北史卷九十三 夏赫連氏・燕慕容氏・後秦姚氏・北燕馮氏・西秦乞伏氏・北涼沮渠氏・梁蕭氏

篇の趣旨

  • 晋の永嘉の乱以降、中原は胡・羯に分割され各勢力が天命を称したが、結局は互いに滅ぼし合い、最終的に魏の臣となった。魏が道武帝以前は王跡が明らかでなかったため、劉淵・石勒らのように時代が接続しない者は「四夷伝」に編入せず、道武帝以降に魏が併呑した勢力のみをこの篇に収め、その興亡を記す。
  • 晋・宋・斉・梁のように偏在した王朝でも三百年近く命脈を保った国は『魏書』が「島夷伝」として扱ったが、本書はこれも採らない。ただし蕭詧は帝号を称しつつ周の附庸となったため、この篇の末尾に「僭偽附庸伝」として収める。

鐵弗劉虎――匈奴と鮮卑の混血の始祖

  • 鐵弗劉虎は南単于の末裔で、左賢王去卑の孫、北部の帥劉猛の甥。新興慮虒の北に住んだ。北人は胡人の父と鮮卑人の母を持つ者を「鐵弗」と呼び、これが氏となった。
  • 父誥汁爰の跡を子の武が継ぎ、以下務桓、務桓の弟閼陋頭(密謀反逆)、務桓の子悉勿祈(閼陋頭を除いて即位)、悉勿祈の弟衛辰と代を重ねた。

劉衛辰――前秦と魏の間を去就した勢力

  • 衛辰は務桓の第三子。魏に子を人質に出し、道武帝の父昭成帝は娘を衛辰に嫁がせた。衛辰は前秦の苻堅に通じ左賢王に任じられたが、のち堅に叛いて魏に帰順、堅の将に敗れて捕らえられた。堅は自ら朔方に至り衛辰を夏陽公として部落を統べさせたが、衛辰は再び堅に降り、昭成帝に大破されて堅のもとへ逃げ込んだ。
  • 昭成帝の末年、衛辰は苻堅の魏南境侵攻の道案内をしたため魏軍は敗れ、堅は国を分けて河西を衛辰、河東を劉庫仁に属させた。堅はのち衛辰を単于とし、慕容永・姚萇もそれぞれ使者を送って王号を授けた。
  • 登国中、衛辰の子直力鞮が八九万の兵で魏の南部を攻めたが、道武帝は五六千の兵で車営を組んで抗戦し、鉄岐山南で大破。道武帝はさらに追撃して衛辰の本拠悅跂城を陥し、衛辰は部下に殺されて首を送られた。第三子の屈丐は薛幹部の帥太悉伏のもとへ逃れた。

赫連勃勃(屈丐)――大夏の建国

  • 屈丐(本名勃勃、明元帝が卑下の意で改名)は姚興に送られ、興の高平公破多羅沒弈于の娘を娶り、身長八尺五寸の体躯を興に見込まれて驍騎将軍・奉車都尉に任じられ寵遇された。興の弟濟南公邕は「屈丐は生まれつき不仁であり親しく用いるべきでない」と諫めたが、興は「屈丐には済世の才がある」として退けず、安遠将軍・陽川侯とし沒弈于の高平鎮を助けさせた。のち持節・安北将軍・五原公として三交五部鮮卑二万余落を配し朔方を鎮させた。
  • 道武帝末年、屈丐は沒弈于を殺してその衆を併せ、大夏天王を僭称(年号龍升)。姓を鐵弗から赫連氏に改め(「徽赫にして天と連なる」の意)、支族を鐵伐氏と号した。
  • 劉裕が長安を攻めると、屈丐は「裕が去った後に取るのは拾い物のようなものだ」と喜び、劉裕が姚泓を滅ぼして子義真に長安を守らせるとこれを大破、人頭を積んで京観(髑髏台)を築いた。灞上で皇帝を僭称(年号昌武)し、統萬に都した。
  • 屈丐は驕慢残虐な性格で、蒸し土で城壁を築かせ、錐が一寸入れば作業者を殺して塗り込め、武器の検査で失敗すれば工匠を数千人殺した。臣下の目を潰し、笑う者の唇を削ぎ、諫める者の舌を切った。子の璝を廃そうとしたところ璝が挙兵、子の昌がこれを討って太子となった。始光二年(425年)、屈丐は死去し、昌が僭立した。

赫連昌――北魏に敗れ捕らえられる

  • 昌(字還國、一名折)は屈丐の第二子。即位後、承光と改元。太武帝は屈丐死去後の関中の混乱に乗じ、軽騎一万八千で黄河を渡って統萬を急襲した。昌軍は動揺したが太武帝の軍は西宮の一部を焼くにとどまり撤収した。
  • 太武帝は昌の弟定と司空奚斤の対峙に乗じ再び西征。群臣は「城堅く軽騎では拔けない」と諫めたが、太武帝は「攻城具を揃えれば敵は守りを固める。軽騎で誘い出し決戦すれば勝てる」として敢行、黒水に陣し疲弊を装って昌軍をおびき出した。混戦の中、太武帝は落馬しつつ自ら賊将斛黎文を刺殺し、流矢を受けながらも戦い続け、昌軍は大潰して昌は上邽へ奔り、統萬は陥落した。
  • 太武帝は屈丐が築いた壮麗な宮殿を見て「小国でこれほど人力を費やしたのでは、滅びぬはずがない」と述べた。
  • 侍御史安頡が昌を捕らえ、侍中古弼が京師に送った。昌は魏の始平公主を娶り会稽公に封じられ秦王となったが、謀反の罪で誅殺された。

