って薄葬に処した。
南陽公主
- 煬帝の長女南陽公主は許国公宇文述の子宇文士及に十四歳で嫁ぎ謹厚で知られた。宇文化及の弑逆に伴い聊城まで随行、化及が竇建徳に敗れると士及は西へ逃れたが、公主は捕虜となっても神色自若、建徳の前で亡国の恨みを訴え涙を流し、聞く者を感動させた。子の禅師は化及一族誅滅に連座しかけたが助命を拒み、剃髪して尼となった。後に士及と東都で再会するも復縁を拒み絶交した。
襄城王恪妃
- 襄城王楊恪の妃は循州刺史柳旦の女。恪が廃されても婦道を尽くし、煬帝の命で恪が誅殺される際「王が死ねば妾も生きぬ」と誓い、棺に取りすがって号泣し自経して殉じた。
華陽王楷妃
- 華陽王楊楷の妃は黄門侍郎元岩の女。楷が幽閉されても仕えて誠実だった。江都の乱で楷が殺されると宇文化及の党元武達に賜与され、自ら顔を傷つけて拒み、絶食して死んだ。
譙国夫人洗氏
- 高涼の洗氏は南越の首領の家に生まれ、賢明で軍を用いる才があり諸越を心服させた。梁の高涼太守馮宝に嫁ぎ、政令の秩序を確立、侯景の乱の際は李遷仕の反乱を計略で破り陳霸先を助けた。夫の死後も嶺表の乱を鎮め、子の馮僕が広州刺史欧陽紇の反乱に誘われた際も国への忠を貫き反乱を鎮圧させた。陳が滅びると隋への帰順を主導し嶺南を安定させ、隋文帝より宋康郡夫人・後に誠敬夫人の号を賜った。孫の馮暄・馮盎の反乱鎮圧にも尽力し、番州総管趙訥の貪虐を告発するなど嶺南統治に生涯を尽くした。仁壽初年(601年)に没した。
鄭善果母崔氏
- 清河の崔氏は滎陽鄭誠に嫁ぎ善果を生んだが、夫は北周末の尉遅迥討伐で戦死、二十歳で寡婦となった。父が再婚を勧めても「婦人に再嫁の義なし」と断った。善果が州郡の長官となってからも、政務の善悪ごとに叱咤激励し、常に紡績を続け質素倹約を貫き、公廨の供物も受けず、善果の廉吏としての評判を支えた。
孝女王舜
- 趙郡の王舜は父子春を従兄長忻夫婦に殺され、七歳の身で二人の妹を養い育てながら復讐の志を秘め、成人後に妹たちと共謀して長忻夫婦を殺し自首した。文帝はその孝烈を嘉して特に罪を免じた。
韓覬妻于氏
- 韓覬の妻于氏、字は茂徳、周の大左輔于寔の女。十八歳で夫が従軍中に没し、哀毀して喪に服し、再嫁を強いられても拒み夫の庶子世隆を嗣子として育てた。孀居後は親族との交際も絶ち蔬食布衣で終生を過ごし、隋文帝は詔でその門を「節婦門」と称えた。
陸讓母馮氏
- 上党の馮氏は子の陸讓(播州刺史)が贓罪で死刑になろうとした際、朝堂に詣でて自ら罪を数え、粥を勧めながら上表して哀を求め、文帝を感動させた。侍御史柳彧の進言もあり、讓は死罪を免れ除名に減刑された。
劉昶女
- 劉昶の女は河南長孫氏の妻。父劉昶は北周で駙馬・彭国公として権勢を誇ったが、子の居士が不法を重ね誅殺され、劉昶も連座して賜死された。劉昶女は父の投獄中、自ら食事を運び入れ、父の死に幾度も気絶しながらも、終生布衣蔬食で過ごした。文帝は「衰門の女、興門の男」と評した。
鐘士雄母蔣氏
- 臨賀の蔣氏は子の鐘士雄が晋王広の招撫に応じず反乱に加担しかけた際、「お前が背徳すれば我は自殺する」と諫めて思いとどまらせ、書を送って反乱勢力を説得した。文帝はその功を賞し安楽県君に封じた。
伊州寡婦胡氏
- 伊州の寡婦胡氏は志節高く、江南の乱に際し宗族に叛逆に加わらぬよう説き節を守り、密陵郡君に封じられた。
孝婦覃氏
- 上郡の孝婦覃氏は十八歳で夫を失い姑に孝を尽くしたが、数年のうちに姑や伯叔が相次いで没し、貧しい中十年で八人の喪を紡績で賄って葬った。文帝は米百石を賜りその門を表彰した。
元務光母盧氏
- 范陽の盧氏は寡婦となり幼子を貧しさの中で自ら教育した。漢王諒の反乱に連座して子の元務光の家が没収された際、慈州刺史上官政に逼られたが死を誓って拒み、燭で顔を焼かれても節を屈しなかった。
裴倫妻柳氏
- 河東の柳氏は渭源令裴倫の妻。大業末、夫が薛挙に殺された後、二人の娘と三人の嫁の美貌が禍を招くことを恐れ「賊に辱められるより共に死のう」と語り、皆で井戸に身を投げて死んだ。
趙元楷妻崔氏
- 清河の崔氏は趙元楷の妻。隋末の宇文化及の乱で夫と共に逃れる途中、賊に捕らえられ妻にされかけたが「士大夫の女、僕射の子の妻として賊の妻にはならぬ」と拒み、偽って従うふりをして油断させ、賊の刀を奪い自ら立って挑発し、乱射されて死んだ。後に元楷はその仇を捕らえ、支解して崔氏の柩に祭った。
史論
- 婦人は本来織紝・中饋(家事)を務め柔順を徳とするが、それは中庸を挙げたに過ぎず極みではないとし、明識遠図・貞心峻節を持ち志を奪われぬ者こそ高く評価すべきとする。魏・隋の列女伝に載る者は合わせて三十四人、王公妃主から庶人の妻まで、質は寒松に勝り心は石より堅く、忠壮誠懇な者、文采秀でた者もある。劉向が『列女伝』を編み杜元凱(杜預)がこれを継いだのに比べても、その美節は劣らないとし、蘭や玉のような貞節はその天性に由来すると結ぶ。