字は法衛、名医として三朝に仕えた重臣
- 字は法衛、呉興武康の人、呉の太常姚信の八世孫。父の菩提は梁の高平令で持病を機に医薬を学び梁武帝に重用された。姚僧垣は幼くして通達、喪に礼を尽くし二十四歳で家業を継いだ。梁の太医正・文徳主帥。梁武帝の大黄服用を諫めたが聞かれず病篤くなった。太清元年(547年)、鎮西湘東王府中記室参軍。梁簡文帝の世に中書舎人を兼ね、梁元帝の即位後は晋安王府諮議。元帝の心腹病を大黄で治し功により十万貫(実質百万)を賜った。魏軍の江陵陥落時も元帝の側を離れず捕らえられかけたが、周文帝(宇文泰)の使者に召され、於謹の強い要望で長安へ連行された。
- 武成元年(559年)、小畿伯下大夫。多数の治験(伊婁穆・賀蘭隆・竇集・叱伏列椿らの重病を的中診断・治療した逸話)が記される。天和六年(571年)遂伯中大夫。建徳三年(574年)文宣太后の重病を診て武帝に率直に伝え、太后崩後、驃騎大将軍・開府儀同三司。建徳四年、武帝の東征中の重病(失語・眼瞼下垂・片足萎縮)を治療し全快させ華州刺史。宣政元年(578年)致仕を願うも武帝が雲陽で発病し再び召され、内史柳昂の問いに「凡庶なら助からぬ」と答えた通り武帝は崩じた。
- 宣帝が東宮時代の心痛を治した縁で即位後厚遇され長寿県公に封ぜられた。大象二年(580年)太医下大夫、宣帝の危篤に「命は姚僧垣のみに委ねる」と隋公(楊堅)に言われ、僧垣は「力不足を恐れるが尽力する」と応じた。静帝の代に上開府儀同大将軍。隋の開皇初年、北絳郡公。開皇三年(583年)、八十五歳で没し、遺言により質素な葬儀とした。荊・湖二州刺史を追贈された。
- 医術で名高く『集験方』十二巻・『行記』三巻を撰した。長子の察は『南史』に伝がある。
姚最――姚僧垣の次子、著述家(附伝)
- 次子の姚最、字は士会、博学で著述を好み、麟趾殿の校書に加わり斉王宇文憲の水曹参軍として重んじられ、天和年間から家業の医術を学び十数年で極めた。隋文帝の代、太子門大夫、父の喪で去官、後に襲爵し蜀王秀の司馬。平陳の後、嫡子でないとして爵を兄の察に譲った。秀の謀反事件で「全ては自分の仕業で王は知らない」と身代わりに誅死。『梁後略』十巻を撰した。