赫連定――夏の滅亡

  • 定(小字直獖)は屈丐の第五子。昌の敗北後、平涼に奔って尊号を僭称(年号勝光)。宋と結び恆山を境に河北を宋、河西を自領とする協定を交わした。狐の群れが不吉な兆しと語られたという逸話も残る。
  • 太武帝の親征で平涼を包囲され、水草を絶たれて敗走、傷を負いつつ単騎で逃れて上邽に拠った。神蒨四年(431年)、吐谷渾の慕璝に捕らえられ京師に送られ誅殺された。

慕容廆――遼西に興った鮮卑

  • 徒河の慕容廆(字弈洛瑰)は昌黎の出。曾祖莫護跋は魏初に諸部落を率いて遼西に入り、司馬懿に従い公孫氏を討った功で率義王に封じられ、棘城の北に王府を建てた。祖父木延は毌丘儉の高句麗遠征に従軍して左賢王を号し、父涉歸は単于に進み遼東に移った。涉歸の死後廆が部落を継ぎ、遼東から徒河の青山に移った。穆帝の代には東部の脅威となり、廆の死後は子の晃が跡を継いだ。

慕容晃(皝)――燕王を称す

  • 晃(字元真)は号年元年を称し燕王を自称した。建国二年、昭成帝は晃の娘を后に迎えた。四年、和龍に築城して都とした。高句麗を大破して丸都に入り、王釗の父利の墓を暴いて屍を焼き、宮室を焼き丸都を破壊して帰還。釗は後に臣従したため父の屍が返された。晃の死後、子の雋(儁)が跡を継いだ。

慕容儁(雋)――皇帝を僭称

  • 雋(字宣英)は即位後元年を号した。石氏(後趙)の乱に乗じて薊に遷都。建国十五年、皇帝を僭称(年号天璽、国号大燕)。十六年、鄴に遷都(年号光壽)。雋の死後、第三子の暐が跡を継いだ。

慕容暐――前燕の滅亡

  • 暐(字景茂、年号建熙)は政治に規律がなかった。苻堅の将王猛が鄴を攻めて暐を捕らえ、新興侯に封じた。
  • 道武帝の七年ごろ苻堅が淮南で敗れると(淝水の戦、383年)、暐の叔父垂は堅に叛いて鄴の苻丕を攻めた。暐の弟濟北王泓は雍州牧・濟北王を自称し垂を丞相・大司馬・呉王に推した。堅は子の钜鹿公睿を遣わし泓を討たせたが敗死、泓の弟中山王沖も挙兵して合流し泓の軍は十万に達した。泓が天下の分割を求めたため堅は激怒し暐を責め、暐は血を流して叩頭して謝罪した。
  • 暐は密かに泓に「大業を建てよ、我が死の報を聞けば直ちに帝位に就け」と伝えた。泓が長安に迫ると(年号燕興)、謀臣高蓋・宿勤崇らは泓が徳望で沖に劣り法が苛烈すぎるとして泓を殺し、沖を皇太弟に立てた。
  • 沖と姉清河公主はともに堅の寵愛を受け、長安では二人の艶聞を歌う謠が流行った。王猛の諫言で沖は堅のもとを離れたが、その母の死には燕の后の礼で葬られた。長安ではまた「鳳皇、鳳皇、阿房に止まる」との謠が流行し、沖の幼名鳳皇にちなみ阿房宮に梧竹が植えられたが、結局阿房宮は賊(沖)のものとなった。
  • 暐は苻堅の暗殺を図ったが術士王嘉の予言通り失敗し、堅は暐父子と一族、城内の鮮卑を老若男女問わず皆殺しにした。

前燕滅亡後の西燕の内訌

  • 廆の弟運の孫永(字叔明)は暐滅亡後に長安へ移り、貧しく夫婦で靴を売って暮らした。沖が長安に入って大掠奪を行うと、永は小将軍とされた。堅の治世末に関中に不気味な煙が数十里にわたり月余りも消えなかった逸話や、「長鞘馬鞭で左股を撃つ、太歳が南行すれば復た虜たり」との謠(西の人は徒河を白虜と呼んだ)が伝わる。
  • 登国元年(386年)、沖の左将軍韓延が民の怨みに乗じ沖を殺し、沖の将段隨を燕王に立てた(年号昌平)。
  • 沖の左僕射慕容恒と永が謀って段隨を殺し、宜都王の子覬を燕王に立て(年号建明)、鮮卑三十余万口を率いて長安を離れ東へ向かった。しかし恒の弟韜が覬を臨晉で殺害。恒はこれに怒って去り、永と武衛将軍刁雲が韜を攻め、韜は恒の陣営へ逃げた。
  • 恒は慕容衝の子望を帝に立てた(年号建平)が衆はみな永に帰し、永は望を捕らえて殺し、慕容泓の子忠を帝に立てた(年号建武)。忠は永を太尉・尚書令・河東公とし、垂の即位を知ると態勢を整えるべく燕熙城を築いて自固した。
  • 刁雲らはさらに忠を殺し、永を大都督・大将軍・大単于・雍秦梁涼四州牧・河東王に推戴し、垂に称藩した。
  • 永は長子に拠って皇帝を僭称(年号中興)。丁零の翟釗を降し東郡王としたが、釗が謀反を企てたため誅殺した。垂の来攻を受け永は敗れて捕らえられ処刑された。刁雲・大逸豆歸ら公卿以下四十余人も斬られ、永の統べていた人戸・服御・図書・器楽・珍宝はすべて垂の手に落ちた。

