北史卷九十 列傳第七十八藝術下 何稠

字は桂林、隋の造営の名匠

  • 字は桂林、国子祭酒何妥の兄の子。父の何通は玉を彫る名手。江陵陥落後、叔父何妥に従い長安に入り、北周で御飾下士、隋文帝の丞相就任時に参軍として召され細作署を掌った。開皇年間、太府丞。ペルシャ献上の金線錦袍を模して作った錦は本家を凌ぎ、途絶えていた瑠璃の技法を緑瓷で再現し文帝を喜ばせた。員外散騎侍郎に加官。
  • 開皇末、桂州の李光仕の乱討伐を命じられ、投降した洞主莫崇を策略で懐柔し夜襲で残敵を平定、莫崇・杜条遼・龐靖ら首領を降し州県官に任じて凱旋した。欽州刺史甯猛力の帰順交渉も信義で成し遂げ、猛力の子長真の入朝を実現し「何稠の信義は蛮夷にまで及んだ」と称賛され開府を授けられた。
  • 仁壽初年、文献皇后崩御に際し宇文愷と共に山陵制度を主管、文帝臨終の言葉「魂あらば地下で会おう」「何稠の判断に事後を託す」を受けた。大業初年、煬帝の江都行幸に際し輿服儀仗一式を短期間で完備し太府少卿。皮弁の簪導、佩綬、五輅の構造など多くの古制を改創した。遼東の役では戎車・鉤陳を製作、宇文愷が失敗した遼水橋を二日で完成させ、行殿・六合城(周囲八里)を一夜で築いて高句麗を驚かせ右光禄大夫に進んだ。江都で宇文化及の乱に遭い工部尚書、竇建徳に降り舒国公、建徳敗後は唐に帰順し少府監で没した。
  • 同時代の巧匠として、斉の劉龍(三雀台造営)、隋の南郡公黄亙・黄兗兄弟(何稠の下絵に基づき制度改創に従事)が付記される。

史論

  • 陰陽卜祝の道は聖哲の教えでもあるが専らにすべきでも廃すべきでもない、との総論から始まり、方術・伎巧に淫する者の害と、通じつつ俗に堕ちない者こそ君子に近いと説く。北魏以来の術数の士として晁崇・張深・殷紹・王早・耿玄・劉靈助・李順興・檀特師・由吾道榮・顏惡頭・王春・信都芳・宋景業・許遵・吳遵世・趙輔和・皇甫玉・解法選・魏甯・綦母懷文・張子信・陸法和・蔣升・強練・庾季才・盧太翼・耿詢・來和・蕭吉・楊伯醜・臨孝恭・劉祐・張胄玄ら多数の名を列挙し、その中でも江陵陥落後に斉に帰順した者らの節操を評価。周澹・李脩・徐謇・徐之才・王顕・馬嗣明・姚僧垣・褚該・許智藏の医薬の妙技を称え、特に姚僧垣の診候の精審さと済生の多さを高く評価する。老子の「天道は親しみなく常に善人に与す」の言を引き、許氏(許智藏一族)の鍼石の技、萬寶常の音律の才を伯牙・師曠に比し、蔣少游・何稠の技巧を「学問を没するが芸は下位」と評しつつも一時の妙とする。
  • 附記として、北周の時代、陰陽で名高い楽茂雅、相術で知られる史元華がいたが、その事跡は欠けていると記される。