楽安の画技・造営に優れた文人
- 楽安博昌の人。慕容白曜の東陽平定で捕らえられ平城に入り平斉戸、後雲中の兵に配された。画技・彫刻・文才に優れ、平城で写本業をしつつ中書寫書生に召され高允の下で高聡と共に中書博士となった。北方では出自を軽んじられたが高允・李沖のみが厚遇し、孝文帝・文明太后も「工人と思ったが士人だった」と評した。
- 李沖・馮誕・遊明根・高閭らの衣冠制定に参画、劉昶にも意見を求め六年かけて完成させた。散騎侍郎として李彪の使者に随行し江南へ、船舶・都水使者・将作大匠を歴任、華林殿・金墉門楼の改修も担当し「妍美」と称された。文才があったが職務に忙殺され、識者はこれを嘆いた。太常少卿・都水使者のまま没し龍驤将軍・青州刺史・諡質を追贈、文集十巻余がある。太極殿の造営にも董爾・王遇らと参画したが未完のまま没した。
- 同時代の技巧の士として、文成帝期の郭善明、孝文帝期の青州刺史侯文和(水中で射る舟の考案者、滑稽な話術)、宣武・明帝期の柳儉・関文備・郭安興(永寧寺九層仏塔の匠)が付記される。また孝文帝期の囲碁の范寧兒、樗蒲の高光宗、握槊(西域伝来の遊戯)の李幼序・丘何奴らの逸話も記される。