慕容垂――後燕の建国

  • 垂(字道明)は晃の第五子。父から「この子は闊達で家を破るか興すかのどちらかだろう」と評され、名は霸、字は道業とされた。雋(俊)の代、落馬した垂の歯にちなみ名を「缺」に改められ表向きは郤缺にならったが実は嫌ってのことだった。のち讖文により「夬」を除いて再び垂と名乗った。若くして偏将として各地を転戦し勇名を馳せ、雋の中原平定戦でも先鋒として功をあげ、皇帝僭称後は呉王に封じられた。
  • 車騎大将軍として桓温を枋頭で破り威名が高まったため暐に容れられず苻堅に奔った。堅は垂を厚遇し冠軍将軍・賓都侯に封じた。堅が淮南で敗れると垂の軍に身を寄せ、子の寶は堅の殺害を勧めたが垂は堅の厚恩を理由に拒み、墓参を名目に堅の許しを得て洛陽から兵を起こし苻丕を鄴に攻め、燕王を称した(年号燕元)。
  • 登国元年、垂は皇帝を僭称(年号建興)。中山に宗廟社稷を営み幽・冀・平三州を領有、道武帝と使者を交わした。五年、道武帝が遣わした秦王觚を垂が留めたため国交は断絶した。
  • 垂は慕容永討伐を計画したが、太史令靳安が「彗星の兆しから燕は野死の王を出し、五年を出でずして国は滅ぶ」と告げたため一旦中止。安は退いて「この勢いは長くは続かない」と語ったという(道武帝の興隆を暗に知っていたともいう)。丁零の翟遼が叛いて謝罪の使者を送るも垂は許さず、遼は自ら大魏天王を称して滑台に屯し垂と交戦、遼の死後は子の釗が継いだ。垂が滑台を克ち釗が長子へ奔ると、諸将は「永国には未だ隙がない」と征討を諫めたが、弟の范陽王德の後押しもあり垂は「もう歳を取った身、賊を残して子孫に憂いを遺したくない」として遠征、永を滅ぼした。
  • 十年、垂は太子寶を派遣して魏に侵攻させた。すでに垂は病を得ており、道武帝はその行路を断って父子の音信を絶ち、「汝の父はすでに死んだ、なぜ急ぎ帰らないのか」と偽って寶軍を動揺させた。占い師靳安の凶兆の警告にも寶は従わず進軍を続けたが、道武帝は黄河が凍結すると急追し、参合陂で寶軍を奇襲、寶軍四五万は一斉に武器を捨てて降伏、王公文武数千人が捕らえられた。垂は再征を図るも太史の凶兆の言を退けて出兵、参合陂の戦死者の遺骸の山を見て祭を行い、悲嘆のあまり発病し上谷で死去した。寶が僭立した。

慕容寶――後燕の混乱

  • 寶(字道裕)は垂の第四子。軽率で節操に欠けたが太子時代は自らを律していた。母段氏は生前「寶は雍容だが柔弱で決断力に欠ける。趙王驎は奸詐で寶を軽んじる心があり難を作すだろう」と垂に進言したが聞き入れられなかった。即位後(年号永康)、驎に逼られ段氏は自殺した。寶は母を「無母の道」として喪を軽んじようとしたが中書令眭邃の抗議で思い留まった。
  • 皇始元年(396年)、道武帝の南征で信都が陥ち、寶は中山、さらに薊へ奔った。子の清河王会は龍城から救援に向かうが寶に軍を奪われて怒り、遼西王農を殺して寶を攻撃。寶は龍城へ逃れ、侍御郎高雲が会の軍を破った。
  • 寶は垂の舅蘭汗のもとへ逃れたが、汗に殺され、子策ら百余人も殺害された。汗は大都督・大単于・昌黎王を自称(年号青龍)。子の婿であった盛は憐れまれて助命された。

慕容盛――蘭汗を討ち即位

  • 盛(字道運)は寶の長子。蘭汗が寶を殺した後、盛は侍中・左光禄大夫とされたが汗兄弟を離間させ、李旱・衛雙・劉志・張貞らと共謀し汗・穆父子を酔わせて夜襲、殺害した。皇帝を僭称し(年号建平のち長楽)庶人大王を自称、峻厳な刑罰で上下を震撼させたため、前将軍段璣らに夜襲され負傷、殿に運ばれた後、叔父の河間公熙に後事を託して死んだ。

慕容熙――暴虐と滅亡

  • 熙(字道文、小字長生)は垂の末子。群臣と盛の伯母丁氏の議により盛の子定を廃して熙を迎立、熙は定を殺し年号を光始とした。
  • 龍騰苑・逍遙宮・甘露殿など大規模な土木を興し、天河渠を宮中に引き込み妻苻氏のために曲光海・清涼池を作らせた。酷暑の中で工事を続けさせたため死者が多数出た。城南の柳の下で怪異に遭い樹を伐らせると大蛇が現れたという。寶の諸子を皆殺しにし、年号を建始と改めた。妻のため承華殿を築かせ、土を運ぶ苦役で土と穀物が同価になるほど困窮させた。典軍杜静が諫死を試みると激怒して斬った。
  • 妻の理不尽な要求(真夏に凍魚膾、真冬に生地黄)にも応じられなければ処罰した。苻氏の死に際し屍を抱いて悲嘆のあまり息絶えかけ、大斂後も屍と交わるなど常軌を逸した行動が伝えられる。百官に哭泣を強い、涙のない者を罰した。葬送では城門を壊して出棺し、長老は「慕容氏は自ら門を壊した、久しくないだろう」と語った。
  • 衛中将軍馮跋兄弟が門を閉ざして熙を拒み、これを捕らえて殺した。夕陽公雲(寶の養子、高氏に復姓、年号正始)が立てられたが、跋がさらに雲を殺して自立した。

