隋の礼部尚書
- 隴西狄道の人。祖の世叙は魏の涼州刺史、父の霊補は北周の渭州刺史。九歳で孤児となったが不正な交際を絶ち経史に博渉し、天水の牛弘と共に学を好んだ。関中に入り京兆に家を構えた。周文帝はその器量を見て中外府礼曹に招き衣馬珠玉を賜った。国家草創期、朝廷の貴人の多くが武人だった中で儀注を修定できたのは彦之のみだったという。
- 北周閔帝受禅後、小宗伯盧弁とともに儀制を専掌し、典祀・太祝・楽部・御正の四曹大夫を歴任、開府儀同三司・五原郡公に封ぜられた。宣帝即位後は小宗伯を拝したが、帝が五皇后を立てたことを切諫し忤旨により免官された。
- 隋文帝受禅後、太常少卿を除され任城郡公に改封、開府に進み国子祭酒・礼部尚書を歴任、秘書監牛弘とともに新礼を撰した。帝が沈重と彦之を論争させた際、沈重は敵わず「辛君はまさに金城湯池、攻めどころがない」と席を避けて謝した。帝は大いに喜んだ。
- 随州刺史として出た際、他の州牧が珍玩を貢納する中で彦之のみが祭祀の供物のみを貢納し、帝は「人は学がなくてはならぬ、彦之の貢は稽古の力だ」と称賛した。潞州刺史に遷り前後とも恵政を施した。仏道を篤く信仰し城内に十五層の浮図を二基建てた。開皇十一年、州民の張元が急死し数日後蘇生して「天上で潞州刺史辛彦之の功徳のため建てられた新しい堂を見た」と語ったが、彦之はこれを聞いて不快に思った。その年に卒し諡は宣。
- 《墳典》《六官》《祝文》《礼要》《新礼》《五経異義》を各一部撰し世に行われた。子の孝舒・仲龕はいずれも早くから令名があった。