王褒の書に押された能書家
- 字は徳本、南陽宛の人。父の遐は医術で魏に仕え尚薬典禦となった。文深は少くして楷隷を学び、十一歳で魏帝に書を献上した。後に義挙により朝廷に帰し大丞相府法曹参軍を除された。
- 鐘繇・王羲之の書風を体得し、当時の碑榜は文深と冀俊のみが担った。大統十二年(546年)義挙の功により白石県男に封ぜられた。文帝は隷書の乱れを正すため、文深・黎季明・沈遐らに《説文》《字林》に依拠して六体を刊定させ一万余言にまとめさせ世に行われた。
- 江陵平定後、王褒が関中に入り貴族らがこぞってその書を学んだため文深の書は顧みられなくなり慚恨したが、後に自らも王褒の書を学び直したものの大成せず「邯鄲で歩き方を学ぶ」と評された。ただし碑榜においては誰も及ばず、王褒自身もこれを推した。宮殿楼閣の題額はみな文深の筆による。
- 県伯下大夫に遷り、明帝の命で江陵の影覆寺碑を書き漢南の人士にも工みと評された。梁主蕭巋も感嘆し厚く賞した。天和元年、露寝などの完成に際し題榜の功で趙興郡守に除されたが、外任にあっても題榜のたびに呼び戻された。後に病で卒した。