慕容徳――南燕の建国

  • 晃の少子德(字玄明)は兄垂に重んじられた。苻堅が暐を滅ぼした際に張掖太守、垂の即位後は范陽王・司徒に封じられ、寶の即位後は鄴を鎮する大丞相となった。
  • 寶が東へ奔った後、群僚は德に即位を勧めたが德は従わなかった。皇始二年(397年)、道武帝が衛王儀を鄴に遣わすと德は滑台へ南走し燕王を自称(年号燕元)。冠軍将軍苻広が乞活壘で叛くと德は兄の子和に滑台を守らせ広を討ったが、和の長史李辯が和を殺して魏に降った。德は拠点を失ったが尚書潘聰の計により青・齊を得て広固に都し、皇帝を僭称(年号建平)。
  • 女水が涸れたことを凶兆として病に伏し、兄の子超に祈祷を勧められたが「人君の命が水の知るところか」として退け、超を太子とした。德の死後、超が僭立した。

慕容超――南燕の滅亡

  • 超(字祖明)は德の兄北海王納の子。即位後(年号太上)、南郊での祭祀で炎が煙を出さない異象があり、靈台令張光は「火盛んにして煙滅ぶ、国は亡ぶか」と語った。
  • 天賜五年、晋の劉裕が南燕を征討。将公孫五樓の大峴防衛策を退け、超は臨朐で劉裕に敗れ広固に籠城したが包囲された。広固では鬼哭や流星の怪異が伝えられ、城は陥落、劉裕は超を捕らえ建康の市で斬った。

姚萇――氐族と結び後秦を建国

  • 姚萇(字景茂)は南安赤亭の出、燒当羌の後裔。祖柯回は魏の姜維討伐で功をあげ綏戎校尉・西羌都督、父弋仲は永嘉の乱後に東遷し、劉曜・石季龍に仕えて平襄公・襄平公に封じられた。弋仲の死後、子の襄が跡を継いだが晋の桓温に敗れ苻眉に殺された。
  • 弋仲には四十二子があり萇は第二十四子。兄襄の従軍で頭角を現し、襄の敗北後は苻堅に降り従軍して功を重ねた。堅は晋討伐に際し萇を龍驤将軍に任じ「龍驤の号は今まで人に授けたことがないが、特に汝に与える」と語り、左将軍竇中は「王者に戯言なし、これは不吉な兆しだ」と諫めたが堅は黙した。慕容泓の挙兵鎮圧に従軍した堅の子睿が戦死すると、萇は司馬であった罪を恐れて逃亡、大将軍・大単于・萬年秦王を自称(年号白雀)し、数か月で十余万の衆を得た。慕容沖と結び苻堅を捕らえて殺した。
  • 登国元年、皇帝を僭称(国号大秦、年号建初)。長安を常安と改称し太子興に守らせ、苻登討伐で勝利を収めた。萇は苻堅の亡霊が兵を率いて営に突入する夢を見て発病、陰部を刺され夢と同様の傷が現れて狂言を発するようになり、間もなく死去、子の興が跡を継ぎ喪を秘した。

姚興――前秦の残党を平らげる

  • 興(字子略)は苻登を滅ぼしてから正式に喪を発表、皇帝を僭称(年号皇初)。天興元年、皇帝号を降して天王を称した(年号洪始)。洛陽を得て弟東平公紹に守らせ、天興三年に道武帝と使者を交わした。
  • 天興五年、弟義陽公平の四万の軍が平陽に侵攻し乾壁を六十余日包囲して陥した。道武帝が親征すると平は精鋭二百騎で偵察を試みるも捕らえられ、興は全軍を挙げて平を救援。柴壁で両軍が対峙し、道武帝は蒙阬の口を絶ち新阪の隘路を塞いで平の水陸路を断ち、興の攻勢も凌いで包囲を維持した。
  • 平は糧尽きて夜に突囲を図ったが、興の軍と呼応できず孤立、二人の妾と共に入水自殺した。将士四千余人も殉じ、道武帝は水中を捜索させ生存者を出さなかった。興は自軍の全滅を目の当たりにしながら救援できず数日間慟哭したという。興は再三和議を求めたが道武帝は許さず撤兵した。
  • 興の治世には雀の大群が廟で争い羽毛を散らす、殿から牛のような音がする、狐が城中を彷徨うなどの怪異が記録され、明元帝との間で使者・婚姻(西平公主の降嫁)を通じた交流が続いた。

姚泓――後秦の滅亡

  • 興の死後(泰常元年)、長子泓(字元子)が即位(年号永和)。晋の劉裕の長駆西征を受け敗れて降伏、建康で斬られた。

馮跋――慕容熙を討ち北燕を建国

  • 馮跋(字文起、小名乞直代)は長楽信都の出。父安は慕容永に仕えたが永が垂に滅ぼされると昌黎に東遷し夷俗に同化した。
  • 跋は酒に一石飲んでも乱れない一方、諸弟が素行不良な中で唯一謹厳であった。慕容熙の下で殿中左監から衛中将軍に進んだが事に坐して逃亡。熙の暴政に耐えかね、従兄萬泥ら二十二人と共謀し、跋と二弟が婦人に車を御させて龍城に潜入、孫護の家に匿われて熙を誅殺し、夕陽公高雲を主に立てた。雲は跋を侍中・征北大将軍・開府儀同三司・武邑公とし、政事はすべて跋兄弟が決した。
  • 明元帝の初め、雲が左右の者に暗殺されると跋は自立して燕王を称した(年号太平、永興元年〈409年〉)。契丹などを招撫し諸落が来附した。明元帝は謁者于什門を遣わし諭したが跋に留められた。泰常三年、和龍城に赤気が寅から申まで日を覆う異象があり、太史令張穆は兵気の兆しとして魏への朝貢帰順を勧めたが跋は従わなかった。明元帝は征東大将軍長孫道生に討伐を命じたが跋は城を固めて凌ぎ、道生は克てず撤退した。

馮弘――北燕の滅亡と高句麗亡命

  • 神蒨二年、跋が病に伏すと長子永が先に死去していたため次子翼が世子として国事を代行、非常に備え兵を掌握した。跋の妾宋氏は自らの子受居を立てようと翼を疎み、「主上の病は快方に向かっているのになぜ父に代わって国を治めるのか」と迫って翼を退かせた。宋氏は内外の情報を断ち閽人を通してのみ病状を伝えたため、翼や跋の諸子・大臣は誰も跋を見舞えず、中給事胡福のみが出入りを許され禁衛を掌握した。跋の病が篤くなると、宋氏の企みを憂えた胡福が跋の弟弘に知らせ、弘は兵を率いて宮中に入り、跋は驚愕して死去した。弘は即位し、翼は挙兵したが敗れて死んだ。跋の子百余人はすべて弘に殺された。
  • 弘(字文通)は跋の末弟。跋の代には尚書右僕射・中山公・領中領軍として禁衛と朝政を統括、司徒にも進んだ。自立後は宋氏(劉宋)と通好した。延和元年、太武帝の親征を受け弘は籠城したが、営丘・遼東・成周・楽浪・帯方・玄菟の六郡が降り、太武帝は住民三万余家を幽州に移した。尚書郭深は帰順して娘を差し出すよう勧めたが、弘は「これまでの経緯からして降れば死あるのみ」として拒んだ。
  • 弘は元妻王氏を廃し世子崇を退けて肥如に鎮させ、後妻慕容氏の子王仁を世子としたため、崇の同母弟広平公朗・楽陵公邈は「禍が迫っている」として遼西へ奔り崇に降伏を勧めた。太武帝は崇を遼西王に封じ遼西十郡を委ねた。弘は将封羽に崇を包囲させたが太武帝の援軍に阻まれ、封羽も凡城を挙げて降った。弘は尚書高顒を遣わし謝罪し娘を後宮に差し出したが、子王仁の入朝要求には応じず、諫めた散騎常侍劉訓を怒って殺した。
  • 太延二年、弘は高句麗に助けを求め、迎えに来た葛居盧らと共に城内の士女を率いて高句麗に亡命した。その前後、狼の群れが城を囲んで一年鳴き続け、鼠の大群が西方へ移動する、宿軍の地が燃え続けるなどの怪異が伝えられた。
  • 高句麗での待遇に不満を持ち、王仁を人質に取られるなど摩擦が生じ、再挙を図ったところ太武帝の要求を受けた高句麗により北豐で誅殺され、子孫十余人も死んだ。子の朗・邈は生き残り、朗の子熙は《外戚傳》に見える。

乞伏国仁――隴西に興る

  • 乞伏国仁は隴西の人。先祖如弗は漠北から南下し、五世祖佑鄰の代に諸部を併合して勢力を増した。父司繁は苻堅に降り南単于・鎮西将軍として勇士川を鎮めた。司繁の死後国仁が将軍となり、堅の敗北後、叔父步頹が隴石で反乱すると討伐を命じられたが、步頹はかえって国仁を推戴し十余万の部衆を得た。道武帝の代、大都督・大将軍・大単于・秦河二州牧を私署(年号建義)、部内を十一郡に分け勇士城を築いて都とした。

乞伏乾歸――金城・苑川を転々とする

  • 国仁の弟乾歸は大都督・大将軍・大単于・河南王を自称(年号太初)。登国中に金城に遷都するが城門が自壊したため凶兆として苑川に遷った。姚興に敗れて枹罕へ奔り降伏、河州刺史・帰義侯に封じられ苑川へ戻された。のち姚興に叛いて秦王を私称(年号更始)。田猟中に梟が手に止まるという異象があり、間もなく兄の子公府に殺された。

乞伏熾磐――禿髪傉檀を滅ぼす

  • 子熾磐は公府を殺して統を継ぎ、大将軍・河南王を自称(年号永康)。禿髪傉檀を樂都で滅ぼし、秦王を私称(年号建弘)。赫連昌討伐を助けるべく貢納・人質を差し出すなど関係を保った。

乞伏慕末――西秦の滅亡

  • 慕末(字安石跋)は即位後(年号永弘)、母の顔を誤って傷つけた尚書辛進の一族二十七人を誅殺。弟殊羅が熾磐の夫人禿髪氏と密通し叔父什夤と謀反を企てたが露見、什夤は腹を裂かれ河に投げ込まれ、什夤の弟らも殺された。政治は苛酷を極め内外は離反した。
  • 赫連定に逼られ太武帝に帰順を求め、安定以西・平涼以東を与えると約されたが、赫連定に阻まれて南安に籠城。城内は飢餓で人相食む惨状となり、神蒨四年、慕末は宗族五百余人と共に降伏、上邽に送られ赫連定に滅ぼされた。

沮渠蒙遜――段業を殺して自立

  • 蒙遜は張掖臨松盧水の出。匈奴の左沮渠の官職に由来する氏で、羌の酋豪は「大」を称号に冠したため大沮渠と号した。呂光のもとで軍を率い、叔父羅仇が乞伏乾歸討伐で戦死すると、その葬送を求めて金山に兵を集め、従兄男成と共に建康太守段業を推戴して神璽元年を称させた。
  • 業の猜疑を受けた蒙遜は男成を誣告させて業に殺させ、その怒りを利用して業を討ち、大都督・大将軍・涼州牧・張掖公を自称(年号永安、張掖に拠る)。同月、涼武昭王(李暠)も挙兵した(年号庚子)。
  • 永興年間、姑臧を陥して遷都、河西王を自称(年号玄始)。新台での閹人王懷祖による暗殺未遂を妻孟氏が撃退した逸話や、晋が姚泓を滅ぼしたと聞いて激怒した逸話が伝わる。泰常年間、敦煌を得て承玄と改元、宋にも称藩し司徒王弘に《搜神記》を求めて贈られた。
  • 太武帝から涼王に冊封され、崔浩が冊書を作った。延和二年(433年)に死去、諡は武宣王。性は淫らで刑戮を好み、閨房の礼を欠いたと伝えられる。

沮渠牧犍――北魏に降り誅される

  • 第三子牧犍が跡を継ぎ河西王を自称し、宋にも通交した。太武帝の妹を娶るはずだった縁で、蒙遜の死に伴い牧犍が妹を差し出し右昭儀とされた(年号承和)。太武帝は牧犍を車騎将軍・河西王とし、その母を河西国太后、太武帝の妹(武威公主)を国内では王后、京師では公主と称させた。
  • 太延五年、太武帝は牧犍の内心の背反を疑い親征。姑臧が陥落し、牧犍は面縛して降った。太武帝はなお征西大将軍として厚遇し、その母を王太妃の礼で葬らせたが、真君八年、府庫盗難事件の背景に牧犍父子の毒薬密造・近親相姦(李氏との姦通)や、術士曇無讖の男女交合の秘術を蒙遜の女・子婦に教えていた事件が発覚。崔浩が公主邸で牧犍に死を賜り、牧犍は自裁した。公主とは合葬され、公主の娘は武威公主として爵位を継いだ。

沮渠氏の一族の末路

  • 蒙遜の子季義は薛安都との謀反により処刑された。万年・祖は先に降伏していたため一時許されたが、後の謀反で共に死んだ。
  • 弟の樂都太守安周は吐谷渾へ、酒泉太守無諱は晋昌へ逃れ、無諱は酒泉を陥として征西大将軍・涼州牧・酒泉王に封じられたが、叛意を疑われて討たれ、流沙を越えて鄯善へ逃れた。安周を鄯善攻略に遣わし高昌の闞爽を降した後、無諱は病死し安周が立ったが柔然に併合された。

蕭詧――梁の分裂と西魏への内附

  • 梁帝蕭詧(字理孫)は蘭陵の人、武帝の孫、昭明太子統の第三子。幼くして学を好み文に優れ仏義にも通じ、梁武帝に賞された。昭明太子薨去後、簡文帝が立てられたことに常に不満を抱き、私財を蓄え賓客・侠客を集めて数千人を養った。中大同元年、西中郎将・雍州刺史に任じられ、襄陽の要地を根拠に刑政を整えた。
  • 太清二年、兄河東王譽が湘州刺史に、雍州刺史が張纘に交代したことから譽と纘が対立、侯景の乱に乗じて纘が譽・詧を梁元帝に讒言、元帝は世子方等・王僧辯に譽を攻めさせた。詧は激怒し、府司馬劉方貴に前軍を率いさせたが方貴は元帝と通じて反逆、詧は樊城に拠って抗戦し方貴を捕らえて誅殺した。詧は蔡大寶に江陵攻撃を命じたが大雨で敗れ、龍城に逃げ帰り、器械輜重の多くを失った。詧は蔡大寶に西魏への内附を求めさせた(西魏大統十五年)。
  • 梁元帝の柳仲禮による襄陽攻撃に対し、詧は妃王氏と世子{山愰}を人質に出して西魏の救援を求め、開府楊忠が援軍として派遣された。西魏の命により詧は喪を発表して嗣位、梁王に冊封され、承制により百官を封拝した。周文王への謝辞では功臣榮権への謝意を語る逸話が伝わる。
  • 魏恭帝元年、于謹の江陵攻略に協力、江陵陥落後、詧は皇帝を僭称(年号大定)。父統を昭明皇帝、母蔡氏を昭德皇后、生母龔氏を皇太后、妃王氏を皇后、子巋を皇太子とするなど帝制を整えたが、上疏では臣を称し西魏(周)の正朔を奉じた。周は江陵に防主を置き、名目は詧を助けるとしつつ実質的に監視した。
  • 王琳との抗争を経て、詧の四年から八年にかけ長沙・武陵・南平などの攻防が続き、周保定二年、詧は死去(時年44)。諡は宣皇帝、廟号中宗。

蕭詧の人物と最期

  • 詧は大志を持ち猜疑心が強い一方で人を知り任せる度量があり将士の心を得た。倹約を好み孝行に篤く、極端に婦人を嫌う奇癖(婦人の衣を再び着ない、輿丁に頭を覆わせる等)があった。
  • 江陵陥落後、宿将尹德毅は魏軍を宴に招いて謀殺する策を献じたが、詧は「魏は我をよく遇してくれた、恩を裏切れない」として退けた。のち領民が魏に連行され襄陽も失われたことを悔い「德毅の言を用いなかったためにこうなった」と嘆いた。
  • 憂憤のあまり『湣時賦』を著し、「老驥は櫪に伏すも志は千里に在り、烈士は暮年にも壮心已まず」を口ずさんで涙したという。最後は憂憤のあまり発病し死去した。文集十五巻、《華嚴》《般若》《法華》《金光明義疏》三十六巻の仏典注釈類も遺した。

蕭巋――梁と陳・北朝の間で生き延びる

  • 巋(字仁遠)は詧の第三子で機弁に富み文学に優れた。嗣位の年、祖母龔太后を太皇太后、嫡母王皇后を皇太后、生母曹貴嬪を皇太妃とそれぞれ尊号で称え、その年から翌年にかけ相次いで喪に服した。
  • 五年、陳の湘州刺史華皎・巴州刺史戴僧朔が来附し陳への出兵を求めた。巋は北周に上言し衛公直の督軍とともに江陵の柱国王操を派遣、沌口で陳の呉明徹らと戦うが敗れ、大将軍元定は戦死、大将軍李広らも捕虜となり長沙・巴陵を失った。衛公直は敗因を巋の柱国殷亮に帰し、巋はやむなく亮を誅した。呉明徹はさらに河東郡を陥し、翌年江陵に迫って城を水攻めにしたが、巋の将高琳・王操の防戦で撃退、竟陵の青泥でも将軍章昭達が撃退された。
  • 華皎・戴僧朔を厚遇し官爵を与えた。十年、皎の仲介で北周の衛公直に「梁が江南諸郡を失い困窮している」と訴えさせ、基・平・鄀三州を得た。
  • 北斉平定後、鄴に朝見した際、当初は軽んじられたが、宴席で父の恩義と二国の関係を涙ながらに語り帝を感動させ、以後厚遇された。齐の旧臣叱列長叉との応酬や、帝の琵琶に合わせて舞った逸話が伝わる。隋の尉遲迥・王謙・司馬消難らの反乱の際、将帥は連携を勧めたが巋は静観を選んだ。
  • 開皇二年、隋文帝に娘を晋王妃として納れ、四年に長安へ朝見。文帝は王公の上位に位置づけて厚遇し、縑万疋などを賜った。在位23年、開皇五年に死去(薨去に際し文帝は「梁主は久しく荊楚に留まった、いずれ旧都へ送り返そう」と語った)。諡は孝明皇帝、廟号世宗。文集・《孝経》《周易義記》《大小乘幽微》を著した。

蕭琮――梁の廃絶

  • 琮(字温文)は洒脱で文才に富み弓馬にも優れた。梁太子として即位(年号広運)、有識者は「運の字は軍走なり、我が君はまさに逃げ走るのか」と評した。大将軍戚昕による陳の公安襲撃は失敗に終わった。
  • 隋文帝は叔父岑を朝廷に召し留め置き、江陵総管を再置して監視を強めた。将許世武の陳への内応計画は露見して誅殺されたが、二年後に文帝が琮を招くと臣下二百余人を伴い入朝、留め置かれると江陵の父老は「我が君はもう戻るまい」と嘆いた。
  • 崔弘度が軍を率いて鄀州に至ると、琮の叔父岩と弟瓛らはこれを恐れて陳の兵を城下に引き入れ、住民を率いて叛いたため梁国は廃された。隋は左僕射高熲を派して江陵を安集し死罪を赦免、二代の梁主にはそれぞれ守墓十戸を給し、琮は柱国・莒国公に封じられた。
  • 詧の即位(乙亥)から梁の滅亡(丁未)まで33年であった。

蕭琮とその後

  • 煬帝の代、琮は内史令に累進し梁公に改封、一族も朝廷に列した。性格は淡泊で職務に執着せず、内史令楊約の忠告にも「事事に励めば公と何が違うのか」と応じた。
  • 楊約の兄楊素との応酬では、妹を鉗耳氏(羌族)に嫁がせたことを難詰されたが、先に別の妹を侯莫陳氏(虜)に嫁がせていたことを引き「羌を虜と混同したことはない」と切り返し、素を黙らせた。
  • 賀若弼と親交があったため、弼誅殺後に流行した童謠「蕭蕭亦復起」により煬帝に忌まれ免官。死後、左光禄大夫を贈られた。
  • 子の鉉は襄城通守。琮の弟の子钜(小名藏)は煬帝に寵愛され千牛となり、宇文皛と共に宮中で出入りし乱行を重ねた。江都の変で宇文化及に殺された。

蕭氏諸王

  • 詧の子{山愰}(孝惠太子と追諡)、岩(安平王)、岌(東平王)、岑(河間王のち呉郡王)。琮の弟の瓛(義興王)、曁彖(晉陵王)、璟(臨海王)、珣(南海王)、瑒(義安王)、瑀(新安王)が封じられた。

蕭岩――陳に投じ最後の抵抗者に推される

  • 岩(字義遠)は詧の第五子。仁厚で人望があり尚書令・太尉・太傅を歴任。陳に入り東揚州刺史となった。陳滅亡に際し百姓に推されて主となったが、総管宇文述に討たれ長安で処刑された。

蕭岌・蕭岑

  • 岌は詧の第六子、温和な性格で侍中・中衛将軍。巋の五年に卒し、司空を贈られ諡は孝。
  • 岑(字智遠)は詧の第八子で太尉に至った。琮の即位後、身分の重さを頼んで法を犯すことが多く、隋文帝により朝廷に召され大将軍・懐義郡公に封じられた。

蕭瓛――呉人に推されて最後の抗戦

  • 瓛(字欽文)は巋の第三子。文才に優れ荊州刺史として評判が良かった。崔弘度軍が至ると叔父岩と共に陳に奔り、侍中・呉州刺史として呉の人心を得た。
  • 陳滅亡後、呉人は「梁武帝・簡文帝・詧・巋いずれも第三子が帝位に就いた」との言い伝えから瓛を推戴、予言者謝異も加わって勢力を広げた。宇文述の討伐に対し王褒に呉州を守らせ自ら防戦したが、褒は道士に変装して逃げ、瓛も太湖に潜んだところを捕らえられ長安で斬られた。

蕭璟・蕭瑒・蕭瑀

  • 璟は隋に仕え尚衣奉御、瑒は衛尉卿・秘書監・陶丘侯、瑀は内史侍郎・河池太守となった。

蔡大寶――蕭詧の謀主

  • 蔡大寶(字敬位)は済陽考城の人。祖父履は斉の尚書祠部郎、父點は梁の尚書儀曹郎・南兗州別駕。
  • 若くして孤児となるも学問に篤く、対策により首席で出仕。徐勉に才を認められその子と学ばせられ、博く群書を修めた。詧の侍読・記室として仕え、会稽赴任時に望んだ諮議参軍職を得られず記室に就くことになった際「孫秀にならなければ人にあらず」と憤慨した逸話が残る。
  • 詧の襄陽赴任後は諮議参軍として謀議を一手に担った。梁元帝と河東王譽の不和を偵察に赴いた際、元帝の《玄覽賦》に三日で注解をつけて絶賛された。江陵に異図ありと詧に進言、後の内附方針の基礎となった。
  • 詧の称帝後は侍中・尚書令、柱国・軍師将軍・安豐縣侯に進み、巋の代には司空・中書監・中権大将軍等を歴任(司空は固辞し特進を加えられた)。巋の三年に卒し、巋自ら三度弔問、司徒を追贈され公に進爵、諡は文凱、詧廟に配食された。
  • 大寶は厳整で智謀に富み、詧の章表・書記・教令・詔冊はすべて彼が掌った。当時の人は「詧に大寶あるは劉先主に孔明あるがごとし」と評した。文集三十巻・《尚書義疏》を著した。子の延壽も梁の宣城公主を娶り要職を歴任、隋に仕えた。

蔡大業とその子孫

  • 大寶の弟大業(字敬道)は散騎常侍・衛尉卿・都官尚書・太常卿を歴任、諡は簡。子の允恭は太子舍人となり、梁滅亡後は陳・隋に仕えた。

王操――蕭巋を支えた柱国

  • 王操(字子高)は太原晋陽の人、詧の母龔氏の外弟。詧の外兵参軍から柱国・尚書僕射に進み、巋の呉明徹迎撃戦では将士の信を得て江陵防衛に貢献した。廉直な人柄で名声を得、卒去に際し巋は「天が我が賢相を早く奪った」と嘆いた。

蕭氏の他の重臣たち

  • 魏益德(襄陽の人)は柱国、卒後司空・忠壯公を贈られ詧廟に配食。
  • 尹正(天水の人)は張纘・杜岸の捕縛に功があり柱国、卒後開府儀同三司・剛公を贈られ詧廟に配食。子の德毅は権謀に長けたが後に疑われ賜死された。
  • 甄玄成(字敬平、中山の人)は江陵の甲兵の強大さを見て梁元帝に密書を送ったが発覚、日頃《法華経》を誦していた縁で罪を免れた。吏部尚書に至り文集二十巻を著した。子の詡は隋に仕えた。
  • 岑善方(字思義、南陽棘陽の人)は詧の襄陽赴任に従い外交使節を務め、起部尚書等を歴任、詧の信任篤く機密を委ねられた。文集十巻を著した。子の之元・之利・之象が名を知られ隋に仕えた。
  • 宗如周(南陽の人)は度支尚書に至り、蕭詧・蔡大寶との《法華経》をめぐる軽妙な問答が伝わる。
  • 袁敞(陳郡の人)は北周への使者として陳の使節との席次を巡り筋を通し、周武帝に評価され侍中・左戸尚書に進んだ。隋にも仕え譙州刺史で終わった。

史論

  • 論曰:魏晋以降の中原大乱の中、鐵弗・慕容らの割拠勢力は正統の帝位継承には数えられないが、いずれも一時の英傑であり、結局は魏に滅ぼされた。梁の蕭詧は謀才と人望を兼ね備え、南朝の分裂・骨肉相争う中でも江陵を保ち称藩しながら国号を保ち続けた点は賢と評しうる。子の巋も善政を継ぎ、隣国との折衝に長け、名君たる資質を示した。しかし孫の琮は国を去って戻らず外戚に転じ、自ら守りを固めることをしなかった。